2012年3月30日金曜日

Tokyo Improvisers Orchestra


東京インプロヴァイザーズ・オーケストラ
Tokyo Improvisers Orchestra
日時: 2012年3月10日(土)
会場: 東京/浜田山「浜田山会館」
(東京都杉並区浜田山 1-36-3)
開場: 6:45p.m.、開演: 7:00p.m.
料金/予約: ¥2,000、当日: ¥2,500、学生: ¥1,500
スタッフ: 岡本正子 佐野友余 宝玉義彦
写真撮影: Leonardo Pellegatta
予約・問合せ: TEL.03-6804-6675(Team Can-On チームカノン)

TOKYO IMPROVISERS ORCHESTRA
【violin】阿部美緒 梶谷裕子 小塚 泰 高橋 暁
保科由貴 丸山明子 矢野礼子
【viola】田中景子 【cello】大沼深雪 橋下 歩
【contracello】岡本希輔 【contrabass】高杉晋太郎 Pearl Alexander
【篠笛】瀧田真奈美 【flute】Miya
【oboe, English horn】entee
【reeds】堀切信志 森 順治 Ricardo Tejero
【trumpet】横山祐太 【trombone】古池寿浩
【guitar】臼井康浩 細田茂美 吉本裕美子 【electronics】高橋英明
【sound scape】益田トッシュ 【percussion】松本ちはや 渡辺昭司
【percussion, voice】ノブナガケン 【voice】徳久ウィリアム 福岡ユタカ
【voice】蜂谷真紀 【piano】荻野 都 照内央晴
【dance】木野彩子 佐渡島明浩 【dance, voice】冨岡千幸
【朗読】永山亜紀子

[前半]第1指揮者:Miya 第2指揮者:entee/園丁
[後半]第3指揮者:蜂谷真紀 第4指揮者:Ricardo Tejero


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 文化庁が新進芸術家を選んで海外派遣する制度の2010年度派遣生に抜擢されたフルート奏者の Miya が、英国留学していた期間中に、現地の<ロンドン・インプロヴァイザーズ・オーケストラ>(略称:LIO)に参加したのがきっかけで、東京でも同種のオーケストラができないかと構想、コントラチェロを弾く岡本希輔の協力もあって、多くのミュージシャンに声をかけて実現したのが、この浜田山会館での自主公演が初舞台となった<東京インプロヴァイザーズ・オーケストラ>(略称:TIO)である。Miya と似たような経緯でLIOに参加したベルリン在住のサックス奏者アナ・カルーザが、みずから推進役となって一年半ほど前に結成された<ベルリン・インプロヴァイザーズ・オーケストラ>(略称:BerIO)が活動をはじめていたことも、大きなはげみになったかもしれない。集まったメンバーは、26歳から60歳までと複数の世代にわたり、日常的に東京のライヴシーンに触れているような音楽ファンにも、知った顔があり知らない顔がありという状態で、各プレイヤーがどういう即興をするのか、即興をどのように考えているのか、ハンドキューを使った即興オーケストラの方法にどこまで慣れているのかというような点は、まったくの未知数であった。周知のように、即興演奏というのは、多様であることが許されているだけで、それをすれば自由というわけでは必ずしもないからである。まして、今回の公演では、ジャンル横断という切り口による芸術の総合性も意図されていたようで、ダンサーやエレクトロニクス奏者、さらにはテクスト朗読者までがメンバーに名を連ねていた。

 時間軸を長いスパンでとれば、「即興」概念の成立以降にかぎっても、即興オーケストラの歴史は1960年代から連綿とつづいてきた。昨日今日にはじまったものではなく、詳細に論じれば、それだけで本が一冊書けてしまうような性格のものだ。しかしながら、出来事の核心にあるのは、その時々に人が集団性を求めるということ、それ自体だと思われる。オーケストラ形式が西欧市民社会の成立と不可分の関係にあるという起源にまでさかのぼったり、ジョン・ゾーンのコブラやブッチ・モリスのコンダクションなどと斬新さを競ったりするよりも大事なのは、これをいま私たちが暮らしている社会の欲求として受け止めることだと思われる。各都市で成立してきた即興オーケストラは、都市の名前をいただいていることでもわかるように、インターナショナルな国際性より、むしろその町に住む人々のダイレクトな声(あるいは声の直接性)という地域性をメルクマールにしている。もちろん、日常的に交流のない、雑多な人々が集まったオーケストラ集団の内部で、メンバー間の調整は不可避だろうが、それがいったん集団として表出されたときには、たとえ仮初めにそこに逗留していただけでも、この町を形作る草の根の声のひとつとなる。すなわち、「日本」のことをいうなら、それは制度的なナショナリズムに回収されない私たちの声のことであり、「東京」のことをいうなら、それは資本主義経済がもたらすネットワークシステムの別名でしかない無国籍性だとかグローバル性とは別の、原住民たちの声の集団性ということになるだろう。

 もうひとつ忘れてならないのは、TIOが3.11後の世界で求められた集団性であるという、日本の特殊事情だろう。これは震災や原発事故をどこまで自分の問題として考えているかで、とらえかたに差が生じると思うが、一般的に、原発事故のあとで広く求められたのが、新たなソーシャルメディアのネットワークであり、原発推進/脱原発のテーマをめぐって、ときには異質ともいうべき多種多様な人たちが話し合いの場をともにするということであったことを思えば、機能不全に陥ったことが明らかな間接民主主義を、どの点から解体/再構築するのであれ、私たちがまず必要としていたのは、そのためのよりどころとなるべき集団性の創出であったように思われる。たとえそこで民主主義の問題が論じられるわけではないとしても、ある集団性を構想することは、こうした3.11後の私たちの経験とどうしてもリンクしてしまう。ジャズのビッグバンドや即興オーケストラの伝統を離れた場所で、新たな集団性が立ちあげられたことは、むしろ日々の生活のなかにある音楽というような根っこに届いていないか。あるいは、原発国民投票が求められるような直接民主主義の行使に届いていないか。そんなふうに考えられるのではないかと思う。イタリアン・インスタービレ・オーケストラの結成に寄せて、オーネット・コールマンが贈った「サウンド・デモクラシー」の言葉を、ここで引きあいに出すこともできるだろう。

