2011年11月30日水曜日

ESP(本)応援祭 第十二回

ガイド役の泉秀樹氏とイベント主催者の渡邊未帆氏

ESP(本)応援祭
第12回「ベース&ドラム奏者特集 Part 1」
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開演: 2011年11月26日(土)4:00p.m.~(3時間ほどを予定)
料金: 資料代 500円+ドリンク注文(¥700~)
講師: 泉 秀樹 サポーター: 片岡文明
主催: 渡邊未帆


♬♬♬


 今年になってスタートした吉祥寺ズミのオリジナル連続講座「ESP(本)応援祭」も、10ヶ月の間に12回と、ほぼ毎月のペースで順調に回を重ね、今回ベーシストやドラマーを扱うところまできて、いよいよ大詰めを迎えつつある。2008年いっぱい衛星デジタル放送された全27回のシリーズ番組「Free Musicの旅」(このときのコンビも泉秀樹と渡邊未帆)を、ESPに特化して引き継ぐ形をとりながら、ドン・チェリーという、重要度に比して日本ではあまり評価されることのないミュージシャンの軌跡を、ESPの枠とは別に扱うことで補うなどして、今日の音楽誌ではまったくとりあげられることのない、ジャズの重要な歴史にスポットをあてたシリーズといえるだろう。出来事を可能なかぎり史料的な側面から再構成することに徹し、ニュージャズ/フリージャズの今日的意義というような批評的テーマについては、次の世代を担う聴き手にバトンタッチしたいというのが、講義のなかでくりかえし語られた音盤紹介の趣旨であり、また吉祥寺ズミの存在理由でもある。

 「ESP(本)応援祭」がおもな対象としている1960年代とは、まったく別様のメディア環境におかれ、雑多にも精密にもなりうるような細分化された状態にある私たちのサウンド環境、あるいは聴取環境において、ガイド役の講師が語ろうとしている歴史的記憶は、記憶としての意味を失い、単なる情報へと頽落しているように思われる。時代が悪いといってしまえばそれまでだが、結局のところ、運動は運動のなかでしか遺産相続人を見つけ出すことができないし、現在の日本に、そのための社会的条件が整っているかどうかは、あるともないとも言うことができない。つまり、出来事が起こってみなくてはわからない。これはおそらく、そもそも批評が出せるような種類の回答ではなく、まさしく批評に先行する現実にしか出せない回答なのではないかと思う。

 第12回「ベース&ドラム奏者特集」は、重要なドラマーの紹介だけで時間を使い切り、ベーシストは次回に持ち越された。とりあげられたのは、サニー・マレイ、ミルフォード・グレイヴス、ロジャー “モンテゴ・ジョー” サンダースなど。当日かけられたアルバムは以下の通り。

(1)Gil Evans『Into The Hot』(Impulse, 1961年10月)
  ※セシル・テイラーをフィーチャーした演奏におけるパルス以前のマレイを聴く。
(2)Cecil Taylor『Live at The Café Monmartre』(Dedut, 1962年11月)
(3)Ornette Coleman『Town Hall 1962』(ESP-1006, 1962年12月)
(4)Albert Ayler『Spiritual Unity』(ESP-1002, 1964年7月)
(5)Sunny Murray『Sunny Murray』(ESP-1032, 1966年7月)
(6)Sunny Murray『Sonny's Time Now』(Jihad, 1965年11月)
  ※Jihadはアミリ・バラカの個人レーベル。
(7)Milford Graves『Percussion Ensemble with Sunny Morgan』
                          (ESP-1015, 1965年7月)
(8)Montego Joe『Arriba!』(Prestige, 1964年5月/65年5月)
(9)Miriam Makeba『Makeba Sings!』(RCA, 1965年)
  ※(8)(9)ともにミルフォード・グレイヴス初期のセッションワーク。
(10)Don Pullen & Milford Graves『At Yale U.』(PG, 1966年4月)
(11)Milford Graves/Don Pullen『Nommo』(SRP, 1966年4月)
  ※(10)と同日のイエール大学での演奏。
(12)Albert Ayler『Holy Ghost』(Revenant, 1967年6月-7月)
  ※ニューポート音楽祭でアイラー・グループに参加したグレイヴスの演奏。
(13)Pharoah Sanders『Tauhid』(Impulse, 1966年11月)
(14)Albert Ayler『Stockholm, Berlin 1966』(Hat Hut, 1966年11月)
  ※(13)(14)で日本の印象を記した曲「Japan」の聴きくらべ。
(15)Sonny Sharrock『Black Woman』(Vortex, 1968年10月/69年5月)
  ※グレイヴスが参加したアルバム。
(16)Montego Joe HAR YOU Percussion Group
           『Song From The Ghetto Youth』(ESP-1067, ???年)


