2011年9月15日木曜日

放火するキャプテン──天狗と狐と兎と和尚とキャプテン5


 誰にも等しく訪れたと思われる「天狗と狐と兎と和尚とキャプテン」の環境に関してなら、以上のようにいえるだろう。しかし、実際に観客のひとりひとりが経験したものは、かすかな指先のふるえからダイナミックな身体の動きまで、偶然座ることになった場所から出来事までの距離の違いで千差万別のはずだし、それよりなにより、私たちの感覚器官が、そもそも出来事をどのくらいのサイズで分節しているかが、経験の内容を決定する重要な要素であるにもかかわらず、そのようなものを客観的につきあわせることなどできない──例えば、暗闇のなかでもすらすらとテクストを読む宇波拓のバツグンの視力を見て、自分は明るいライトの下でもよく見えないと角田俊也が驚嘆していたが、こうした差異によって経験される出来事の質の相違を、通分するものなどどこにも存在しない──ので、ここからさきは、一般的な規則や法則の存在は考えにくく、まさしく観客の「心のキャンバス」が能動的に自分の内面から描き出す、決して一様ではないイメージが、出来事と触れあってスパークする面を、個人個人のレヴェルで、詳細に記述してみるという作業にゆだねるしかないように思われる。

 たとえパッチワークにせよ、散乱する出来事を縫合する上位審級がないということは、こうしたことを意味する。こんなとき、通分できない経験の多様性そのものに価値を置くという評価がおこなわれがちだが、実際にそれが多様であるかどうかをたしかめようとしてみればわかるように、それは評価しようにも初めから証明不可能なことなのだ。それでもなにかしら書きしるされ、語られなければならないとしたら、そこでなにができるかという表現のリミットの問題に、私たちは直面しているのである。実験音楽は実験批評を生産するということだろうか。

 秋山徹次の燃えるマイクロフォン、佳村萠のフライドポテトと野兎の着ぐるみ、宇波拓の段ボール、杉本拓のゴミ袋、坂本拓也の坊主頭など、すでに例示したものが、私の心のキャンバス上に描き出されたイメージ群なのだが、実際にはもっと細かな出来事もたくさん記憶している。たくさんの出来事のなかから、こうした一連のイメージが導き出されたのは、言語化されてはいないものの、私の心のキャンバスが、それらになにかしらの関連性を感じているからである。「大災害のような突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること──それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのだ。」というデュピュイの言葉を参考に、予測不可能だったこれらの出来事の間に、事後的に必然性を見出す作業をもって、ここでの実験批評としてみたい。

 比較的わかりやすいのは、マイクロフォン、着ぐるみ、段ボール、ゴミ袋などが、いずれもなにかが内側を埋めるために空洞をもった道具だという共通点であろう。音のはいらないマイクロフォン、着る人間のいない着ぐるみ、なにも梱包しない段ボール、捨てるもののないゴミ袋などは、これから起こる出来事を迎え入れるような、空白の領域を形作っているグッズだということである。

 マイクヘッドにバーナーの炎が入れられ、佳村萠が野兎に変身し、段ボールは塔のように積みあげられ、ゴミ袋のなかに頭がはいるなどの誤用が、これらのグッズを異物化=出来事化した。坂本拓也がパフォーマンスしていたライトの点滅が出来事化せず、“和尚” になるため、彼がいつもかぶっているしょうちゃん帽を脱いだことが出来事になったのは、杉本拓のテクスト・リーディングが方法論を備えたものであり、ゴミ袋をかぶる行為のように、じゅうぶんな廃物化を受けていなかったのとおなじである。

 ただ、パフォーマンスの間に坊主頭をさらしたことは、上述したような空白の領域を作るグッズ(しょうちゃん帽のこと)そのものの異物化とは逆過程になっている。自分をさらすことが非日常を構成する坂本にとっては、帽子をかぶらずに坊主頭をさらすことのほうが、異物化の度合が高いのである(私が撮影した写真をその場で見た彼は、一言「気持ち悪い」と言った)。奇妙な言い方だが、坂本は帽子を脱いで「坊主頭をかぶった」──木下和重がよくかぶる “ズラ” を連想させられる──といえるかもしれない。

 さて、公演中に千駄ヶ谷の街を歩いた野兎の佳村萠は、街の風景にとってじゅうぶんに異物だったろうが、それならば、彼女が買ってきたフライドポテトはどうなのだろう。演奏中に散歩して、お土産に買ったフライドポテトを観客にふるまうということ自体が異常事態だが、上述した廃物化と直接結びつかないそうしたパフォーマンスを別にすると、むりやり口に食べ物を押しこまれたわけではないにせよ、おそらくこれは、なにもはいっていないからっぽの観客の口に、フライドポテトをつっこむというところに、形式的な類似性を見出すべきかもしれない。野兎からもらったフライドポテトを食べるというのは、一生に何度もある経験ではないだろう。というか、おそらく二度とない経験と思われる。そのことが強烈な印象となって、心のキャンバスに刻印されたものと思われる。


[初出:mixi 2011-04-03「放火するキャプテン」]

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■天狗と狐と兎と和尚とキャプテン
 日時: 2011年3月25日(金)
 会場: 東京/千駄ヶ谷「ループライン」
  (東京都渋谷区千駄ヶ谷1-21-6 第3越智会計ビルB1)
 開場: p.m.7:30、開演: p.m.8:00
 料金: ¥2,200+order/25日26日通し券: ¥3,500+2orders
 出演: 杉本拓、宇波拓、佳村萠、坂本拓也、秋山徹次
 予約・問合せ: TEL.03-5411-1312(ループライン)