 浜田山会館で開かれた第一回のTIOコンサートは、休憩時間をはさみ、前後半各40分ほどの時間をさらに二分割し、前半は Miya と entee が、後半は、蜂谷真紀とリカルド・テヘロが順番に立って、ハンドキューによる指揮をおこなった。女 - 男 - 女 - 男という指揮者の性別も、世界原理として意識されていたかもしれない。コンサートの冒頭で、指揮者なしの集団即興がオーバーチュア的な前奏としておこなわれ、いわゆる「指揮される即興」を経由して演奏が人間の世界へとやってくる過程が描かれる。おそらくこれが、解説文において、「演奏は秩序と無秩序を自在に往来できる」と表現される構造の部分で、オーケストラの集団即興が描き出す混沌とした無秩序の世界に、指揮者の姿を借りたデミウルゴスが出現すると、秩序ある世界が出現するという物語性を、この晩のパフォーマンスに与えたと思う。指揮者のいない総勢39人の集団即興は、お互いの演奏を聴きあうためか、あるいはお互いに牽制しあうためか、細かいサウンドがひしめきあう大海原のような、茫漠としたサウンド・プラトーを創出した。コンサートを通していえることのひとつに、全員による演奏がクラスター的にはなっても、大きな交差点の真中に立っているような、フリージャズ的な喧噪状態にならなかったということがある。これは管楽器だけでなく弦楽器の数もじゅうぶんにあったこと、演奏者がジャズ出身者ばかりではなかったことなどが影響したに違いない。

 茫漠としたサウンド・プラトーをいったん制止して、ぶっ壊れたような細田茂美のガットギター・ソロを冒頭にすえた Miya のコンダクションは、ソリストによってリズムが出ることもあったが、最初に提示されたサウンド・プラトーの余韻を引きずって、クラスターが増幅したり、まるで十二単の着物を引きずるように緩慢に移動したりと、あたかも混沌に目鼻を描くような具合だった。つづく entee のコンダクションは、おそらくこの展開に強いコントラストを与えたいと思ったのだろう、大きな身振りでオーケストラを煽り立てたあと、返す刀で、永山亜紀子の朗読を生かした和の物語世界を展開してみせた。10分休憩のあと第二部のステージが開始、最初にメンバー紹介があった。そのあとで登場した蜂谷真紀のコンダクションは、それ自体がエレガントなパフォーマンスになっていた。ネジつきのオモチャを床に歩かせる冒頭や、途中で彼女自身のヴォイスを入れるなど、指揮者と演奏者を頻繁にスイッチする多重人格ぶりを示しながら、薄手の深紅のショールをひらめかせ、即興オーケストラから流れるような華麗さを引き出した。最後の指揮者として、LIOから迎えられたリカルド・テヘロが登場した。テヘロの指揮は、他のメンバーと少し性格が違い、音の集団性よりメンバー個人に焦点をあてながら、使用される音へのダメ出しも含むメンバーとの対話としてアンサンブルを構成していくものだった。正確にいうなら、これは指揮される即興というより、むしろコンポジション的な指揮だったといえるだろう。



※オーケストラ演奏中の写真はすべてレオナルド・ペレガッタ。 
 レオナルド・ペレガッタ Leonardo Pellegatta|1970年、イタリア・ミラノ生まれの写真家。1996年、" Fine Arts at the School of Visual Arts of New York" を卒業。97年よりプロとして活動。特にダンスや演劇で数多くの撮影をおこなう。2003年より活動拠点を東京に移してから『モノ・マガジン』『日本カメラ』などに作品を発表、読売新聞の記念キャンペーンなどの広告写真も手がける。イタリアのサーカスに関するドキュメンタリー映像と写真のプロジェクトがライフワーク。
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2012年3月29日木曜日

朴 在千・佐藤允彦 DUO



Park JeChun 2012 Japan Tour
朴 在千・佐藤允彦 DUO
Special Guest: 大野慶人 工藤丈輝
日時: 2012年3月22日(木)
会場: 東京/新宿「ピットイン」
(東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿ビル B1)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥3,500(飲物付)
出演: 朴 在千(drums) 佐藤允彦(piano)
Guest: 大野慶人(舞踏) 工藤丈輝(舞踏)
予約・問合せ: TEL.03-3354-2024(新宿ピットイン)



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 今回の朴在千の来日公演は、当初、入谷なってるハウスで開かれた「副島輝人プロデュースの夜」への出演と、バージ・レーベルからリリースされる新譜『Afterimages』の発売記念を兼ね、新宿ピットインで開かれた佐藤允彦とのデュオに限定してイメージされていたらしいが、最終的に、佐藤允彦とのデュオで静岡の青嶋ホールに遠征し、YAS-KAZと打楽器デュオをおこない、最終日で坂田明との初共演を果たすという、その後の日程が加わったものである。ツアーの目玉だった佐藤允彦/朴在千デュオの演奏は、これまでにも何度となくおこなわれてきたものであり、ごく初期のころは、ともに手数が多く饒舌な演奏スタイルに加え、高度な演奏力に裏づけられた抜群のスピード感と、面白いほどに先読みのできる場面展開の妙が真正面からぶつかりあって、両雄並び立たずというような丁々発止の展開が、即興の他流試合を見る醍醐味を与えてくれていた。相手を本気にさせる共演者、相手を本気にさせる演奏というものが、音楽そのものを裸にしていく。そのような瞬間にめぐりあった聴き手は幸運、幸福というしかない。しかしながら、即興演奏においてこうした時期はけっして長くはないようで、現在のデュオは、お互いの文化的なバックグラウンドを尊重し、ひとつの音楽を作るため、みずからの持てるものを提供するという姿勢に変わったようである。新宿ピットインでも、その延長線上にある演奏をしたと思う。