 グレイヴス関連とはいえ、いたって陽気でスタイリッシュなモンテゴ・ジョーのラテン・パーカッションを別にすると、ビートからパルスへといわれるリズムの(感じ方の)変化によって、タイムキーブする役割から解放されたミュージシャンたちが、即興演奏そのものをどのように自由にしていったかを、実際の演奏を聴くことで追体験してみるという内容の講義だった。その他にも、トランジション・レーベルを創立したトム・ウィルソンや、北欧スウェーデンのベングト・フィリップ・ノルドシュトロムといったプロデューサーたちの仲介者としての役割、一時期セシル・テイラー・グループでいっしょだったサニー・マレイとアルバート・アイラーの関係などについても触れられた。

 次回の「ベース&ドラム奏者特集 Part 2」は12月23日(金)に開催予定。

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■ 吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ http://www.dzumi.jp/
 

2011年11月8日火曜日

伊津野重美:フォルテピアニシモ Vol.7


伊津野重美:フォルテピアニシモ Vol.7
~ wish ~
日時: 2011年11月3日(木)
会場: 東京/吉祥寺「スター・パインズ・カフェ」
(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 トクタケ・パーキング・ビル B1)
開場: 00:30p.m.,開演: 1:00p.m.
料金/当日: ¥3,000+order
出演: 伊津野重美(朗読) 田中 流(写真)
制作: 赤刎千久子
予約・問合せ: TEL.0422-23-2251(スター・パインズ・カフェ)


♬♬♬


 回廊は、生命の回廊につらなり、伊津野重美によって一年に一冊編まれる私家版の詩集『生命の回廊』の目次裏に記されてあるように、詩友たちとともにその歌を守るいまは亡き歌人・笹井宏之の作品からとられたものである。笹井は詩のなかで、生命の回廊を「生命の回廊」と表記し、それが引用であること、彼もまた、この言葉をどこからか譲り受けたものであることを示している。回廊は人をめぐらす。それは誰のものでもなく、人をめぐらすことで時をめぐらすラビリンスのようなものである。生命の回廊は、人がつねにそこに回帰してくる遺伝子の螺旋階段のようなもの。無限につづく螺旋階段をたどり、生きかわり死にかわりしながら、何万年を費やしても、生命はまた同じ場所で出会いを重ねる。そのように生きるということを、そのように生きたいという思いを、伊津野重美は、その日にあわせて同人誌を編み、場所も時間もそろえた朗読会を開くことで、この人生に刻みこもうとしているように思える。

 この回廊におけるふたたびの出会いに、よんどころない事情で音楽活動から離れることになった mori-shige は不在だった。歌人であれ音楽家であれ、伊津野にとって共演者は、つねに共演者以上の存在でなくては共演者と呼ぶに値しない。第一部、第二部あわせて80分ほどのパフォーマンスには、言葉の強度をきわだたせるために、お芝居の場面転換を思わせるような、あるいは書籍の章立てを思わせるような、ある種のドラマツルギーを備えた構成がほどこされているのだが、それはまさしく言葉と音楽がやってきたあの劇的なる世界(悲劇)を、すなわち、声や響きをあらしめることが、そのまま人間を超えるものがやってくるための道を開く儀式となるような空間を指し示している。そこでは、痛みが語られ、悲しみが語られ、死者が語られる。むきだしになる感情、捧げものとしてのサウンド、時間の絶対的速度、そのようなものを神降ろしするために、mori-shige のチェロは、これ以上ないパートナーと言えるだろう。

 ステージの床一面には、天から降下したとおぼしき鳥の羽根が散らばり、(実際そのような演出で、伊津野にスポットがあたってもいたが)森のなかに差しこむ木漏れ日を思わせるライトが、床面を点々と照らし出している。散乱した羽根の一枚一枚は、民話の「鶴の恩返し」に出てくる娘に変身した鶴が、命を救われたことの恩返しをするため、みずからの身を削って機を織る開かずの間のようであり、詩人が言葉を織りあげるためにけずった魂のかけらのようでもあった。あるいはすでにそこは屠殺と呼ぶのが似つかわしいような惨劇がくりひろげられた現場であったろうか。羽毛布団と生贄という、真逆のイメージが混淆している。それはおそらく、生と死が背中あわせになっているからだろう。生と死が同時に生きられているからだろう。これが第一部の悲歌群が降り立つ舞台だった。

