2012年7月10日火曜日

桂由貴子+à qui avec Gabriel@間島秀徳展



間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」
── 第四夜:桂由貴子à qui avec Gabriel ──
日時: 2012年7月8日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500、学生: ¥1,500、通し券: ¥10,000
出演: 桂由貴子(dance)
à qui avec Gabriel(accordion)



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 間島秀徳の「KINESIS」シリーズは、屏風のような平面としても、今回の展示のように、巨大な円柱としても立ちあらわれるが、どちらにも共通していえるのは、作品が巨大であるだけに、展示に建築学的な構造を与えることなくしては、そこに鑑賞者(の視線)が住みこむ余地がなくなってしまうということのように思われる。私たちは、作品に接近しようとすれば、必然的に、作品の磁場の “なかに”(通常の平面作品のように “前に” ではなく)包みこまれることになるわけだが、それでももちろん、光や視線を乱反射させて、水の痕跡である作品の表層をどこまでも滑走していくものにする「KINESIS」の本質は変わることがない。この建築学的な展示構造には、作品の本質とは別の象徴性が与えられている。それはおそらく、「KINESIS」シリーズが立ちあらわれる時空間を、特権的なものとして聖別する必要があるからだろう。対になった二本(ふたはしら)を置くこと自体が、<光/闇>だとか、<天空/大地>というような、根源的な世界の二分割を象徴しているが、それだけでなく、「climbers eye」「divers eye」という対照的なタイトルを付けることで、ふたつの作品が、垂直方向にエネルギーの流体が駆け抜けていった痕跡であることを示そうとしている。作品制作は、水平に寝かせた麻紙をうえに、ドリッピングという方法でおこなわれるものであるだけに、水流の垂直方向への変換は、まさしく建築学的な展示構造に由来するものといってもいいように思われる。

 間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」の第四夜を司る女性たちは、アコーディオンパンクの à qui avec Gabriel と、彼女が描き出す漆黒の世界を自在に飛び回るニンフのようなコンテンポラリー・ダンスの桂由貴子だった。「KINESIS」の二本の円柱がもっている垂直方向のエネルギーは、意味を剥奪され、その素材から「鉱物的」と呼びたくなるほどに人間的なるものを離脱した、純粋な流体として提示されているが、ふたりの女性がおこなったパフォーマンスは、それそのものが巫女たちによる儀式の側面を備えていたため、キッドの展示空間がもっている儀式性をも、私たちの前に引きずり出すことになった。身体と音の即興的な出会いというのが、間島展におけるパフォーマンスの条件になっているが、à qui avec Gabriel の演奏は、深い井戸の底にある彼女のもっともやわらかな部分に音を触れさせるために、それ自身が「儀式」と呼んでもいいような聖別化された形式を必要としている。パフォーマンス冒頭の水滴の音、ふたりが登場するまでの長い無音状態、白服の桂と(いつものように)黒服の à qui avec Gabriel の対称性、桂由貴子が歩きながら鳴らす「ティンシャ」というチベットの小型ベル、糸のように単音で弾きだされる最初のアコーディオンというように、すべてが場所を清める一連の儀式となっている。しかしだからといって、彼女たちの表現が自由でないかといえば、けっしてそんなことはなく、そのような道をたどることでしかやってこない即興的なるものの瞬間が用意されている。

 アコーディオン奏者と踊り子は、白黒の衣装の相違だけでなく、表現のありようにおいても対照的だった。水のエントロピーを利用して制作される「KINESIS」の大地をベースラインに考えると、à qui avec Gabriel は地下深くの小屋で、ひとり静かに糸を繰っているような表現者であるのに対して、桂由貴子は大地を踏みしめ、そこから何度でもジャンプをくりかえして天上まで昇りつめようとする、このままいくと、みずからの身体からも抜け出ていってしまうのではないかと心配になるような躍動する身体エネルギーを糧にしている。ふたりのこの対称性も、世界分割する二本の円柱のありように見あうものだったが、さらに、それぞれの理由をもって、地下から大地へと吹きあげ、地上から天空へと舞いあがっていく、垂直方向のエネルギーに貫かれたふたつの表現は、二本の円柱が天空と大地の間でエネルギーを往還させる「KINESIS──時空の基軸」の建築学を裏切ることなく、身体とサウンドをもってこの場所のありようを体現していたように思われる。まさしくこれは「KINESIS──時空の基軸」の神殿における巫女たちの祝祭と呼べるようなものだろう。それが間島作品の謎を、鉱物の思想を、共同体的な夢のなかで、ひとつの人間的な意味に回収してしまうというおそれはじゅうぶんにあるが、あらわれはまさにこのようなものだったと思う。

 à qui avec Gabriel は、かつて見たライヴのひとつで、会場の照明を極力落とし、ガラス皿にいれたたくさんの小さなローソクを、床のうえに散りばめる工夫をしていた。それは会場の雰囲気を盛りあげるという空間演出にとどまらず、暗闇のなかで見るものの視線を封じながら、危機的な瞬間(即興演奏によって招き寄せられるもの)をともに迎えるためにおこなわれる儀式の性格をあわせもっていた。ひとつの儀式が演出としか思えないほど、私たちは暗闇に対する感応力を摩滅させている。彼女のアコーディオン演奏は、慌ただしい都会生活のなかで、疲れ果て、すっかり台なしになってしまった私たちの原初的な感覚を、もういちど回復させるためにおこなわれるものといえるだろう。通常のライヴ演奏なら、じゅうぶんな時間をさいて、彼女は彼女の内側から、もっと強烈な、飼いならされていないパッショネートなものを解き放つのだが、ダンサーの動きを見ながら演奏したこの夜の公演では、自己の内面への潜水は限られたものとなり、彼女の演奏と聴き間違うことのない特徴的なアコーディオン・サウンドの音塊から音塊へ、またメロディからメロディへと経めぐりながら、即興的に一時間のパフォーマンスを構成していくこととなった。最後の場面では、共演者のふたりが、画の表面に軽く触れながら、それぞれに円柱の周囲を一度まわり、また逆回りしてから退場した。円柱のある風景にふたりの旅人が到来し、しばし滞在したあとで、また旅立っていくまでが物語られたのである。



※舞踏家の写真は、いずれも写真家の小野塚誠さんからご提供いただきました。感謝いたします。

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明大前 KID AILACK ART HALL