 大野慶人(おおの・けいじん)の舞踏は、凡庸な踊り手にまま見られるような、音楽を身体表現のための “伴奏” にしてしまうようなものではなく、こうしたデュオのあり方に深く介入し、音楽そのもの、場そのものを変態させてしまうようなものだった。禿頭、厚く白塗りされた顔と手、二匹の蝶のような、カフカのような尖った耳、魂が抜けたような人形のまなざし、学生服ふうの黒ずくめの衣装、ウサギの耳とドレスの切れ端のような肩掛けショール、きらびやかな歌舞伎の羽織、大野の身体がそこに出現するだけで、別役実の不条理劇がそうであるように、時間も空間もぐにゃりと歪む。日常性に見るも無惨な亀裂が入る。彼の身体は、まるで音が見えるかのようにステージを移動しながら、波動に巻きこまれ、波動を押し返し、そこで歌舞伎の見栄のようにいくつかの型をしてみせる。高速度のサウンド流のなかにそびえ立つ巌さながらであるが、この威厳のある巌の揺るぎなさにはじきかえされたのだろうか、登場の最初の瞬間から、デュオはこの舞踏家の動きを擬態していた。客席後方を楽屋がわりにしていた工藤丈輝が、そこからステージに出入りしたのに対し、大野慶人はつねに控え室にいて、ステージに登場するたび付添人が扉を開閉していた。この段取りもまた、能舞台の橋懸かりに出る化生のものめいて、私たち日本人の記憶の古層を刺激するようだった。

 大野の体調が万全ではないという理由で、ステージにはもうひとりの舞踏家・工藤丈輝が招かれていた。当日のお品書きにも名前が書かれていない特別ゲストである。大野がひとしきり舞ったあとで登場した工藤は、大野とは対照的に、目にも留まらない速い動きで身体を構成していく。鈍重な肉体を大地から引きはがし、まったき動きに還元していこうとする彼のダンスは、「高速度のサウンド流のなかにそびえ立つ巌」というふうな大野の身体表現の対極にあるものだった。それはそれで論理と美を体現したもので、時間感覚でいうなら、むしろ佐藤允彦/朴在千デュオに近いものだったと思う。身体が似たような時間の流れのなかにあるため、予期せぬシンクロニシティが働き、演奏とダンスがひとつになったりする瞬間が生じる。しかしながら、身体が異物として立ちあらわれない “共演” であることから、空間は歪まない。日常性に亀裂も入らない。言うまでもないが、これはどちらが正しいという選択の問題ではないだろう。身体のありようひとつで、場にこれだけ大きな変化がもたらされるという、驚くような対比が示されたのである。最後には、大野慶人が再登場し(第一部ではお色直しをしていた)、ふたりの演奏家とふたりの舞踏家からなるカルテットでステージが構成された。<2→3→3'→4→2>という数字からなるステージが、二度反復されたのである。

 冒頭で述べたように、この晩の佐藤允彦/朴在千デュオは、強弱の大きいサウンド、独特なリズムの語りまわしとグルーヴ感、声の存在、あるいは演奏の落としどころといったものに、韓国の伝統音楽に通じるオリジナリティを発揮する朴の音楽性をフォローすべく、佐藤がつねに一歩遅れながら距離を縮めていくという演奏をしていた。これはかつてのデュオからは想像もつかなかったもので、最後には、朴が佐藤に演奏をリードすることを求めるような場面もあったほどだ。ここには、こんなふうにして朴在千の演奏の固有性を前面に出すことが、そのままデュオのオリジナリティに直結するはずだという、(プレイヤーではなく)音楽プロデューサー佐藤允彦の判断があるのだろう。そしてそれはたぶんあたっている。大野慶人と工藤丈輝という、領域を異にする表現者との共演は、音楽の伝統、身体表現の伝統をめぐって錯綜した関係性を開くこととなり、デュオの演奏をまた別の方角にふり向けることになった。解説に立った副島輝人がMCで述べたように、まさしく「明日の音楽はいまここで生まれている」という実感を再確認した一晩だった。





  【関連記事|朴在千 2012年 来日公演】
   ■「朴 在千+吉田隆一+佐藤えりか」(2012-03-22)
   ■「朴 在千・坂田 明 DUO」(2012-04-13)



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新宿ピットイン

2012年3月27日火曜日

Bears' Factory vol.12 with 森 順治



Bears' Factory vol.12 with 森 順治
高原朝彦池上秀夫森 順治
日時: 2012年3月24日(土)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: 高原朝彦(10string guitar) 池上秀夫(contrabass)
Guest: 森 順治(as, ss, fl)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)


