2011年12月30日金曜日

前門の虎、後門の狼、ニューヨークのコヴァルト2


横井一江
アヴァンギャルド・ジャズ
── ヨーロッパ・フリーの軌跡 ──
四六版 上製 288頁 2,800円(税別)
未知谷 2011年6月


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 「グローバル・ヴィレッジ」という、マクルーハンの理論とも無関係ではない「世界がもし100人の村だったら」的な世界観によって、ペーター・コヴァルトが切り開いたネットワークによる即興演奏の集団性と、強い地域主義のもとでばらばらに活動していたイタリアのミュージシャンが、ピノ・ミナフラの働きかけによって大同団結したイタリアン・インスタービレ・オーケストラにおける即興演奏の集団性とは、等しく多文化主義と呼べるものであっても、インターナショナリズムの有無という点で大きく異なっている。『アヴァンギャルド・ジャズ』の著者が、前者ではなく、なぜ後者に「ヨーロッパ・フリー」を脱構築する可能性を見ているのか、重要なポイントと思われるので、第3章からやや長めに引用してみることにしよう。

 八〇年代後半のグラスノスチ、ペレストロイカは我々の視線をソ連や東欧に向けた。旧ソ連のミュージシャンが持つエネルギーに感応したのだ。だが、制度の移行に伴う経済の悪化などが起こると一気に花開いたかに見えた旧ソ連のジャズも沈滞を余儀なくされた。と同時に一時はもてはやされた旧ソ連のミュージシャンの海外での演奏も減っていったのである。 
 その後、徐々に視界に入ってきたのがヨーロッパの周縁部だったように思う。既にヨーロッパのフリー・ミュージックは「新しい」音楽ではなくなっていた。西欧の僻地である南イタリア、しかも長靴の踵で生まれたローカルであると同時にナショナルなIIO[Italian Instabile Orchestra の略]、この特異なプロジェクトが、ヨーロッパの九〇年代を代表するオーケストラになり得たのにも時代的な必然性を感じる。 
 冷戦構造の終焉による覇権構造の変化、その後の情報社会とグローバリゼーション、それらが何をもたらしたのか。かえって自らのアイデンティティと文化をより意識させるようになったのではないか。実際、マージナルな地域音楽が主張し始め、それがコミュニティの外の世界、コアな音楽ヲタクに留まらずに知られるようになったのはこの十数年のことである。九〇年代はグローバルとそれに対峙するローカルという二つの概念がまだクリアではなかった。あるいはナショナルなものの意味もまだ有効だったと言えよう。IIOが内在させていたヨーロッパの中のローカルは時代の先を読むものだったと同時に、それ以前の価値観、大きな物語への憧れもまだあったのだ。[中略] 
 IIOはある意味、冷戦前後の世界をめぐる構造変化、その後のグローバリゼーションによる社会の変化が顕著になった九〇年代からミレニアムにかけた時代を象徴する存在だったように、私には思えてならない。(242-244頁)
 新たなものは常に周縁や辺境から生まれる(といわれている)。かつては西ヨーロッパにもそのような周縁が生まれていた。私たちはそれを、おなじようにエッジにあるものでも、「前衛」と呼びならわしていたけれども。ここでのポイントは、著者がすでに「『新しい』音楽ではなくなっていた」といいながらも、おそらく本書があつかうテーマの必然性もあってだろう、なおも「ヨーロッパ・フリー」に視点をおいて、イタリア半島に「周縁部」を見いだしている点である。インスタービレの音楽を、ソ連解体後の世界性のなかに置き、いわゆる「時代と寝た音楽」としてその新しさを語っている。換言すれば、ここでの「ローカル」は、現実のローカル音楽のことではなく、トピックとしての「ローカル」のことなのである。

 さて、一方において、ここでいう「ヨーロッパ・フリー」の脱構築というのは、まるでその出来事がなかったかのようにヨーロッパの即興演奏を歴史記述することではなく、これまで気づかれていなかった出来事の新たな側面を語りなおす契機を、「ヨーロッパ・フリー」の外部に(あるいは外部と思われているものに、さらには内部にある外部に、すべての語り残されたものに)求めるということだ。既述したように、高瀬アキと多和田葉子、イレーネ・シュヴァイツァーとカネイユを論じる際に生じる「溝、亀裂、ひび」、すなわちジェンダー・バイアスなどもそのひとつである。すなわち、他者はこの世界を語りなおすためにやってくるのであって、この世界をこの世界のまま保つためにやってくるのではない。

 重要なのは、非対称の関係にある(語られざる)他者を前にしたとき、私たちは視点を移動させなくてはらないということである。それまでの想像力のスタイルを変え、イタリア南部から西ヨーロッパをまなざさなくてはならない。すなわち、脱構築の実践とは、もしそれをしようと思うならばだが、インスタービレに「ヨーロッパの周縁部」を見いだすことにはなく、まったく逆に、「ヨーロッパ・フリー」の主要舞台となった西ヨーロッパそのものが、もうひとつのローカルであるということ、「アジア大陸の小さな岬」(ヴァレリー)の出来事であり、「他の岬」(デリダ)の「他の音楽」であることを、インスタービレから再発見する行為に他ならない。新時代のイタリア音楽を論じながら、著者は「覇権構造の変化」が「かえって自らのアイデンティティと文化をより意識させるようになった」と書いている。じつはこれは、ペーター・コヴァルトの活動スタイルを、「西洋的な視点をずらすことが可能であり、ゆえにドイツ人である自分が見えた」(96頁)と書くこととおなじ論法である。それはバランスのよい配慮というものに属すると思われるのだが、肝心なのは、にもかかわらず著者の視点が移動していないということである。「ヨーロッパ・フリー」の語りなおしに重点を置いてみたとき、それは他者の他者性を相対化してしまうことにつながる。問いかけがそこで停止してしまう。

 ヨーロッパの音楽に関して、情報の万年欠乏状態にある日本のジャーナリズム環境について配慮すれば、定期的におこなわれるベーシックな音楽知識の確認が必要なことは、じゅうぶんに理解できることであり、本書はその責務を果たしていると思う。そのうえで欲を述べさせてもらえば、ヨーロッパの即興シーンを熟知している著者には、もっと自由に筆を揮ってもらい、まったく新たな「ヨーロッパ・フリー」像を再構築してみせてほしいと思うのである。それが見えている批評家は、ほんとうに少ないからである。

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横井一江[ブログ]音楽のながいしっぽ