2012年5月31日木曜日

長沢 哲: Fragments vol.8 with カノミ



長沢 哲Fragments  vol.8
with カノミ
日時: 2012年5月20日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 長沢 哲(ds, perc) カノミ(g, as, fl, recorder, sounds)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)


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 江古田フライング・ティーポットで定期開催されている打楽器奏者・長沢哲の「Fragments」シリーズ第8回のライヴが、多楽器奏者のカノミを迎えておこなわれた。タイトルの「Fragments」(破片)は、3.11以降の日本人に広く体験されている社会的な崩壊感覚を、福島県出身の長沢哲が彼自身の内部にあるものとして受けとめ、みずからの音楽活動を、現在ただいま破片の散乱状態としてある場所からふたたび起こしていくために、それらの破片を拾い集め、つなぎあわせることで、そこからなにか未来に希望をもてるようなものが新しく生まれてくることを願ってつけられたものである。長沢のライフワークになっているソロ演奏がひとつ、旧知の音楽仲間はもちろんのこと、新たなアンサンブルの可能性を開くことのできる演奏家を招いておこなう共演がひとつという、ふたつの要素を組みあわせている。ゲスト奏者の演奏、長沢の打楽ソロとつづき、最後に全員参加で即興セッションをおこなうライヴ構成は一貫して変わらない。端的に言うなら、3.11以後の社会的な崩壊感覚は、原発事故以後にもたらされた地域コミュニティーの崩壊を、ダイレクトに反映したものであろう。ソロによってみずからの音楽のありようを再確認するとともに、即興セッションを通して様々な人を結び、ネットワークを作ることが、こうした崩壊感覚を押し返していくための大きな力になるということを、長沢は直感的につかまえているのだと思う。

 ゲスト奏者の「カノミ」は、多楽器奏者の保坂純がソロで演奏するときのプロジェクト名である。活動歴としては、ピロシキ・アンサンブルという演劇的パフォーマンス・ユニットでの活動のほうが長い。そのせいなのだろうか、この日のカノミのソロ演奏も、あらじめサウンド・モンタージュされた音の流れを背景に、アルトサックス、ギター、リコーダーという具合に、場面ごとに楽器をスイッチしながら、演奏を対応させていくコンポジション的なものであった。波の音や人の声などの環境音、メロトロンのサウンドやノイズなどの響きを、ブリジット・フォンテーヌの「ラジオのように」のような、名曲中の名曲のメロディーとライヴで組みあわせる方法は、様々な音楽に通じているDJのようだった。テープ・モンタージュの進化形と言うこともできるが、カノミの場合、パフォーマンスの全体から、最終的に、印象的なひとつの風景が立ちあがってくるのが大きな特徴といえるだろうか。こうした背景を知ってみると、数ヶ月前(3月5日)に、ギターの吉本裕美子が阿佐ヶ谷「ネクストサンデー」でおこなった即興セッションに参加したとき、楽器を順番にスイッチしながら演奏していたのが、現在のカノミのパフォーマンス・スタイルなのだということがわかる。この晩のパフォーマンスでは、用意したフルートを本番で使うことを忘れたということなので、背景音とライヴな即興演奏は、必ずしも厳密に対応しているものではないらしい。偶然に描き出されるサウンドスケープのなかに、カノミ的なるものが刻印されているのである。

 かたや長沢哲の打楽ソロは、キットドラムの全体を使ってフル演奏されるものではなく、ドラムの一部分を、あたかもそれぞれに特色のある一地方のように分割して特徴のあるリズム・パターンを作り出し、ドラム王国の各地域を次々に経めぐっていきながら、同時に、いくつもの場面を連結していくというものだった。長沢のいう破片を拾いあげていくような感覚、サウンドを新たに結びあわせていくものとしてのドラミングという発想が、こうした演奏スタイルに反映されている。即興演奏の全体は、演奏がトーキングドラムのように静かに語りかけてくるものであるためか、どんなに大きな音の演奏になったとしても、ささやくような、ひっそりとした雰囲気におおわれている。語りかけるようなメロタムの連打、潮騒のように波打つシンバルの響き、ゆっくりとした、また急激なテンポのアンサンブル、響きの余韻を聴く点描的ドラミングなどなど。それでも少しずつ打楽は演奏の強度をあげていき、静かだったリズムによる語りは、自信に満ち、確乎とした足どりを示すようになっていく。クライマックスの沸騰点を持つことはないが、いったん密になったリズムは、あるポイントを境にして、ふたたびゆっくりと地上に足をおろしてゆく。語りに起承転結がつけられているという点で、長沢の打楽ソロは、ひとつの物語を語っているといえるだろう。個人的には、スイスの打楽奏者フリッツ・ハウザーを連想させられた。

 最後の即興セッションに、カノミがサウンド・モンタージュを使ったのは斬新だった。カノミが選択するサウンドは、決して演奏の前面にしゃしゃり出てくる性格のものではないが、海に赤い絵の具をぶちまけたような、いたく感覚を刺激してくるところがある。イメージの喚起力が強烈なのだ。その一方で、フルート、アルトサックス、ギターなどをスイッチしていくカノミの演奏は、あくまでもサウンドの提示に終始していて、共演者との対話力に秀でた即興とはいえなかった。古いタイプのフリージャズ演奏といったらいいだろうか。そのなかでドラムとの相性がよかったのは、サウンドコラージュによるエレクトロニクス演奏と、アルトサックスによるジャズ演奏だったと思う。長沢哲のドラミングは、即興セッションのときも、最後の場面でパルスを出して共演者に合わせてはいたが、基本的には、打楽ソロのときとおなじ語りの音楽でありつづけていたように思う。フリー・インプロヴィゼーション的なランゲージの音楽と、ニュージャズの間を自由に往来する演奏を聴かせたという意味で、即興演奏の諸相を心得た演奏家といえるだろう。

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江古田フライング・ティーポット