 音楽を流すことで、安定した声の背景を作りながら短歌や散文詩を朗読する場面と、アカペラにすることで、声がダイレクトに聴き手にむかい、一気に緊迫感の高まる場面とが、ほぼ交互にあらわれるステージ。第二部の前半には、東日本大震災で被災した人々のため、安永稔和、石川啄木、宮沢賢治、立原道造、高村光太郎、山村暮鳥、末森英機、八木重吉ら、東北詩人を中心にメドレーで詩を詠むセクションがもうけられたが、ここでは今回の協働者である田中流が山村の自然を撮影した写真が、背景のスクリーンに映し出され、伊津野も立ち位置をスクリーン前に移してパフォーマンスした。これが生と死を同時に生きるような第一部の悲歌群からの転調となり、最後のセクションを飾った新作の「Rebirth」「ねがい」「落鳥の地から」は、いずれも生への肯定的な感情であふれていたように思う。

 放射能はかすかな放射線を出して遺伝子を切断する。生命の回廊を断ち切るのである。救いは低線量被曝地帯を抜け出して、生命の回廊をつなぎなおすことにしかない。伊津野重美のパフォーマンスは、大震災以前に、大震災以後を生きる人々の感情を、すでに生きていたように思う。







伊津野重美編『生命の回廊3号』
<『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』特集号>
(私家版、2011年11月刊)


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スター・パインズ・カフェ http://www.mandala.gr.jp/spc.html

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2011年11月7日月曜日

伊東篤宏個展 2010


 ナディッフ恵比寿本店の地階にある穴蔵のような小さな展示スペースで、2010年の11月5日から12月5日まで、今年になって製作された伊東篤宏のコラージュ作品やペイント作品を集めた個展が開催された。90年代のエロ本やアジアの女性ヌードが印刷された雑誌のページに、インクを溶解する溶液を塗り、溶けてきたインクを使ってドローイングを描き加えるという手法で、見るものの触覚を強く刺激してくる作品群がならんだ。

 ピンナップ女性の裸体に、入れ墨をいれていくようにトライバルな文様を描き加え、頭にセミの頭部やヤギの頭部をのせたコラージュ・シリーズ、A4判雑誌に掲載された女性のハメ撮り写真のインクを溶かし、目といわず口といわず、すべての穴にタコの足(のようなもの)が突き刺さっているH・R・ギーガー的女体機械論のシリーズ、そしてアジアのピンナップ写真を溶かして彩色し、顔のうえに花をのせた楽園幻想のコラージュ作品を、背後から蛍光灯で照明したシリーズなどである。

 私たち鑑賞者の触覚を強く刺激してくる作品群の展示は、一部に蛍光灯が使われたことと深く関係しているようで、それがなんであれ、あるイメージをまなざすときの私たちの視覚を、感覚の起源まで遡行し、いまだ語られざる身体の闇の領域に訴えかけながら、意識化しようとする作業のように感じられた。インターネットによる影のない映像の氾濫や、みずからの身体を動かすことも官能させることもないままに、猛烈なスピードで消費されていく映像群がひきおこす現代人の身体とイメージの乖離は、各ジャンル別に細分化され、記号化による洗練の度合をたかめているポルノヴィデオの洪水をみるだけで、一目瞭然であろう。娯楽作品として作られているポルノヴィデオのようなセックスを、現実生活でしてはいけないという指南書まで登場するありさまなのである。

 そうしたデジタルな身体の変容が、私たちの感覚に大きな変化をもたらしつつある時代に、ピンナップ・ガールやハメ撮り写真のような古色蒼然としたイメージ群による触覚の再評価は、ある意味で反時代的なるものの提示──少なくとも、ある種のずらしの行為──であり、イメージをもういちど身体に結びなおす丹念な作業ということができるのではないだろうか。性的イマジネーションにおける北斎漫画的なタコと女性のコンビネーションは、戦闘的なフェミニストたちの批判を招くかもしれないが、現在ではさほどシュルレアリスティックなものではなく、むしろ凡庸なものだといえるだろう。あるいは伝統的な記憶によるものといえるだろう。伊東篤宏の作品に読みとられるべきは、そうしたイメージがどのように触覚的な変容をとげ、どんな記憶の重ね塗りがなされているかなのである。

 作家が言うところによれば、蛍光灯放電によるノイズ演奏というオプトロンのパフォーマンスは、実際に、蛍光灯を使ったドローイングの展示から、その表面を透過して見せている蛍光灯を、前面に取り出してみようというアイディアから生まれたものであるらしい。見るものの身体をダイレクトに立ちあがらせるため、みずからの身体を介在させる光のパフォーマンスが必要とされ、そのことを徹底する10年間、伊東篤宏はみずからに絵を描くのを禁じてきたという。

