2011年11月2日水曜日

ディアスポラの力


混民サウンド・ラボ・フォーラム第10回
クレズマー・アゲインスト・シオニズム
──クレズマー音楽を再評価する──
パネリスト: 平井玄、大熊ワタル、北里義之(司会)
日時: 2011年1月23日(日)
会場: 吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ
(東京都武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル7F)
TEL.03-5411-1312
開場: 4:30p.m.、開演: 5:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
予約・問合せ: 音場舎 TEL.03-3731-8191
e-mail:omba@w2.dion.ne.jp


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 混民フォーラム「クレズマー・アゲインスト・シオニズム」は、シオニズム研究会が母体となって近刊予定の論集『シオニズムの解剖』に収録される平井玄のクレズマー論を主軸に、大熊ワタルがクレズマー音楽の概要と、日本における受容史の一端を証言、さらにクレズマーの新たな傾向も紹介するという内容だった。

 平井玄は、ジョナサン/ダニエル・ボヤーリンの著書『ディアスポラの力』を参照しながら、徹底抗戦のすえ、篭城したユダヤ人が集団自殺した建国神話としてのマサダ砦に触れ、それがまさに1990年代のクレズマー・ルネッサンス期のジョン・ゾーンによる “マサダ” の名の賞揚と連動してしまう事実と、ユダヤの歴史のなかには、戦いを回避しながら平和主義的にユダヤを再興しようとしたヤヴネとその賢者たちの系譜もあったことを述べて、 現在の時点において、“マサダ” の名の賞揚が政治的にもった意味の脱構築をはかりながら、クレズマー評価の軸足を、ジョン・ゾーンのマサダからクレズマティクスの雑芸的音楽に移し、あらためて「ディアスポラの力」の錬成を企図するというものだった。

 現在、例えば、都内のディスク・ユニオンをくまなく歩いても、かつて常設されていたクレズマー音楽のコーナーは姿を消しているそうだ。クレズマー・ルネッサンス期は、反グローバリゼーションの新たな社会運動だったシアトル叛乱(1999年)と、ニューヨークを襲った同時多発テロ(2001年)を境に終焉を迎えた。こうしたすべての条件を勘案してみると、現在クレズマー音楽(に体現される音楽傾向)は「第三の忘却期」にあると平井はいう。そうであるからこそ、1990年代のクレズマー・ルネッサンスが残したものを、私たちは仔細に聴きわける必要があると。

 そうした聴き方の具体例のひとつが、いまはなきニッティング・ファクトリー・レーベルがリリースしたオムニバス盤『Klezmer 1993 New York City』の冒頭に収録された女性サックス四重奏団 “ビリー・ティプトン・メモリアル・カルテット” が顕彰するジャズ・ピアニスト/サックス奏者ビリー・ティプトンが、実は、男装の麗人だったというジェンダー・ポリティクスの問題である。このようにして正史から排除されていく忌まわしきものを、それがなんであれひとつの器に盛ることのできるクレズマーという音楽を再評価する平井は、さらにジャズの男根主義的なイメージを脱構築するため、レスター・ヤングからチャーリー・パーカーへ、アルバート・アイラーへとつながるジャズの系譜の再読解へと突き進んでいく。

 (男性の)自己確立の物語としてのモダンジャズの歴史(あるいは近代の物語)を、つねに流動しつづけてやまないなにか別のもの──それこそ「ディアスポラの力」とでも呼ぶしかないようなものへと接続していくため、私たちの感覚を新たに再編成していく必要性が語られたように思う。議論の詳細は、近刊予定の『シオニズムの解剖』に収録される平井論文で確認していただきたいが、たぶんこうした要約で議論の大筋はつかめていると思う。

 正史を書く作業は、特に音楽や美術のように、聴覚や視覚を働かせることが深くかかわるような場合、理論的分析のみならず、はっきりそれとは気づかれにくい感覚の編成を必然的に帰結する。ある音楽ジャンルが確立し、物語が主人公や脇役をキャスティングするようになると、感覚の編成もひとまず完了する。音楽を聴く、音を聴くという行為が、(即興演奏による対話というような)言語的な側面の理解から、感覚の編成を読み解くものにシフトしつつあることは、音響派の出現を待たずとも、デジタル・メディアの普及などを背景に、ごく一般的に起こっている傾向で、多様化によって不安定なままにならざるをえない感覚の編成が、特定の音楽ジャンルの “外側” に──かつては “境界線上に” といわれたが、それらはすでに例外的なものでなくなり、既成ジャンルが無視しえないほどに常態化しつつある──大きな流動状況を生みだしているため、「ディアスポラの力」はむしろ、いつどこで爆発するかわからない潜在する力になっているといえるだろう。

 ただ、それを意図的に再編成することは、誰にとってもむずかしい時代だと思う。しかし、もしそうしたローカルな編成を立ちあげることに失敗すれば、意味もなく解体と再編成をくりかえすだけの諸感覚は、最終的に、もっとも巨大な資本力に飲みこまれていくだけではないかと思われる。感覚が感覚として意味をもたずに、情報断片化するとでもいったらいいだろうか。フォーラムで配布されたレジュメに、平井玄が書きとめた「耳」がある。

その響きは遠くまで轟きわたるというより、欠片のような小さな土地の地中深く滲み込んでいったと思う。それは「多文化主義」という、今では世界中のどんな公的機関でも使われる言葉では汲み取れない深度にまで到達していったと思う。その響きが見えないところでどんな根を伸ばしているのか。

 このようにして響きを「仔細に聴き分ける」耳とは、はるか遠くに、あるいはすぐ身近でリゾーム思想を響かせながら、ローカルな感覚の再編成を示唆したものだろう。問題は、現代の社会において、それがどうしたら実現できるのかではないだろうか。



[初出:mixi 2011-01-26「ディアスポラの力」]  

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■ サウンド・カフェ・ズミ http://www.dzumi.jp/