2011年12月29日木曜日

前門の虎、後門の狼、ニューヨークのコヴァルト1


横井一江
アヴァンギャルド・ジャズ
── ヨーロッパ・フリーの軌跡 ──
四六版上製288頁 2,800円(税別)
未知谷 2011年6月


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 清水俊彦がしていたように、モダンであれフリーであれ、レコード鑑賞をそれだけ独立した媒体としてあつかい、論じるべき対象に触れないようにして世界を構築できたなら、ここでテーマになっている「ヨーロッパ・フリー」も、純粋で、客観的な姿をあらわすのかもしれないが、音楽が創造される現場と直接かかわり、インタヴューを重ねるところから再構成された『アヴァンギャルド・ジャズ』(未知谷、2011年6月)の世界は、すでにして横井一江というフォト・ジャーナリストの存在を巻きこんだ世界として記述されている。すなわち、彼女は「ヨーロッパ・フリーの軌跡」の語り手であるとともに、その世界を生きて著者に語られる存在のひとりでもあるということである。それが「アウトサイダー/インサイダーとでもいうような入り組んだ語りのポジション」が持つ意味だろう。音楽スタイルの変化によって合衆国ジャズ史を祖述してきた戦後日本のジャズ評論と、副島輝人『日本フリージャズ史』(青土社、2002年)や昼間賢『ローカル・ミュージック』(インスクリプト、2005年)などの著作の本質的な相違は、後者が、批評対象にしている世界のなかに著者自身が登場してしまう必然性を引き受けて、どのような音楽批評が可能なのか試みる実験になっている点ではないだろうか。

 ひとりの女性ジャーナリストの侵入が、「ヨーロッパ・フリーの軌跡」を不安定なものにしてしまうように、西ヨーロッパが西ヨーロッパとして自己完結できないような地政学上の変動期を迎えた時代の著作として、ヨーロッパ・フリーの物語は、出発点と、終着点と、物語のまっただなかにたくさんの他者を抱えている。ここでいう「他者」は、それがどこの誰であれ、「ヨーロッパ・フリーの軌跡」を脅かしにやってくるものたちのことである。

 出発点においては、ヨーロッパを大挙して訪れていた合衆国フリージャズ・ミュージシャンの群れであり、終着点においては、著書のなかで「音響派」(多義的な用語なので注意しなくてはならないが、これはけっして「形容詞」ではなく、特にここでは、即興演奏に関連して、一般的に「サウンド・インプロヴィゼーション」と呼ばれるような演奏をするリダクショニストのことを意味しているように思われる)と呼ばれる、即興演奏の伝統を切断しにやってくるミュージシャンの群れであり、さらに物語の中心においては、ヨーロッパ・フリーの第一世代という、いわば「主人公」の一群に入れられているペーター・コヴァルトが、即興グループ「グローバル・ヴィレッジ」を結成し、トゥバ共和国のサインホ・ナムチュラクを西欧に紹介し、即興のユーロセントリズムを脱構築するようなネットワークを、外部へ、外部へと開きながら、最後はニューヨークという異郷の地で客死するというような活動スタイルのことである。そして、ともにヴッパータールを故郷にするペーター・ブロッツマンもまた、コヴァルトの衣鉢を継ぐように、ノルウェーやシカゴやスイスや日本のミュージシャンたちと共演を重ね、「ヨーロッパ・フリーの軌跡」から逸脱するような、まったく新たな感覚をそなえた音楽の創造に取り組んでいることも忘れられない。

 出発点にいる他者に対し、ヨーロッパの「即興音楽は、アメリカのフリージャズとヨーロッパの現代音楽が結びついたもの」(サード・ストリーム的な解釈といえるだろうか)という発言を引用した著者は、「クラシック・現代音楽を参照することは、彼らにとって原点回帰のひとつのあり方であってもおかしくない」、「と同時に、『前衛』とはそれまでに培われた伝統への反旗でもある。それはコインの裏表にすぎない」(38頁)とアクロバティックに応じ、終着点にいる他者に対しては、デレク・ベイリーを論じた項目で、「『音響派』などという形容詞が出現する何十年も前から[ベイリーは]類い稀な発想で音響的なアプローチを行っており、亡くなるまで即興演奏を追求したことを考えると、サウンド戦略の転換によって新たな領域を切り拓こうとする世代にとって、ベイリーはひとつのメルクマールとなり得る」(180頁)と応じている。サウンド・インプロヴィゼーションの起源をフリー・インプロヴィゼーションにまで遡行させて、「音響派」を解消してしまうという後者のやり方は、福島恵一がとっている論法とおなじものである。

 物語のまっただなかにいる他者に対して、著者は「もしコヴァルトがいなければ、フリー、即興音楽の国境を越えた緊密なネットワークは果たして出来ただろうか」(94頁)と書き、「グローバルに動き、異文化あるいはローカルな音楽との交流を求めた生き方には、戦後世代ゆえのドイツ人としてのアイデンティティを逆に問うものであったような気がする。そうすることによって西洋的な視点をずらすことが可能であり、ゆえにドイツ人である自分が見えたのではないだろうか。」(96頁)と正しく評価しながら、それでも彼の活動スタイルが、即興のユーロセントリズムに帰結してしまうような「ヨーロッパ・フリー」の脱構築であり、根底からする批判になっているという点については触れない。「ヨーロッパ・フリー」を脱構築する可能性については、むしろ著書の後半、イタリアン・インスタービレ・オーケストラを論じたところで触れられることになる。

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横井一江[ブログ]音楽のながいしっぽ