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 高原朝彦と池上秀夫が共同企画する阿佐ヶ谷ヴィオロンのライヴ・シリーズ「ベアーズ・ファクトリー」の第12回公演に、第2回(2010年6月13日)の出演からほぼ二年ぶりで、サックス奏者の森順治が再登場した。ピアノの黒田京子、フレームドラムのノブナガケンらをゲストに迎えた最近のライヴでは、高原が真正面にあるオーディオの前に陣取り、池上は一段高くなった木製の回廊に立って弾いたが、この日はオーディオ前の森順治をふたりがはさむようにして位置し、高原は回廊のうえの椅子にすわり、池上は土間に立って演奏した。高原と池上の視線がおなじ高さになるような関係。これまでのことをいえば、むしろこちらのポジションで演奏するほうが多いとのこと。いずれも場所が狭いためになされる工夫だが、結果的に、トリオが至近距離で小さな輪を作るようにして向かいあい、共演者を目の前においてインプロヴィゼーションすることになり、そこから親密な音楽が生まれてくる。こうした音楽の親密さは、阿佐ヶ谷ヴィオロンのライヴの大きな魅力となっている。今日では、こうしたライヴに場所を提供している小さな店はたくさんあるだろうが、そのなかでもヴィオロンはとりわけ印象的な場所だと思う。

 それはたとえば、もしかすると、そのような人と人との親密な関係を求めているのが、この場所そのものかもしれないというような予想外のことからやってくる。様々な記憶をたたえた古びた家具調度品とともに、SP盤を聴く名曲喫茶の伝統をいまの時代に残そうとする阿佐ヶ谷ヴィオロンは、その配置からまるで教会の祭壇のように見えるオーディオ装置を中心に、現代では失われつつある人々の関係性を、どうにかしてつなぎとめようとしているかのように見えるからだ。考えすぎだろうか? こんなふうに固有の記憶とともにあるライヴ会場や、その建築構造が、しらずしらずのうちに演奏者に与える影響は、四谷にある喫茶茶会記にも共通していえるのではないかと思う。地下室のように窓のない喫茶茶会記は、扉を閉めれば密室状態となり、PA機材もないところから、ヴィオロンと同じように、あるいはヴィオロン以上に、密閉度の高い内的空間が形作られるからである。

 私が聴いたこれまでの公演とくらべると、この晩の演奏は、親密度がさらにあがったように感じられた。森順治との二度目のトリオだからだろうか。演奏者の相性のよさからだろうか。あるいはお互いを邪魔しないような楽器のバランスのよさからだろうか。そのどれもがありそうなことだが、それだけではなく、ピアノが回廊のうえに乗っていることから、また打楽器が少し広いスペースを必要とすることから採用された前2回のイレギュラーなポジションは、少しだけトリオの輪を乱して、聴き手の側に(半分だけ)演奏者の身体を開いたからではないかと思われる。インプロヴィゼーションの演奏を、演奏の外側にあって枠づけるポジションの問題は、ふだんあまり触れられることがないものの、とても重要な音楽の要素で、この場合、ホスト役のふたりが対面関係になっているか否かがキーポイントになっていると思う。この意味では、本シリーズを聴きはじめてから、私はおそらくこの日初めて「ベアーズ・ファクトリー」を聴いたはずである。ノイズを多用する高原のギター演奏、どっしりと重量感のある池上のコントラバス、そしてアブストラクトなメロディーを奏でる森の管楽器と、お互いに異質なサウンドが、ときおり高原の煽りに波打ちながら、それぞれの場所をうまく住みわけることで、アンサンブルに浮遊感を与えていく。

 ベアーズ・ファクトリーに森順治が加わったトリオ・インプロヴィゼーションは、それこそはじまりもおわりもない、はじまりがおわりであり、おわりがはじまりであるような演奏を展開した。激情でもなく、沈黙でもなく、すべてのものの中庸をいくような演奏。即興セッションは、高原が要望を出して、前後半のそれぞれに2曲ずつおこなわれた。第一部は、探りあうような出だしからスタート、しばらくすると、三つ巴になりながら混じりあうことなく、どんなに接近しても絡まりあうことのない不思議な糸のようにして浮遊感のあるアンサンブルが形成されていく。高原朝彦の10弦ギターにあらわれる破天荒なプリペアド・ノイズは、変態したハーモニーのようであり、池上秀夫のコントラバスにあらわれるジャズの記憶は、楽曲を強力に進行させ、森順治が演奏するサックスとフルートは、場面展開も多彩で、ときおり楽器をスイッチしながら、共演者ふたりの演奏の間を泳ぐように漂っていく。第二部では、前半にも増して、高原がノイジーなサウンドでアンサンブルを過激化していたのだが、最後の場面で、ギターの名曲「アルハンブラ宮殿の思い出」を引用、いかにも彼らしいやり方で演奏に意外性を与えていた。



【Bears' Factory|関連記事】                   ■「Bears' Factory Annex vol.5」(2012-02-27)          http://news-ombaroque.blogspot.jp/2012/02/bears-factory-annex-vol5.html      ■「Bears' Factory vol.11」(2012-01-23)          http://news-ombaroque.blogspot.jp/2012/01/bears-factory-vol11.html


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阿佐ヶ谷ヴィオロン

2012年3月25日日曜日

ラジオ番組 Free Music Archive 収録順調!



