2012年7月9日月曜日

田辺知美+陰猟腐厭@間島秀徳展



間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」
── 第三夜:田辺知美陰猟腐厭 ──
日時: 2012年7月7日(土)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500、学生: ¥1,500、通し券: ¥10,000
出演: 田辺知美(舞踏)
陰猟腐厭:増田直行(g) 大山正道(keyb, synth) 原田 淳(ds)


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 明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」で開催されている間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」(2012年7月5日─7月11日)の会期中、身体表現と音表現が即興的にまみえるパフォーマンスが日替わりでおこなわれている。さほど広くない会場には、高さ250cm、直径が115cmという巨大な木の円柱が2本そびえ立ち、そのぐるりに作品を巻きつけることで、360度の周囲からやってくる自然光や強弱をつけられた照明の光、あるいは観客の視線を乱反射して、まなざされる絵画の対象性を固定することのない環境的なものに置きなおしている。光の乱反射は、私たちがそこに見るはずのものをも乱反射させ、ある過去の一時点で麻紙のうえに固定されたはずの顔料やアクリルや大理石の粉を、自然の物質としてではなく(少なくともそれだけではなく)、理解するためつねに対象を固定化しようとする私たちの視線をやわらかく受けとめ、作品の皮膚のうえにしばらく滞留させたり、流しさったりする磁場のようなものに変化させている。私たちの視線は、作品の中に入っていくこと(描かれたものの意味を理解すること)もできないし、同時に、そこから立ちさること(それはまるで光そのもののようなものとして私たちに作用するので、視線そのものが構造化されてしまう)もできない。私たちは、あるいは私たちの視線は、作品の皮膚のうえを滑っていくことができるだけなのである。どこまでいっても全体を喪失した細部だけが際立っている。というか、それしか見ることができない。


 パフォーマンスに与えられた時間は一時間ほど、基本的には事前のうちあわせがない即興によるもので、この晩は、ダンサーから出される最後の合図だけが決められていた。暗転は一時間で訪れる。というか、これは本質的にはじまりも終わりもないものであり、その意味では、目的地のない散歩と呼べるようなものを、あくまでも形式的に終わらせるための約束事でしかない。そもそも共演者たちは対話をすることすら求められていない。その結果、美術作品の展示、しかも意味を固定せずに視線を乱反射させる二本の柱が天井と床を(すなわち天空と大地を)支え、垂直のエネルギーを往還させて世界構造を示すという強力な磁場のなかで、舞踏家はみずからの身体を住みこませる場所をさがし、演奏家はその音が自由であるための時間を作り出さなくてはならない。田辺知美の身体は、なにごとかを表現する以前に、円柱に触れながらその周囲をまわること、顔料やアクリルや大理石の粉が与える「KINESIS」表面のざらざら感を通して、感覚を個別化し、この場所に固有の身体を住みこませようとする。それは、恋人の存在を確かめるように作品の皮膚に触れてみること。そのことによって視線の乱反射を封じ、すべてを触覚へと翻訳することである。登山家の目(clinbers eye)から潜水夫の目(divers eye)へのジャンプを、床を這いながらおこなうことも、円柱に足を “乗せる” ことも、床に落ちたゴミを指先につけて作品につけることも、すべてが触覚への翻訳作業といえるだろう。その翻訳過程が舞踏になっている。

 即興するロックグループ陰猟腐厭(いんりょうふえん)の三人は、往来側に近い円柱の奥の、かなり狭い場所にスペースをとり、センターにドラムの原田淳が、下手にギターの増田直行が、そして上手にKORGシンセサイザーの大山正道が位置するというセッティングで演奏した。結成以来30年というユニットの歴史は、事前のうちあわせなどなにもなくても、メンバーの誰かがはじめた演奏をモチーフに、破綻のないアンサンブルを発展させることができるほど厚みのあるものになっていて、さまざまにリズムと楽想を変化させていきながら、「自由」という点では、ロックよりもむしろジャズ的な関係性を取り結び、メリハリを備えたひとつらなりの時間を生み出していく。たとえば、リズムを排除した中間部では、ひとしきりシンセを中心としたエレクトロニクスふうの展開がされ、やがてそれがアグレッシヴなドラム・ソロに引き継がれると、それに呼応したシンセがミニマルなリズムとリフを奏ではじめる。それを受けた原田は、すぐさまパーカッシヴな演奏へとスイッチする。ふたりの間のキャッチボールに、突如として、ディストーションをふんだんにかけた増田のギターが咆哮をあげて突入、一挙に全体のボルテージをあげる。そうすると今度は、シンセがカウンターパンチを食らわせずにはいないという具合。濃密な対話と身体のキアスム状態。間島作品の鉱物的な性格に対する人間的なる時間の生成というべきもの。

 毎年、キッドのオリジナル公演として開催されている<ACKid>は、異領域の芸術家たちのコラボレーションを標榜しているが、やはり身体と音を出会わせるため、間島秀徳展での連続パフォーマンスも、ともすれば同種の企画のように見なされてしまうおそれが捨てきれない。あらわれは似ていても、制作者によって、別の構想が用意されている間島秀徳の「KINESIS──時空の基軸」においては、なにが異なっているのだろう。それはおそらく、ここで身体やサウンドが相手にしようとしているのは、間島秀徳というもうひとりの芸術家ではなく、彼をも包みこんで大きく成長しつつある(らしい)「KINESIS」という作品概念を越える作品の謎だということなのではないだろうか。その謎に迫るため、批評の言語だけをよりどころとするのは、あまりにも無力のような気がする。身体であるとかサウンドであるとか、あるいは周囲の環境でさえも、いったんこの作品の磁場のなかに投げこみ、そこでいったいなにが起きるかを詳細に観察することで、作品の、あるいは解釈の多元性を担保しながら「KINESIS」の実体に迫るということ。これはおそらく、自然回帰というような平板な解釈を越えて、言語を絶するもの、「崇高の美学」と呼ばれるものの回復にかかわっているのではないかと思う。少なくとも、私個人は、そのような作業仮設に立って、間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」に立ち会いたいと思う。



※文中の舞踏家の写真は、パフォーマンスを撮影された写真家の小野塚誠さんからご提供いただきました。感謝いたします。



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明大前 KID AILACK ART HALL