 今回の個展は、そうした禁欲が、ときのめぐりとともに、かえって不自然に感じられるようになってきたため、自分をもう一段、解き放とうとして開かれたものといえそうだが、これは単純な気持ちの推移からそうなったというより、伊東がみずからの身体的な変容を直感的に感じとってのイメージ解禁だということは、間違いのないところだろう。現在進行形で変わりつつある(らしい)身体や身体感覚を、自分ではっきりと視覚化するため、彼はもういちどドローイングという平面にかかわる手の作業を必要としているのである。こうした意識の変化は、その一方で、彼がいまおこなっている音楽演奏においても、もういちど大きな感覚の変容が起こりつつあることを、密かに照らしかえすものなのかもしれない。■



[初出:mixi 2010-12-06「伊東篤宏個展 2010」]  
 

2011年11月6日日曜日

Andromeda、あるいは存在する女たち


Andromeda
柿崎麻莉子 & パール・アレキサンダー
日時: 2011年11月3日(木・祝日)
会場: 東京/田園調布「いずるば」
(東京都大田区本町田園調布38-8)
開場: 4:30p.m.、開演: 5:00p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500、学生: ¥1,500
出演: 柿崎麻莉子(dance)
パール・アレキサンダー(contrabass, direction)




私は、決して逃れることの出来ない、
自分よりも遥かに大きな<存在>を感じつづけていました





脚ならば脚のように、手ならば手のように、私の身体は自由なはずなのに、身動きひとつできない。耳ならば耳のように、声ならば声のように、私の響きは私を照らしだすはずなのに、なにも聞こえない、なにも歌えない、なにひとつ感じることができない。

逃れたいのかしら? こんな場所から。身体から。響きから。逃れようとすればするほど、私はもっと深い場所へと閉じこめられてしまう。まるでそれが罪であるかのように。罰であるかのように。

あなたに私を救いだすことなどできない。救いだすふりをすることができるだけ。私をあなたのものにすることなどできない。あなたのものにするふりができるだけ。お願い、私を逃がしてちょうだい! いいえ、決して逃がさないで! それでも、私が自由を選べるのは、あなたがいるからだということを私はよくわかっている。

皮膚ならば皮膚のように、指ならば指のように、私の身体は世界に触れたがっているのに、どこにも出て行くことができない。目ならば目のように、舌ならば舌のように、私はあなたを味わいたがっているのに、目は視線を放つことができず、舌は誰にも届くことがない。


♬♬



 ダンサーの柿崎麻莉子とコントラバス奏者のパール・アレキサンダーが新たに取り組んだのは、女の戦いの物語である。ギリシャ神話に登場するアンドロメダは、神々を凌駕する美を嫉妬され、荒ぶる海の怪物の生け贄に差し出されて、巌にいましめられているところを、偶然通りかかったペルセウスに助けられて妻になるという、男にとっては成人のための通過儀礼であり、女にとっては白馬の騎士を待つ婚姻譚であるような、人口に膾炙された(非対称の)物語のヒロインだ。黒い衣装を身にまとい、板張りの床のうえに寝かされたコントラバスの向こう側に、隠れるようにすわったアレキサンダーと対照的に、白い衣装──というより、舞台上手奥にある柱の高処に結いつけられたカーテンのように巨大な布──を身体に巻きつけた柿崎麻莉子は、膝から下だけを見せ、舞台中央に胎児のようなかっこうで横たわっている。彼女のふくらはぎには、縄目を思わせる茶色い筋が何本も走っていて痛々しい。

 パフォーマンスはアレキサンダーのヴォイスからはじまった。かすかな声は遠くからやってくるもののようであり、m音から母音へ、母音からs音を含んだやや複雑な発声へと移行していきながら、楽器の背中をこすって低いノイズを出す。その音に呼び覚まされるように、横になっていた柿崎の身体がもぞもぞと動き出す。動きに形はなく、巨大な布が顔や両手を巻きこんでいるので、まるでのたうちまわる芋虫のようだ。芋虫の動きは音のする方向にむかい、あるいはステージの対角線にむかいしながら、やがて両脚で立って、何度も厚手の布をふりほどこうとするのだが、そのたびに引き戻され、転倒をくりかえす。それでも布は少しずつほつれていき、やがて布の間から、すすきの穂のような秋の匂いのする髪型をした顔がのぞく。