 2008年4月から9月までの半年間、衛星デジタル・ラジオ放送ミュージックバードのジャズ・チャンネルで、サウンド・カフェ・ズミの泉秀樹が、いまや入手困難な音盤の数々をふんだんに使いながら、世界的な広がりを見せたニュージャズの歴史を繙くシリーズ番組「Free Music Archive at Sound Café dzumi」(全27回)が放送された。相手役は番組制作者でもある渡邊未帆。回によって、星野秋男、横井一江、岡島豊樹、副島輝人らの特別ゲストを迎えておこなわれた第一期放送分では、ニュージャズの源流から1970年代直前までがたどられたが、今年になって泉秀樹/渡邊未帆の名コンビが復活、4月7日から同シリーズの第二期放送がスタートすることとなった。第1回の放送は「激動の1969年①アメリカ」。チャーリー・ヘイデンとカーラ・ブレイが結成したリベレーション・ミュージック・オーケストラの音楽、世界をにぎわしたアポロ11号の月面着陸に捧げたオーネット・コールマンのレアシングル「Man on the Moon」その他、盛りだくさんの内容となっている。レコード・アーカイヴのカフェ・ズミをスタジオ代わりにはじめられている番組収録も順調で、今回も充実した内容が期待できそうである。放送は毎週土曜日の11:00から(再放送:翌日22:00)。衛星デジタル・ラジオ放送の契約が必要になるが、毎週日曜日22:00再放送のぶんはカフェ・ズミでも聴くことができる。


2012年3月24日土曜日

坂田 明/八木美知依/本田珠也 トリオ



坂田 明八木美知依本田珠也
日時: 2012年3月23日(金)
会場: 東京/新宿「ピットイン」
(東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿ビル B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥3,000(飲物付)
出演: 坂田 明(as, cl) 八木美知依(el-21絃箏, 17絃ベース箏) 本田珠也(ds)
予約・問合せ: TEL.03-3354-2024(新宿ピットイン)


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 第二部のMCで坂田明は3.11の話をした。一周年直後のこの時期ではあるし、雨の日ではあるし、震災前から、「がんばらない」「あきらめない」の鎌田實が主催している日本チェルノブイリ連帯基金に助っ人していたこと、あるいは被災地に入ってのコンサート、なかでも坂田だけでなく、この晩のメンバー全員にとって記憶に残るのは、2011年11月にオーストリアのヴェルスで開催されたミュージック・アンリミテッド祭が、70歳になったペーター・ブロッツマンの業績を称えて開いた「ロング・ストーリー・ショート」のなかに、坂田明や八木美知依も参加した「フクシマ・プロジェクト」があったことだろう。そもそもこの音楽祭は、日本との関係が深いブロッツマンの思いを汲んで、日本人ミュージシャンのためにおこなわれた側面を持っていた。こうした諸々のことが重なって、全身全霊のフリージャズ、フェイク平家物語、鳥取民謡の「貝殻節」と、これまで親しんできた坂田明の世界に、もうひとつなにかが加わったように思う。余震による4号機の崩落という危機的な状態に、いまも東日本に住む私たちがさらされていることは等閑視できないものの、フクシマの経験は、もはや日本だけのものではない世界のものになっている。それでも出来事というものは、坂田明の音楽のように、個人の思いからなされることの少しずつの積み重ねによって、日常的な世界で少しずつしか進行していかない。

 八木美知依の箏が奏でる和の世界は、邦楽をしているときよりも、彼女の身体的な表出が関わるフリージャズの環境にあるとき、(たぶん共演者が日本人ということも手伝って)驚くべき親和力を発揮する。技術的な修練や新たな奏法の開発に努力しているということもあるのだろうが、このトリオで聴くことができたのは、彼女が箏という楽器との関わりで培ってきたもっと感覚的なものである。サウンドの原石や土塊をあえてむきだしにしようとする坂田の野生に、これまでどんな演奏家も与えることができなかった色合いを与えてみせるのである。身体を激しく前後させ、楽器に体当たりするようにして演奏されるフリージャズでも、イマジネーションが鍵となるバラッドに色を添えていくときでも、それがうまくはまっている。このことはつまり、たとえジャズ的なムードは出せなくても、これまで積み重ねてきた多くの共演を下敷きに、フェイク平家物語を語り、貝殻節を高唱することで坂田が求めているものに、別の形と世界の広がりを与えているということではないだろうか。このようにいうと誤解されるだろうからであえて付言しておくと、ここにはありきたりの日本回帰もないし、日本人による自己植民地化であるジャパニズムもない。仮構される日本的伝統からの私的な流用しか存在しないのである。そしておそらくそれが個人において起こることのすべてである。このことを絶対的に肯定してみせるのが坂田明の音楽だといってもいいだろう。

 本田珠也のドラミングは、坂田明と八木美知依という、オリジナルな世界を持った演奏家たちを相手にしながら、演奏スタイルにしても楽器の選択にしても、奇を衒うような部分はいっさいなく、むしろストレートすぎるほどストレートなもので応じていた。共演者の感情の動きに大きく憑依することなく、少し離れた地点に立って、多彩なリズムをつぎはぎしながら状況への即応力をみせるといった印象。楽曲の冒頭で、八木が通奏低音のようにして21絃を弓奏しつづけた「貝殻節」では、ホースをふりまわして風を切る幻想的な音を入れるなど、サウンドの選択にも光るものをみせた。ちなみにこの「貝殻節」は、坂田の土塊のヴォイス、静かな海が目の前に開けているようなノイジーな箏の絃(ハーディガーディを連想させる)のたゆたい、やがて潮騒のように入ってくるミニマルなシンバル音、坂田と本田のアフリカ的コール・アンド・レスポンス等々、過去に何度か演奏したことがあるのだろう、異質なるものを絶妙のバランスのなかにとりまとめて聴かせた名演であった。

