2012年7月12日木曜日

長谷川六+湯浅譲二@間島秀徳展




間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」
── 第六夜:長谷川 六湯浅譲二 ──
日時: 2012年7月10日(火)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500、学生: ¥1,500、通し券: ¥10,000
出演: 長谷川 六(舞踏)、湯浅譲二(音楽)



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 少し別の方向から KINESIS にアプローチしてみよう。よく知られたドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」概念は、すべてを見ることができるという意味で、「神の視線」を僭称する近代のツリー型世界モデルに異議申し立てをするため、(教科書的な表現を使うなら)「中心も始まりも終わりもなく、多方に錯綜するノマド的な」世界モデルを、地下に縦横にはりめぐらされた地下茎、根茎のモデルによって提示した。このことを、さまざまな要因によって多重決定されていく私たちの世界のありようを、世界を解釈してしまうことなく、そのまままるごと受けいれるため、あえて盲目になることを選択したといってもいいように思う。認識は「神の視線」を迂回し、手探りで得られるものとなり、世界の構築は触覚的なもの、身体的なものへとあらためられ、すべては身近にあるもの、隣にあるものを触れまわることからスタートすることになる。こうした彼らの思考スタイルを、 KINESIS の円柱が乱反射する視線と比較することができるように思う。というのも、すでに触れてきたように、円柱の表面をおおっているものもまた、どこまでいっても部分の集積であり、地図作製は、美術家による一回一回の登攀や潜水が触れまわった痕跡としてあるようなものだといえるからである。

 それでは、世界の複雑さ、謎に迫るため、似たようなアプローチをとる両者の決定的な違い、少なくともひとつの重要な違いは、いったいどこにあるのだろう。それはたぶん、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」概念が、土中を掘り進む盲目のもぐらの視線をもとうとしたのに対し、間島秀徳の作品制作が、「時空の基軸」で展示された KINESIS 作品のタイトルに見られるように、登山家や潜水夫の視線を仮想しているところにあるように思われる。すなわち、山巓に登りつめた登山家の前にあらわれる巍峨とした山脈の連なりであるとか、海中深く潜水した潜水夫の眼下にあらわれる、身体まるごとを飲みこむような底の見えない海溝の深さであるとか、人間の侵入を許さない自然の驚異がそこに感じられている。このとき重要になることがもうひとつあり、それは自然の驚異を前に視線がめまいを起こしているという、感覚の錯乱状態である。このめまいとは、いうまでもなく、映像を見るものの身体的な没入を意味している。視覚がめまいを起こし、目の前の作品のなかに落ちていくという経験。登山家や潜水夫の目とは、作品を見る鑑賞者の視線でもあれば、KINESIS の制作者が、平面上でくりひろげられる地図作製作業(世界の似絵を創造すること)に、「崇高の美学」を感じていることのあらわれとして受け取ることができると思う。

 ここまでの展示期間を、ダンサー1、音楽家1できた「KINESIS──時空の基軸」の公演プログラムは、長谷川六の登場をソロで構成するところで転調を迎えた。パフォーマンスには、河合孝治の選曲による湯浅譲二の電子音楽作品──大阪万博せんい館から委嘱され、36チャンネルで録音された「スペース・プロジェクションのための音楽」(1970年)と、NHK電子音楽スタジオで制作された「ホワイトノイズによるイコン」(1967年)──を流したり(選ばれた作品はパフォーマンス直前に伝えられた)、作曲者の湯浅を公演に招いて終演後にトークするなど、形式的にデュオのスタイルを維持する工夫がほどこされた。トーク時の湯浅の話によれば、ここで使用された作品は、いずれもマルチチャンネルで収録・再生された立体的な音響構成によって、聴き手に前代未聞の音響体験を与えることが眼目だったという。ステレオフォニックな音場イメージを脱構築する多極化の視点、多くのスピーカーを使用する環境的な発想など、いくつかの点は間島作品にも通じるところがあり、経費面での問題がクリアされ、原作品の意図を正しく伝える再生がもし可能であったならば、KINESIS 空間でいったいどのような共鳴現象が起こったのだろうかと興味をかきたてられるが、今回は、長谷川六のソロ・パフォーマンスを「前衛的」な雰囲気で脚色するという、演出上の効果にとどまったように思われる。

 夏場にしてはずいぶん厚手のウール地の着物を着た、なんとも品のいい年配のご婦人が会場で接客にあたっている。パフォーマンスの開始以前、観客があまりいないころから、気ぜわしくあちらこちらを歩きまわり、昔からの知りあいを抱擁で迎え、見知らぬ客の要望におうじては細々と世話を焼きながら、なにくれとなく訪問客を接待していた。事情を知らない者には、愛想のいい会場係にしか見えないこのご婦人こそが、じつはこの日の主役、長谷川六その人である。開演前からすでにパフォーマンスがはじまっているのだ。キッドの責任者である早川誠司が機転を利かせ、客入れ時にも表通り側の扉を開けたらどうかとアイディアを出した。夜に入ってから扉を開けるのは、この日が初めてとのこと。やがて開演時間とともに扉が閉められると、会場はみっしりと観客の座る洞窟のようになった。会場係のご婦人は、照明のあたった中央の丸テーブルのうえに旅行鞄を広げると、さきほどのやぼったい服装を脱ぎ捨て、舞台のうえでステージ衣装に着替えた。客席から黒服の女性が水差しをもってあらわれ、テーブルのうえに出された細長いグラスに水を注ぐ。この晩の長谷川六のパフォーマンスは、このグラスを見ないようにして、ポシェットから取り出したエメラルド・グリーンのビー玉を、次々に水のなかに落としていくというものだった。

 終演後のトークで、長谷川六は、KINESIS479番「divers eye」の下部に散りばめられた海洋を思わせるグリーンに、リトアニア公演の際に入手したビー玉の色を思い出して使ったこと、また大野一雄とアヴィニョンの楽屋でいっしょになったとき、一晩のパフォーマンスを考えるのに大野が開いていた旅行鞄の思い出などについて話した。たぶんこの他にも、触れられなかったいくつもの記憶があるのではないかと想像される。身体が結びつける異質な記憶のネットワーク。あるいは記憶のネットワークによって形作られる身体的なるもの。日常的な時間と非日常の時間の垣根をとりはらい、楽屋とステージからなる演劇システムの二項対立を解消し、つねにすでに観客の視線に身体をさらしつづける。ステージのうえでおこなわれるパフォーマンスを、意味のない、即物的な作業の反復で構成しながら、ただそこにあるダンサー固有の身体がもつ記憶や緊張だけが、あらゆるものが日常性へと頽落した現代の単調な時間に、かろうじて劇的なるものの奥行きを与えるというのが、長谷川六のパフォーマンスだったように思う。潜在する記憶に関していえば、視線を乱反射させる KINESIS 作品においても、作品を描きだすための “自然の鉛筆” である大量の水とおなじだけの重要さで、「KINESIS に潜在する記憶」とでも呼べるような、アクリル絵具や墨による下地作りがあることをいってもいいかもしれない。



   ※2012年8月1日に最終改稿。

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