 柿崎が動きはじめてから楽器を立て、弓で弦に触れるだけのノイズ演奏をしていたアレキサンダーがアルコ演奏に移行すると、場面が転換する。いったん上手に移動した柿崎は、何度か「うまくいかない」と言い、布のなかから片手を出して、手刀をきるように前方に差し出した。そのあとで、ふたたびステージの対角線にむかう脱出行があり、やがて両手が自由になり、片方の足が自由になっていく。それでも、最後まで左足首に巻きついた布は、ダンスの自由を奪い、思わぬところで柿崎を転倒させていた。両手両足が自由になった柿崎は、これまでの動きとは反対に、巨大な布が結いつけられている柱を布をたぐってよじ登り、何度となく落下しながら、これまで自分の自由を縛ってきたものに迫ろうとするが、やがて力尽きたのだろう、巨大な布をハンモックのシーツがわりに安眠するところで大団円を迎えた。

 パール・アレキサンダーの演奏は、ひとつのシーンを構成するサウンド環境を提供していた。柿崎麻莉子のダンスが、おそらく表現の位相ではなく、資質的に感情を誘発するものを持っているのと対照的に、コントラバスが奏でるサウンドは、ノイズであれメロディーであれ、じゅうぶんな抽象度を獲得しており、感情的な動きに相即して対話を試みるような “即興演奏” をしないことで、身体の動きに自由をもたらす場の役割を果たしていたように思う。私にとって、柿崎麻莉子のダンスの魅力は、その時々のコンテクストから切り離されて出現する細部の動きにある。かすかな嗚咽、顔をなでる仕草、対話する指のあそび、というようなアンドロメダの物語とは無関係の小さなダンスに、トレーニングすることのできない心臓の筋肉のような、感情の原形質があらわれているように感じるからだろう。

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2011年11月5日土曜日

セルゲイ・レートフ週間


◆1956年、スターリン批判がなされた年に旧ソ連で生まれたセルゲイ・レートフは、80年代に入りモスクワを地盤に音楽活動を本格化しました。ペレストロイカ(改革)が始まる前から一貫して、即興音楽を主体にして、前衛的な表現を続けてきた人物です。各種のサックスを演奏する他、マルチな管楽器奏者であり作曲家です。

◆表現活動に対する規制が多かったというソ連時代にあって、公式/非公式の枠を超えて自由に活動しました。活動のフィールドも、ジャズ、現代音楽、ロック、パンク他の多彩な音楽フィールドだけでなく、文学、演劇、映画、絵画等の前衛とも親密に付き合い共演してきました。そのスタンスは今も変わりません。

◆セルゲイ・レートフのトーク、演奏に接することはソ連・ロシアのアヴァンギャルド・アートにじかに触れることであると言っても過言ではありません。

◆今回は、新潟大学における公開研究会「ソ連非公式芸術とジャズ文化」(12月3日)を始めとする学術研究会・講演および交流のために来日します。すでに数度の来日で交流したジャズ・ミュージシャンからの希望で都内各所にて、友情共演ライヴも予定されています。ぜひ足をお運びください。



文責:岡島豊樹  





セルゲイ・レートフ週間

♬♬♬♬♬♬ 新潟 Days ♬♬♬♬♬♬

●12月3日(土曜日)
新潟大学人文学部主催
公開研究会「ソ連非公式芸術とジャズ文化」
会場: 新潟大学・新潟駅前南キャンパス「ときめいと」(ジュンク堂の2階)
開演: 13:00
報告: セルゲイ・レートフ 木村英明 梅津紀雄 岡島豊樹
司会: 鈴木正美
入場無料(一般来聴歓迎)
問合せ: masamiの後に@human.niigata-u.ac.jp をつけてください。


●12月4日(日曜日)

上記関連公演
「ロシアから即興の風が吹いてくる2」
会場: 砂丘館
開演: 14:00、17:00の2回
出演: セルゲイ・レートフ(サックス) 堀川久子(舞踏)
河崎純(コントラバス)鈴木正美(クラリネット)
入場無料
問合せ: masamiの後に@human.niigata-u.ac.jp をつけてください。



♬♬♬♬♬♬ 東京 Week ♬♬♬♬♬♬

●12月6日(火)
会場: 荻窪 ベルベットサン
(杉並区荻窪3-47-21 サンライズ ビル1F)
開場: 19:30、開演: 20:00 
出演: SXQ
松本健一(ss)立花秀輝(as)藤原大輔(ts)吉田隆一(bs)木村昌哉(ts&ss)
ゲスト: セルゲイ・レートフ(サックス)

●12月7日(水)
会場: 西荻窪 音や金時
(杉並区西荻北2-2-14 喜志コーポ B1)
開演: 19:30
出演: 向島ゆり子(vl) 石川 高(笙) 関島岳郎(tuba)
ゲスト: セルゲイ・レートフ(サックス)
問合せ: 音や金時 TEL: 03-5382-2020