 メロディーを支える本田の長尺のドラムロールが印象的だった「浜辺の歌」を最後に演奏したのも、MCのなかで坂田が語った、被災地で見たという津波が襲ったあとの夜の海岸線に重ねてイメージされるものだった。静かな出だしから、やがて坂田と本田が激烈なフリージャズに移行したあと、八木がそこだけぽつんと取り残された場所のように、もう一度メロディーをたどってみせるという構成で、あんなに激しいフリージャズを演奏しても、いたって静かな印象をもたらしたこの晩のコンサートは、明言はされなかったものの、あるいは演奏者にそうした意図はなかったかもしれないが、おそらく事実として3.11へのレクイエムだったと思う。そのことがあったからこそ、八木美知依の箏の弾奏が、この晩は自然のイメージと密接につながって聴こえてきたのではないだろうか。そうした感覚とともに伝えられてきた邦楽器のサウンドには、やはり日本人の自然観を触発する文化伝統が、いまも深く埋めこまれているということなのであろう。

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新宿ピットイン
 




2012年3月22日木曜日

朴 在千+吉田隆一+佐藤えりか



Park JeChun 2012 Japan Tour
【副島輝人プロデュースの夜】
朴 在千吉田隆一佐藤えりか
日時: 2012年3月21日(水)
会場: 東京/入谷「なってるハウス」
(東京都台東区松が谷4-1-8 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500+order
出演: 朴 在千(perc) 吉田隆一(brs, cl, fl, 口琴) 佐藤えりか(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3847-2113(なってるハウス)


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 韓国フリーミュージックの創始者である姜泰煥の愛弟子として来日し、初めてその演奏に接してから、様々なシチュエーションで打楽器奏者・朴在千/パク・ジェチュンの演奏を聴いてきた。長いこと孤立無援を強いられていた韓国第一世代につづくミュージシャンの出現ということで、彼の存在は、その最初の登場の瞬間から、日本の関係者たちにも嘱望されるものだったのである。それぞれに特徴を出した佐藤允彦や大友良英とのデュオ(大友は、韓国公演した際に、あまりそうした資質があるとは思われない朴と、音響的なアプローチにも挑戦している)、パートナーであるピアニスト美妍/ミヨンとのポピュラーなジャズ・プログラム、そしてなかには詩人の吉増剛造や箏の八木美知依と共演した異色セットもあった。様々なタイプの音楽を経験して器用貧乏になることなく、朴在千はいつしか確乎とした彼自身の打楽スタイルを持つようになった。今回の来日ツアーでは、最終日に坂田明との初共演が控えている。合羽橋なってるハウスで開かれた初日のライヴには、サックス集団SXQへの参加や、自身のバンド “ブラックシープ” などで活躍するバリトンサックスの吉田隆一と、スガダイローの “秘宝館” などに参加しているコントラバスの佐藤えりかがゲスト出演した。吉田隆一は、バリトンの他に、クラリネットやフルート、さらに口琴などを用意(東北アジア音楽ネットワークへのオマージュ?)、第一部の冒頭でこれを使って演奏の導入部にした。

 切っ先鋭い剃刀パンチのように、リズムの中心を深くえぐって打ち出される強烈なドラミング、躍動する身体から放出される気持ちよいほどに透徹したピュアなサウンド、走り出したときの猛烈なスピード感、これらが一体となった朴在千のドラミングは、フリーフォームの演奏といっても、「パルス」と呼ばれるフリージャズ的なリズムの細分化からやってきたものではなく、パンソリのような韓国の伝統音楽で培われた固有のグルーブから生み出されてくるものだ。ドラムキットの構成に韓国の伝統楽器を入れるところに顕著だが、彼の演奏のベースには、土取利行のトーキング・ドラムとくらべられるような、2や3で割り切ることができない(西欧的でない)語りのリズムがあり、注意深く耳を傾けるなら、高速で展開されているドラミングの奥底に、ゆったりと振幅するバイオリズムのようなもの、盤石の呼吸法のようなものを感じ取ることができるのではないかと思う。それを「韓国的」といっていいのかどうか迷うところだが、朴在千の演奏は、リズムの切れ目や歌い方に(あるいは語り方に)、彼自身や共演者を鼓舞する声の出し方に、個人的な時間を超え、歴史的な時間のなかで磨かれてきた高い洗練度を感じさせるものがある。

 一年ぶりの「副島輝人プロデュースの夜」としておこなわれた、初日の合羽橋なってるハウス公演で、ゲスト奏者に迎えられた吉田隆一と佐藤えりかは、もちろんアンサンブル作りに不足のある相手ではなかったが、あくまでもジャズを演奏していた。集団即興がそのままフリージャズであるような意識のなかで演奏していた。その結果、ジャズ的な歌い方のパラフレーズ、パストラルな曲想の展開、お互いを駆り立てるようなホットな演奏といったものが、どこまでもクールな朴在千の演奏によって、強いコントラストを与えられることになったと思う。このことは、たとえば、1990年代に私たちが初めて韓国のシャーマン音楽に触れたとき、コントラバス奏者の齋藤徹が異国のリズムのなかにダイブしてゆき、サックス奏者の梅津和時がそれをジャズに接合するという対し方をしたことの相違を思い起こさせる。どちらの場合も、その場で即興的なアンサンブルが構成されることに変わりはなく、また朴在千がパルスのあるドラミングを拒絶しているわけでもなく、いずれにしても聴き手は、生命力にあふれた演奏を楽しむことができるのだが、こうした諸々の出来事を、朴在千がそれなりの結論を出した音楽上のアイデンティティのテーマにおいてみるとき、個別の達成はいろいろとあげられるものの、ジャズという音楽をいまもローカルに語りなおせていない私たちの問題が浮上してくるのではないかと思う。それは1980年代的な音楽的多様性の肯定のなかでは、解決されなかった問題だったといえるだろう。

