2012年1月6日金曜日

ジャン=リュック・ギオネ/村山征二郎


JEAN-LUC GUIONNET / SEIJIRO MURAYAMA
ジャン=リュック・ギオネ/村山征二郎
WINDOW DRESSING
(potlatch, P111)
 曲目: 1. Procédé、2. Processus、3. Procession、4. Procès
 演奏: ジャン=リュック・ギオネ(as) 村山征二郎(perc)
録音: 2010年6月30日、12月
場所: スロヴェニア、リュブリャナ/フランス、パリ
発売: 2011年7月


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 ジャン=リュック・ギオネのアルトサックスは、ラインとドットだけで描かれた抽象絵画のような演奏を、また村山征二郎のスネアドラムは、断片的なリズムというよりは、あらゆる音楽の機能性が剥奪されているという意味で、むしろひと山の土塊のようにしてあつかわれたサウンドを生み出すというふうな演奏をしながら、そのような演奏の性格上、デュオとしての共演ではなく、あたかも偶然のようにしてそこに居あわせるということを合意したアンサンブルが編みあげられている。即興演奏にクライマックスは訪れず、沈黙の瞬間は、徹底して身体的な深みを欠いている。意味を欠いているという意味で、わからないと言えばわからない演奏といえるだろうが、そこで演奏されているのがどんな種類の音楽かに配慮する必要もなければ演奏者も問題にならない、サックスでありスネアドラムであることさえ重要ではなくなっていることで、聴き手が響きをダイレクトに受けとることができるという点では、これ以上に具体的で、説明のいらないサウンドはないだろう。

 即興演奏によって生じる音楽的な構造を回避するために、深度のない響きの表層に滞留しつづけるというサウンド戦略は、かつての抽象表現主義が歩んだ道だし、強力な物語性を持っていた映画の領域でなされた蓮實重彦の「表層批評宣言」を思わせるものでもある。さらに「音響派」がブームだった時代の数々の音響実験が一巡したいまの時点では、クリシェと批判することも可能かもしれない。しかしたとえば、これはジャズの領域の話になるが、演奏の隠れなさ、あるいは平明さという点で、強力な関係性を築いていたスティーヴ・レイシーと富樫雅彦のデュオは、音楽することの無意味さといおうか、ある種の虚無といおうか、すべきことはすべてなされてしまったあとの領域を歩きながら、なおもその場の空気を輝かせるような演奏をしていたように思う。ギオネ=村山デュオのサウンドにそのような輝きはない。それはジャンルや演奏能力の違いによるというよりも、音楽になにを求めているかの相違なのではないかと思われる。レイシー=富樫のデュオは、ともに演奏することになにか崇高なものを感じているために、その感覚が音に輝かしさを帯びさせるという順番になっているように感じられる。音楽がないということではないにしても、このアルバムにはそのような音楽はすでにない。

 一般的に「音響的即興」と呼ばれている、音響ムーヴメントが即興演奏と交差する領域を見てきたなかで、私が個人的に重要なものと考えているのは、習慣化した聴取スタイルの脱構築とか、心理的なものとして考えられていたサウンドの物質化という以上に、演奏者と聴き手の間に演奏を介して生まれる、(これもわかりにくい言い方になってしまうが)経験の構造の変化である。音楽が変わったのではなく、私たちの経験のあり方が変化したということ。あるいは、変化の事実を、身体的に了解するのではなく、聴き手も演奏者も、明確に意識化することになるような演奏をすること。そのことが目立つ演奏もあればそうでない演奏もあり、現段階では、出来事をきちんと理解するため、個別に即していう必要があるだろう。使われるフレーズが局限されていることから、「リダクショニスト」の演奏といえばそういえてしまうジャン=リュック・ギオネと村山征二郎の本盤も、私たちがサウンドを聴く前提としている経験の構造の変化を踏まえた演奏をしている。それを場の音楽、環境を浮かびあがらせる演奏というふうにいうと、理解は少し容易になるが、この言い方では、出来事が自分の外にあるようにイメージされてしまうだろう。それではまずいのである。変化はこの世界全体においてもたらされており、それがわからなさの一部を構成している。



※タイトルの「window dressing」は、ショーウィンドーの飾り付け、粉飾、見せかけ、粉飾決算などの意味。











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