●12月8日(木)
昼: 埼玉大学で講演
会場: 渋谷 Bar Isshee
(渋谷区宇田川町33-13 楠原ビル4階)
開演: 20時
出演: 梅津和時(サックス他) 坂田明(サックス)
ゲスト: セルゲイ・レートフ(サックス)
問合せ: Bar Isshee TEL.080-3289-6913

●12月9日(金)
昼: 早稲田大学で講演
会場: 入谷・鴬谷・浅草 なってるハウス
(東京都台東区松が谷4-1-8 1F)
開場: 19:30、開演: 20:00
出演: 原田依幸(ピアノ)
ゲスト: セルゲイ・レートフ(サックス)
問合せ: なってるハウス TEL:03-3847-2113

●12月10日(土曜日)
セルゲイ・レートフ来日記念 TALK & LIVE
「ロシア・ジャズ再考 / 復活祭」
会場: 渋谷「アップリンク・ファクトリー」
(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル2階)
開場: 19:00、開演: 19:30
出演: Talk鈴木正美(ロシア・ジャズ研究家)
岡島豊樹(東欧~スラヴ音楽リサーチ・センター)
ゲスト: セルゲイ・レートフ 通訳: 上田洋子
Live: 構成: 河崎純(コントラバス)
演奏: a' qui avec Gabriel(アコーディオン) 立岩潤三(パーカッション)
ゲスト: セルゲイ・レートフ(サックス) 
パフォーマンス・映像: 「いまからここで」
問合せ: アップリンク・ファクトリー TEL.03-6821-6821
予約メール: アップリンク・ファクトリー factory@uplink.co.jp
(1)お名前 (2)人数 [一度のご予約で3名様まで] (3)住所 (4)電話番号
以上の要項を明記の上、 件名を「予約 12/10 ロシアジャズ再考/復活祭」として
お申し込み下さい。

●12月11日(日曜日)
ポスト・クリョーヒン・スタディーズ(特別編)
「ロシア前衛音楽の歴史と現在をレートフが語る」
ミニライヴ付き
会場: 吉祥寺「サウンドカフェ・ズミ」
(武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル7F *1Fはスリアというヨガグッズ店)
開演: 16:30
出演: セルゲイ・レートフ 鈴木正美 岡島豊樹
ミニライヴ: セルゲイ・レートフ(サックス)
パール・アレキサンダー(コントラバス)
その他
予約メール event@dzumi.jp
(イベント名をポストクリョーヒンとしてお名前、人数、連絡先をご記入ください)
※終演後、翌日帰国のレートフ氏の歓送会があります(有料)
問合せ: TEL:0422-72-7822  



2011年11月4日金曜日

小冊子・ジャズとワールド・ミュージックの微妙な関係


小冊子・ジャズとワールド・ミュージックの微妙な関係
発行: 2011年10月29日
編集: 須川善行 編集協力: 田中ますみ
写真: 金子山 デザイン: 細谷麻美
印刷・製本: イニュニック
非売品

【Contents】
プログラム
ごあいさつ
関口義人・後藤雅洋プロフィール
minga プロフィール
Salle Gaveau プロフィール

■トーク・ゲスト プロフィール
ジャズ
佐藤英輔中山康樹村井康司
ワールド・ミュージック
栗本 斉山本幸洋松山晋也北中正和ピーター・バラカン

■アンケート「生涯のミュージシャン・10人」
【ワールド・ミュージック】
五十嵐正|石田昌隆|サラーム海上|海老原政彦|大石 始
岡本郁生|久保田麻琴|斉木小太郎|真保みゆき|関谷元子
高橋 修|高橋健太郎|高橋政資|中原 仁|西尾大作
野崎洋子|原田尊志|船津亮平|宮子和眞|吉本秀純
【ジャズ】
伊藤八十八|大谷能生|岡島豊樹|金丸正城|北里義之
熊谷美広|杉田宏樹|瀬川昌久|副島輝人|高野 雲
行方 均|林 建紀|原 雅明|原田和典|福島恵一
藤岡靖洋|藤本史昭|古庄紳二郎|マイク・モラスキー|横井一江

いーぐる連続講演・音楽夜噺 予告


♬♬♬


 10月29日(土)30日(日)の二日間にわたり、関口義人と後藤雅洋の声かけで、これまであまり共同作業をすることのなかった音楽評論家たちが一堂に会して、ジャズとワールド・ミュージックについて議論を交わす音楽シンポジウム「ジャズとワールド・ミュージックの微妙な関係」が開催された。

