2011年9月30日金曜日

コウは航海の航


『山吹』
(Libra, LIBRA 203-012)
曲目:1. Sola(作詞:航、作曲:藤井/7:06)
2. 坂(作詞・作曲:航/4:46)
3. マド(作詞・作曲:航/3:32)
4. Untitled(作詞:田村夏樹、作曲:藤井郷子/3:43)
5. 春よこい(作詞:相馬御風、作曲:弘田龍太郎/3:41)
6. 月の砂漠(作詞:加藤まさお、作曲:佐々木すぐる/6:57)
7. Pakonya(作詞:田村、作曲:藤井/5:33)
8. あぜ道(作詞・作曲:航/4:37)
9. 白磁白砂(作詞:航、作曲:藤井/4:34)
10. 夏の樹(作詞・作曲:航/1:42)
11. はじめてのデート(作詞:田村、作曲:藤井/3:12)
演奏:航(vo, p)
藤井郷子(p)
テッド・ライクマン(acc)
録音:2004年11月29日
場所:System Two, New Tork
エンジニア:Rich Lamb
解説:松尾史朗
発売:2005年10月23日



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 “航(こう)” という変わったアーチスト名を持つ彼女は、東京のライヴハウス “アピア” などで、ピアノの弾き語りを聴かせる新進気鋭の女性歌手。「心の海に船を出し、音楽の島を旅する」イメージから、航海の「航」の字を取って名前にしたという。

 クラシック・ピアノは、お稽古ごととして子供の頃から習っていたが、歌うことに目覚めたのは、一橋大学に通っていた19歳のとき。その後、国立音大のリトミック科に再入学、卒業してからいくつかのバンドにヴォーカリストとして参加するうち、藤井郷子(p)と知りあうことになる。本盤がリリースされた2005年は、国際音楽療法専門学院で音楽療法を学んでいた。これまでのところ、2002年にCD-Rで製作した私家版のアルバム『春秋歌集』をライヴで手売りしてきたくらいで、今回藤井がプロデュースした『山吹』が、実質的なデビュー作になる、というのがおおざっぱな経歴だ。

 アルバムに収録されたのは、「坂」「マド」「あぜ道」「夏の樹」など、航のオリジナル曲4曲の他に、航の詞に藤井が曲をつけた「白磁白湯」、藤井の曲に航が詞をつけた「Sola」、藤井郷子オーケストラでお馴染みの曲に田村が詞をつけた「Untitled」「Pakonya」、田村/藤井が航に書き下ろした「はじめてのデート」、そして童謡「春よこい」「月の砂漠」など全11曲。2004年11月26日ニューヨーク録音。

 藤井郷子の他にテッド・ライクマン(acc)が伴奏を務めている。ライクマンのアコーディオン伴奏は、普通にダンス・リズムを刻むようなものではなく、まるで笙のようにサウンドをゆらゆらと漂わせるユニークなものとなっている。ライナーノートは松尾史朗が担当した。

 航は、言葉にソウルフルな情感を乗せて歌っている。ソウルフルなのではあるが、ビブラートを多用して感情の襞まで歌いこんだりせず、むしろ対象を突き放すストレートな歌い方をしている。航ならではの声の硬質さが、人生のある瞬間を結晶させた歌の情景に、さわやかな叙情性を与えている。静かな情景のどこかに魂が揺曳している感覚といったらいいだろうか。アジアのソウルフルといったらいいだろうか。

 本盤では際立っていないが、彼女はおそらく独特な語り歌のスタイルも持っていると思う。というのも、「Pakonya」の中間部に、『平家物語』の冒頭を即興的に読む場面が登場するのだが、航はそこで異能のひと三橋美香子の説話歌を思わせる情念的な語りを披露しているからだ。物語性をそなえた歌は、田村が作詞したへなぶり歌「はじめてのデート」だけなので、はっきりとは言えないのだが、航にあって、ソウルフルな情景描写と情念的な語りは背中合わせの関係になっているのではないだろうか。

 突き放した叙情性を歌うことのできる声の硬質さ。歌に言葉や声を自由に挟みこんだり、言葉よりも響きの魅力によって歌を進めたりする、サウンドに対する耳のよさ。メロディー・フェイクの才能。経験のない即興的展開にも動じることのない度胸。航のそんなところに、藤井郷子は魅力を感じたのだろう。

 航の歌の世界はまっぷたつに割れ、こちらがわ、自分が立っている足元は影になって暗く、あちらがわ、彼方に見える風景は強い陽光を浴びてまぶしく輝いている。ふたつの世界の間にあるのはよもつひらさか。黄泉平坂。現世と黄泉との境にあると想像される坂。あるいは厚い壁に厚いガラスのはまった窓。あるいはコンクリート雲の壁。坂道を犬のようにはい登り、厚いガラスを割り、そそり立つ壁を突き崩そうとする強い衝動が、航の歌の源泉となっている。

 現世と黄泉の世界に象徴されるふたつの世界は、しかし決して神話的なものではなく、おそらく実際の声のふるまいを投影したものだろう。すなわち、「情景」から「物語」へと架かる橋の真ん中で、航(の声)はたたずんでいる。歌のなかで情景が動きだし、物語が始まれば、航は橋を渡り切ったということになるだろう。声は動きたがっている。しかし航そのひとは果たして自分がこの橋を渡り切れるかどうか危うんでいる。橋のうえ、あるいは坂道に立つ彼女は、さなぎが蝶になるような変態期にあるのだろうか。藤井郷子が航と出会い、その歌や声と関わることで新たな変態期を迎えようとしていることと、それはどこかで共振する出来事だったに違いない。


[初出:mixi 2005-10-23「コウは航海の航」/加筆修正のうえ再掲載]

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■ Koya Records[航] http://koh.main.jp/main.html