 管楽器ならまだしも、強烈な打楽の音圧にベースが負けてしまう事態を回避して、ドラムヘッドを素手で叩いたり、シンバル類の細かな音を使うなどの気配りを示しながら、メンバーのひとりひとりにソロを回し、熱くくりひろげられたツーセットの即興セッション。過去に何度も見てきたように、ここでも朴在千は、聴いて、聴いて、聴きつくす人だった。共演者の一挙手一投足に全神経を集中するからこそ、アンサンブルの全体が精妙にコントロールされるという離れ業をしてみせたのである。



  【関連記事|朴在千 2012年 来日公演】
   ■「朴 在千・佐藤允彦 DUO」(2012-03-29)
   ■「朴 在千・坂田 明 DUO」(2012-04-13)






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なってるハウス

2012年3月20日火曜日

高柳昌行 - Peter Kowald - 翠川敬基


高柳昌行 - ペーター・コヴァルト - 翠川敬基
Masayuki Takayanagi - Peter Kowald - Keiki Midorikawa
即興と衝突
Encounter And Improvisation
(地底レコード, Mobys/Chitei MC-10017)
 曲目: 1. Encounter And Improvisation(44:13)
 演奏: 高柳昌行(g) ペーター・コヴァルト(b) 翠川敬基(cello)
録音: 1983年4月29日
場所: 東京/池袋「Studio 200」
発売: 2012年4月15日


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 1980年代、最先端の芸術動向を素早くキャッチして、海外から来日するインプロヴァイザーたちにも公演場所を提供していたのが、西武百貨店池袋店の8階にあった席数200の小ホール “Studio 200” だった。1983年から1984年にかけ、この場所で開催されていたコンサート・シリーズ「Inspiration & Power Vol.3」(「Inspiration & Power」の名前を冠したイベントがそれまでにもおこなわれており、これはその第三弾という意味である)の第二回公演は、コントラバス奏者ペーター・コヴァルトをギタリストの高柳昌行とチェリストの翠川敬基が迎え撃つという即興セッションだった。このときの貴重な録音が、当時シリーズの企画を担当していたジャズ評論家の副島輝人の手に残されていたということなのだろう、2007年に地底レコードと共同して立ち上げられた<モビース/地底>シリーズから『即興と衝突』として発掘リリースされることとなった。タイトルは植草甚一の名著『衝突と即興』(1971年)をもじったものか、いかにも時代を感じさせる趣向である。

 ピナ・バウシュの拠点があったヴッパタール出身のペーター・コヴァルト、またモダンジャズからフリージャズへと道を切り開いてきた高柳昌行は、ともにすでに鬼籍に入ってしまったが、80年代前半のこの当時は、それぞれが新たな展開へとジャンプする凪のような時期にあり、コヴァルトはやがて、フリーミュージックの欧州中心主義から離れ、マクルーハン流の「グローバル・ヴィレッジ」という世界イメージのもと、インプロヴァイザーの世界的なネットワークを構想していくことになり、ジャズからの転換を試行していた高柳昌行は、ソロ・ギターによりある種の集大成をおこなったあと、フリー・インプロヴィゼーションからノイズという新たなサウンドの地平へと向かうことになる。そのような時期における出会いを刻印した本盤は、海外の演奏家と共演することが少なかった高柳にとって、貴重な記録のひとつといえるのではないだろうか。

 いつもながらに饒舌で、パフォーマティヴな演奏を次々に繰り出して突っ走る翠川敬基のチェロ。芋虫が繭を作るような変態期にあり、彼ならではの訥弁の語り口が、ノイズによってさらにズタズタに引き裂かれているような高柳昌行の演奏(ギターらしい演奏は一切していない)。とてもアンサンブルしているようには聴こえないふたりの異形のものを前に、海中にゾンデを下ろすようにして、コントラバスの弓奏でアブストラクトなサウンドやメロディーをさしはさんでくるコヴァルト。「即興と衝突」──タイトルに記されたような出会うためのインプロヴィゼーションは、演奏者たちの資質のあまりの相違、音楽の異質性によって、対話に発展することはなく、高柳とコヴァルトと翠川の演奏を、とりあえずこの場にならべるというふうにしておこなわれている。そうであるにも関わらず、日々の暮らしのなかで夫婦が似てしまうように、即興セッションの時間経過は、触れあうサウンドに不思議な温か味を帯びさせはじめ、異質な演奏者たちの異質性をそのままに、ひとつの気合い、ひとつの雰囲気を醸成していく。この日のセッションには前半と後半があったのだろうか? 本盤に収録されたテイクでは、まるで動物が少しずつ場所に馴れていくような、温か味をもった雰囲気の醸成をもってセッションが閉じられている。




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地底レコード
 





2012年3月19日月曜日

パール・アレキサンダーのにじり口 with 鶴山欣也



Pearl Alexander presents "Nijiriguchi"
パール・アレキサンダー:にじり口
with 鶴山欣也
日時: 2012年3月18日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金/前売り: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: パール・アレキサンダー(contrabass)
鶴山 “ZULU” 欣也(butoh dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)