 シンポジウムを記念して小冊子が編集され、公演プログラムや出演者プロフィールなどの他に、パネラーとは別枠で、総勢40人の音楽関係者に「あなたにとって生涯のミュージシャンを10人あげるとしたら?」というアンケートがおこなわれた。ミュージシャンが分類される音楽ジャンルは、テーマになっているジャズやワールド・ミュージックに限らず、なんでもよいとの内容だった。ふたりいる主催者のうち、後藤雅洋氏から依頼を受け、私自身もジャズ・サイドにピックアップされる形で、10人のミュージシャンを選出し、選択基準について書いた短文を寄稿した。基準はシンプルなもので、ひとつはその音楽をいまもくりかえし聴きつづけていること、もうひとつは、一般的な音楽史ではなく、耳の個人史に密着してはかられたミュージシャンの重要度に準ずるというものだったのだが、収録された文章を読むと、必ずしもそのようなものでなくてもよかったようだ。サウンドそれ自体ではなく、音楽によって「生涯の10人」を選択すれば、最終的には音楽が生育することになった時代や地域や伝統を、ひいては特定の音楽ジャンルを参照することになるだろうが、周知のごとく、現在ではその参照領域が大幅に拡大している。

 ふたつの音楽領域の関係が微妙であるだけではない。小冊子の表紙を飾るふたりのオヤジ評論家の服装も、また目線も怪しく「微妙」だし、抱きあいたいのか避けているのか、ふたりがとりあっている距離もぎこちなく「微妙」、撮影された場所も「微妙」なら、写真のトリミングもかなり「微妙」で、天候までが、晴れているのか曇っているのか、半袖のTシャツで暑いのか、ジャケットを羽織るほど寒いのかよくわからず、頭を抱えてしまうほど「微妙」である。いたってぼんやりとしたこの映像が、曖昧模糊とした「ジャズとワールド・ミュージックの微妙な関係」の表現ということなのだろう。あるいはこんなふうに言えるだろうか。「微妙な関係」の決定的瞬間を盗撮したところに出現するはずの “この瞬間” を欠いた焦点の定まらない写真は、モダン・フォトグラフィーの美学から遠くはなれたものであり、その意味では、瞬間によって成立するジャズの即興性からも遠くはなれた音楽の現状認識が語られたものであると。

 「ジャズとワールド・ミュージック」という対立軸は、ふたりの音楽評論家がよって立つ立場というより、そのような微妙で、曖昧な聴取環境のなかに、それ自身はモダニズムを出自とする、あるいは近代の伝統であるような「伝統と近代」という思考の枠組みをもちこむものと評価できるのではないかと思う。何度となくビートルズやボブ・マーリーがあげられていたとしても、ロックはここでは対立ジャンルとして措定されない。もしかするとロックこそが、両者を昇華した音楽形態かもしれないのに。近代が伝統を蚕食し、伝統が近代を再措定する、ポピュラー・ミュージックにおいてそのような戦闘的な場面はすでになく、即興はかならずしも伝統の切断を戦いとるものではなくなったいま、そのことによってむしろ対話的関係を失った伝統と近代は、「モダン・トラディショナル」という言葉が一語として認識されるような混交状態から飽和状態へと帰結しつつある。「ジャズとワールド・ミュージックの微妙な関係」が射程距離におさめているのは、そのような聴取環境でもあることを見逃してはならないだろう。
 
 

2011年11月2日水曜日

ディアスポラの力


混民サウンド・ラボ・フォーラム第10回
クレズマー・アゲインスト・シオニズム
──クレズマー音楽を再評価する──
パネリスト: 平井玄、大熊ワタル、北里義之(司会)
日時: 2011年1月23日(日)
会場: 吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ
(東京都武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル7F)
TEL.03-5411-1312
開場: 4:30p.m.、開演: 5:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
予約・問合せ: 音場舎 TEL.03-3731-8191
e-mail:omba@w2.dion.ne.jp


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 混民フォーラム「クレズマー・アゲインスト・シオニズム」は、シオニズム研究会が母体となって近刊予定の論集『シオニズムの解剖』に収録される平井玄のクレズマー論を主軸に、大熊ワタルがクレズマー音楽の概要と、日本における受容史の一端を証言、さらにクレズマーの新たな傾向も紹介するという内容だった。

