2011年10月5日水曜日

実験音楽と即興演奏

第3回パネリスト。左から、秋山徹次、中村としまる、今井和雄


シリーズ「実験音楽を語る」第三回
実験音楽と即興演奏
出演: 今井和雄 秋山徹次 中村としまる
日時: 2011年3月21日(月・祝日)
会場: 千駄ヶ谷ループライン
(東京都渋谷区千駄ヶ谷1-21-6 第三越智会計ビルB1)
TEL.& FAX.03-5411-1312
開場: 19:00,開演: 19:30
料金: ¥2,000+order
司会進行: 北里義之 企画構成: 音場舎
主催: 音場舎


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 フォーラム「実験音楽を語る」シリーズの最終回<実験音楽と即興演奏>は、今井和雄、秋山徹次、中村としまるのお三方をゲストパネラーに迎えた。セッティングに時間がかかるため、バイブレーションを発する様々なオブジェふうの小物類を、演奏者の周囲に配置しておこなう今井氏によるデモンストレーション・ライヴ(30分)を冒頭でおこなった。休憩時間にステージを入れ替え、各パネラーの前に丸テーブルを配した後半のフォーラムは、最初に、中村、秋山、今井の順で、個別の演奏や方法論をめぐるお話をいただいてから、次のステップでフリー・トーキングをおこなうという、これまでの「実験音楽を語る」に準じる流れで構成した。

 フォーラムのなかばにいれた短い休憩時間に、「実験音楽と即興演奏」のテーマに関する部分が見えてこないという会場からの意見をいただき、トークの後半は、司会者である私の見解を述べることから、議論の糸口を探すこととなり、60年代のニュー・ジャズ/フリー・ジャズの時期、あるいは現代音楽が即興演奏と深く関わった時期に試みられた社会モデルとしての即興演奏という、今回のテーマに対する私自身の基本イメージを話した。既成の社会モデルから新しい社会モデルに移行するときの破壊/切断に、実験性や即興性が重要な役割を果たしてきたからだ。個別の話のなかで、今井氏がマージナル・コンソートの活動に触れていたので、それまでの議論に関係づけられる点も幸便だった。

 しかし本来なら、そうしたどこかで聞いてきたような話をするのではなく、個々の演奏家の実践のつきあわせから、現代の即興演奏における社会形成の問題がどうなっているのかを、拾いあげていきたかったというのが本心である。結果的に、現代ではそのような問題意識がまるで消失してしまっているし、思い出されもしないという事実を知るようなことになったとしても、それはそれでひとつの成果だと思うのだが、活動における個別性が重視されるなかで、なかなかそうした話にまで踏みこんでいけないというのが、現代の即興シーンのみならず、どの表現領域においても広く見られる傾向である。

 こうした議論のなりゆきは、これまでの混民フォーラムでも何度となく経験してきている点であり、批評も音楽の現場も、まったく選ぶところがない。もしかすると、テーマ設定そのものに問題があるのかもしれない。今後に残された問題点だろう。

 個人的な見解であることを断りながら、私なりに結論をまとめると、即興演奏は、あるいは考え方によれば実験音楽も、デレク・ベイリーやジョン・ケージのような、制度化した大文字の固有名を扱うなかでなければ一般的な議論ができず、個別の実践の領域はバラバラということなのだと思う。中村としまる氏は、それのどこがわるい、音楽というものはもともとごく個人的な出来事だ、自分はこの場所を離れようと思わないし、離れることもできないし、離れることがいいとも思わない、という趣旨のことを明言したが、おそらくこれが多くの演奏家の偽らざる(あるいは、自分の発言に責任をもつことのできる)本心なのではないかと思う。

 フォーラムのなかの発言ではなかったが、秋山徹次氏は、それを「飲み屋の会話」と呼ぶことで批判し、個別の発言を越えるような議論を成立させるスタイルを模索するところがあった。実際にも、現代美術の領域におけるグリーンバーグとジャクソン・ポロックの関係で批評と実践の問題を例示し、冒頭でおこなわれた今井氏の演奏を「実験音楽とか、音楽の実験性を議論するのに適切な演奏だった」と評価することによって、議論の共通基盤を求めるというように、司会者以上に議論の一般化に努力されたと思う。

 ループラインの存続中に実験音楽に関連したフォーラムを開催するという大枠があったため、即興演奏を扱いながら、議論の方向が限定されたものになったことはいたしかたない。それでも、私にとって、即興演奏の話は興味深い。すでにそのようなものがあると一般には信じられていないだろうが、即興演奏の中心を射抜くような議論の構築に、あらためて取り組んでみたいと思った。


 即興演奏に限らず、誰もが守ろうとしている私的領域のありようなどというものは、いみじくも今度の大震災が示したように、公共圏や公共的領域が危機にさらされるようなときには、いくらでも組み変わってしまうものだ。もし即興演奏の歴史というものがあるとしたら、それはまさしくそのようなもの、すなわち、社会の流動性のなかの出来事だったと思われるのであるが、いまでは誰もそのことに触れようとしない。これまた現代的な現象だと思う。即効力のある処方箋が書けるわけではないが、受け身のままでいいとも思えない。なにかがなされるべきだろう。



[初出:2011-03-22「実験音楽と即興演奏」/加筆修正のうえ転載]