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 すでに常識ではあるが、あらためて確認すると、即興演奏家とダンサーの共演は珍しいものではない。ダンサー自身が音を出しながらソロ・パフォーマンスするケースもあり、その意味では、他ジャンルの表現者との共演というのは、そのいちいちを音楽的な言語に翻訳しておこなわれる即興演奏(これまた周知のように、即興演奏というのは、一般的にいって、イディオムと呼ばれる固有の言語の習得およびその使用法と深くかかわる表現形式である)とは違い、サウンドと身体がステージ上にならべられ、その “瀬戸際” がむき出しになるため、演奏家までもがひとりのパフォーマーへと変成し、観客にも直接的な身体の開けをもたらすことを特徴とする(ように思われる)。あるいは逆に、音を聴くという時間経験が視覚に圧倒されることで、自由であるはずのイマジネーションが、目の前に立つ表現者の身体に縛られてしまうということも生じる。身体の形、動きの形、足のひと運び、身体の方向というように、私たちの身体は、あらゆる瞬間に時間を空間へと翻訳しつづけているからだ。「アンドロメダ」を公演したパール・アレキサンダーと柿崎麻莉子のコンビは、コンポジションすることによってパフォーマンスに物語性を持ちこみ、身体表現もつねに時間のなかにあることを観客に意識させていた。ベーシストが喫茶茶会記で主催している「にじり口」シリーズ第一期の最終回となったこの日の公演には、過去に何度か共演経験のある舞踏の鶴山 “ZULU” 欣也が迎えられ、「アンドロメダ」のような物語的要素のない即興セッションを、通常のライヴのように第一部と第二部に分けておこなった。

 禿頭に白塗りという舞踏ならではの出で立ちをした鶴山に趣向があり、第一部では、さらさらと肌触りのよさそうな白い布を両肩で止め、ポンチョのような、お化けのQ太郎のような格好で、指先までの全身をいっせいに動かせてみせるミニマルなパフォーマンスをし、第二部では、サングラスにパジャマという、意図的にミスマッチな取りあわせの衣装で、ミクロなダンスに重きを置く第一部とはうって変わった展開をみせた。小道具のサングラスがダンスに演劇的な要素をつけ加えるため、私たちはどうしても役者的な存在をそこに見てしまう。何かを演じていると、頭が勝手に “解釈” してしまうのである。パジャマのような衣服のモードは、それだけで強い意味を発する記号であり、表情を隠すサングラスは、第一部で見せたような喜怒哀楽の感情がつくるダンスを殺し、かつ覆い隠す機能を持っている。舞踏について無知なままでいうのだが、まるでアジアの僧侶を思わせた第一部の出で立ちは、すべての記号的なるものを捨て、身体の動きだけに視線をフォーカスするよう要請する約束事なのではないかと思う。ダンサーがもし全裸になったとしたら、おそらくむきだしになった筋肉や骨が、見るものに視覚的な意味を投げかけることだろう。身体にまとった一枚の布は、動きに還元された身体が投影されるスクリーンのようなものと言ってもいいかもしれない。

 このようなシチュエーションのもとでパフォーマー化される即興演奏家は、もし光のもとに出現する身体のための伴奏をするのでなければ、いったいなにをすればいいのだろう? 楽器を弾くことをダンスとしておこなうことだろうか(そういえば彼女はいつもより激しい動きをしていたし、それを「ダンサブル」ということができるかもしれない)、身体のミクロな動きや表情、感情などをトレースして舞踏家とコミュニケーションすることだろうか(たしかに彼女は「baby」と呼んでいつくしむ楽器を手のひらで撫でさすり、いつもはサウンドの下に隠されている触覚のような皮膚感覚を立ちあげていた)、フレーズの固定や反復を回避し、形式のないノイズのようなサウンドを解き放つことだろうか(他のミュージシャンと共演したりソロ演奏したりする場合と違って、この日の彼女の演奏は、間違いなくゆくえさだめぬ動きそのもののなかにあった)、しかしながら、そのどれもでありながらそれらを超えるものもそこにはあった。演奏するたびごとに腕をあげていく上り調子の演奏家のきっぷのよさといおうか、威勢のよさといおうか、いざという瞬間に物怖じしない度胸のようなものである。柿崎麻莉子には、パフォーマンス環境を整えるような演奏をしていたアレクサンダーは、鶴山欣也に対して、細部を射抜く視線を放ち、ほとんど挑戦的といえるような音を投げかけていた。

 照明はきちんと調整されていなかったらしいが、(偶然にも?)ステージセンターにあたる部分に光があり、舞踏家はそこにたどり着くまでをパフォーマンスの導入部にした。ダンスは光のなかにあり、サウンドは影のなかにあった。舞踏家が光のなかに入っていない段階で、演奏家は演奏を変えてしまう。たぶん彼女は舞踏家の動きに集中して、光が偶然に作り出す構造を見ていなかったのではないかと思う。「にじり口」の初回、中村としまるがしてみせた前半の寡黙な演奏に、方向を見失った彼女もいた。しかしこのような “ずれ” もまた、出来事を豊かにするように働かせてしまうのが、即興演奏の醍醐味である。パール・アレキサンダーと鶴山欣也は、15分休憩をはさみ、30分強のステージをふたつ続けて完走した。それにしてもパール・アレキサンダーの生み出すアルコのノイズはなんと豊かなことだろう。デレク・ベイリーの演奏が、ギターから前代未聞の音楽を生み出すサウンド断片でありながら、なおもそれをこのうえなくギターらしいと感じさせる手腕を持っていたのとおなじように、彼女の演奏は、倍音成分の響かせ方に分厚い伝統を感じさせる正統派のインプロヴィゼーションだ(矛盾した言い方だが)といえるだろう。



【パール・アレキサンダー Pearl Alexander|関連記事】        ■「パール・アレキサンダーのにじり口」(2012-01-21)    http://news-ombaroque.blogspot.jp/2012/01/blog-post_21.html  「Andromeda、あるいは存在する女たち」(2011-11-06)    http://news-ombaroque.blogspot.jp/2011/11/andromeda.html  「mori-shige&パール・アレキサンダー」(2011-10-04)    http://news-ombaroque.blogspot.jp/2011/10/mori-shige.html  「パール・アレキサンダー&柿崎麻莉子」(2011-10-03)    http://news-ombaroque.blogspot.jp/2011/10/blog-post.html


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喫茶茶会記