 平井玄は、ジョナサン/ダニエル・ボヤーリンの著書『ディアスポラの力』を参照しながら、徹底抗戦のすえ、篭城したユダヤ人が集団自殺した建国神話としてのマサダ砦に触れ、それがまさに1990年代のクレズマー・ルネッサンス期のジョン・ゾーンによる “マサダ” の名の賞揚と連動してしまう事実と、ユダヤの歴史のなかには、戦いを回避しながら平和主義的にユダヤを再興しようとしたヤヴネとその賢者たちの系譜もあったことを述べて、 現在の時点において、“マサダ” の名の賞揚が政治的にもった意味の脱構築をはかりながら、クレズマー評価の軸足を、ジョン・ゾーンのマサダからクレズマティクスの雑芸的音楽に移し、あらためて「ディアスポラの力」の錬成を企図するというものだった。

 現在、例えば、都内のディスク・ユニオンをくまなく歩いても、かつて常設されていたクレズマー音楽のコーナーは姿を消しているそうだ。クレズマー・ルネッサンス期は、反グローバリゼーションの新たな社会運動だったシアトル叛乱(1999年)と、ニューヨークを襲った同時多発テロ(2001年)を境に終焉を迎えた。こうしたすべての条件を勘案してみると、現在クレズマー音楽(に体現される音楽傾向)は「第三の忘却期」にあると平井はいう。そうであるからこそ、1990年代のクレズマー・ルネッサンスが残したものを、私たちは仔細に聴きわける必要があると。

 そうした聴き方の具体例のひとつが、いまはなきニッティング・ファクトリー・レーベルがリリースしたオムニバス盤『Klezmer 1993 New York City』の冒頭に収録された女性サックス四重奏団 “ビリー・ティプトン・メモリアル・カルテット” が顕彰するジャズ・ピアニスト/サックス奏者ビリー・ティプトンが、実は、男装の麗人だったというジェンダー・ポリティクスの問題である。このようにして正史から排除されていく忌まわしきものを、それがなんであれひとつの器に盛ることのできるクレズマーという音楽を再評価する平井は、さらにジャズの男根主義的なイメージを脱構築するため、レスター・ヤングからチャーリー・パーカーへ、アルバート・アイラーへとつながるジャズの系譜の再読解へと突き進んでいく。

 (男性の)自己確立の物語としてのモダンジャズの歴史(あるいは近代の物語)を、つねに流動しつづけてやまないなにか別のもの──それこそ「ディアスポラの力」とでも呼ぶしかないようなものへと接続していくため、私たちの感覚を新たに再編成していく必要性が語られたように思う。議論の詳細は、近刊予定の『シオニズムの解剖』に収録される平井論文で確認していただきたいが、たぶんこうした要約で議論の大筋はつかめていると思う。

 正史を書く作業は、特に音楽や美術のように、聴覚や視覚を働かせることが深くかかわるような場合、理論的分析のみならず、はっきりそれとは気づかれにくい感覚の編成を必然的に帰結する。ある音楽ジャンルが確立し、物語が主人公や脇役をキャスティングするようになると、感覚の編成もひとまず完了する。音楽を聴く、音を聴くという行為が、(即興演奏による対話というような)言語的な側面の理解から、感覚の編成を読み解くものにシフトしつつあることは、音響派の出現を待たずとも、デジタル・メディアの普及などを背景に、ごく一般的に起こっている傾向で、多様化によって不安定なままにならざるをえない感覚の編成が、特定の音楽ジャンルの “外側” に──かつては “境界線上に” といわれたが、それらはすでに例外的なものでなくなり、既成ジャンルが無視しえないほどに常態化しつつある──大きな流動状況を生みだしているため、「ディアスポラの力」はむしろ、いつどこで爆発するかわからない潜在する力になっているといえるだろう。

 ただ、それを意図的に再編成することは、誰にとってもむずかしい時代だと思う。しかし、もしそうしたローカルな編成を立ちあげることに失敗すれば、意味もなく解体と再編成をくりかえすだけの諸感覚は、最終的に、もっとも巨大な資本力に飲みこまれていくだけではないかと思われる。感覚が感覚として意味をもたずに、情報断片化するとでもいったらいいだろうか。フォーラムで配布されたレジュメに、平井玄が書きとめた「耳」がある。

その響きは遠くまで轟きわたるというより、欠片のような小さな土地の地中深く滲み込んでいったと思う。それは「多文化主義」という、今では世界中のどんな公的機関でも使われる言葉では汲み取れない深度にまで到達していったと思う。その響きが見えないところでどんな根を伸ばしているのか。

 このようにして響きを「仔細に聴き分ける」耳とは、はるか遠くに、あるいはすぐ身近でリゾーム思想を響かせながら、ローカルな感覚の再編成を示唆したものだろう。問題は、現代の社会において、それがどうしたら実現できるのかではないだろうか。



[初出:mixi 2011-01-26「ディアスポラの力」]  

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■ サウンド・カフェ・ズミ http://www.dzumi.jp/