2012年8月26日日曜日

木村 由+照内央晴@高円寺ペンギンハウス



木村 由照内央晴
日時: 2012年8月21日(火)
会場: 東京/高円寺「ペンギンハウス」
(東京都杉並区高円寺北2-24-8 B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,800+order
問合せ: TEL.03-3330-6294(ペンギンハウス)

【出演】
[1]スズキミキコ(guitar, vocal)
[2]三浦陽子(piano)+長沢 哲(drums)
[3]木村 由(dance)+照内央晴(piano)
[4]石田幹雄(piano)


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 ノイズからフォーク弾き語りまで、幅広いジャンルの音楽が夜ごとにくりひろげられる高円寺ペンギンハウスの音楽コレクションに、ダンスの木村由(きむら・ゆう)とピアニストの照内央晴(てるうち・ひさはる)が出演、40分ワンステージでぶっつけ本番の即興セッションを展開した。ペンギンハウスのアップライトピアノは、おそらくはステージが手狭なためだろう、上手の壁におしつけるようにセッティングされているため、木村にもじゅうぶんな舞踏スペースが確保されたのではないかと思われる。ただしこの位置関係では、ピアニストがダンサーに背を向けて演奏する格好になり、じゅうぶんなアイコンタクトができないところから、共演者の気配だけでパフォーマンスしなくてはならない。もちろん、音楽と身体表現──一方は時間を裁量し、一方は空間を配分するそれぞれの領域を動いて、両者が最後まで平行状態を維持したとしても、パフォーマンスは成立すると思われるが、この晩のセッションでは、終演時間が近づいてきた時点で、木村由がステージ中央で使っていた椅子をピアニストの背後に移動し、共演者にそれとなくパフォーマンスの終わりをメッセージした。物語性をもたないパフォーマンスの場合、あらかじめ決められた時間に照明を落としたり、パフォーマーがストップウォッチを用意したりして、形式的な「終わり」を決定することもなされているが、木村由はダンスのなかでそれをする方法を選択したということになるだろうか。

 木村由の服装は、ピンク色をしたワンピースの婦人服で、薄手の生地の胸のあたりに房飾りをつくり、よく見ると、細かいチェック地には隊列を組んだ鳥の飛翔のような模様が入っている。服の丈はふくらはぎあたりまであり、足には白いソックスと黒いパンプスをつけている。終戦直後の職業婦人に女学生の足をつけたような奇妙なキメラ状態。どことなく野暮ったく、時代遅れ out of date の印象を与える。そんな女学生の足が内股になり、職業婦人が身体をくねらせるところに、この世ならざらぬ、強烈な虚構空間が立ちあがってくるのだが、考えてみれば、これは彼女がちゃぶ台を使う感覚にどこか通じるものがあるのではないかと思われる。ダンスする身体を無条件に信じて、肉そのものをむきだしにするというのではなく、ちゃぶ台(というもうひとつの身体)と身体の間、服装(というもうひとつの身体)と身体の間という、無意識のうちに受け容れられているため、通常は意識されないふたつの身体が作る薄い皮膜の間で踊るといったらいいだろうか。暗黒舞踏のように白塗りをする、あるいはパントマイムのように山高帽をかぶるというのは、そのような衣服装置によって身体を一般化する行為だと思うが、時代遅れの衣装を着用する木村由は、ここでもダンス環境のカスタマイズをおこなっているのではないかと思う。

 雨だれのような点描的ピアノ音から、少しずつメロディーが紡がれていき、やがて暗い色彩をもった低音域のコードが鳴らされるというピアノの展開に対して、ステージ中央に悲しげな表情をして立った木村は、細かな手の動き、足の運び、身体の屈曲をつなげていきながら、彼女自身の影が投影されている壁際まで下がり、壁に触れ、壁に貼られた三浦陽子の描いた抽象画に手を伸ばしという、緩やかな動きでダンスをスタートさせた。ピアノがいったん演奏をやめ、前面板をはずしてむきだしにされたアップライトピアノの内部に触れたり、鍵盤下をたたいたりする演奏に移行する間に、壁際に立った木村由は、直立したまま、まるで両手をあげたフランス人形が、風に吹かれて前後左右に身体をゆらしているというような、印象的な身体の風景をさしはさんだ。静止した姿勢でおこなうダンスといったらいいだろうか、演技する死体といったらいいだろうか、過去に何度か見たことがあっても、それが出現するたびに異様な感覚に打たれる身体の風景のひとつである。ミュージシャンどうしの共演と違って、このような異ジャンルの即興セッションで記述が困難なもののひとつに、あの演奏とこの身体の出現になんの必然性もないという点がある。そもそもピアノの時間区分と身体の空間配分が最初からずれている。これはこの晩の共演にかぎった話ではなく、音楽と舞踏の即興セッションと呼ばれるものに一般的なことのようである。

 こうしたなか、照内の内部奏法に木村が床をはたいてみせた動作は、音がダイレクトな時間的関連を生んで、聴き手の気をほっと落ち着かせる一瞬であった。この静止した演技のあと、ドライヴする左手に乗って急速調のアブストラクトなフレーズを展開しはじめたピアノに、木村由の身体が呼応する。顔を横にふりむけて背後の様子を確かめた照内がこのシークエンスを弾き終わると、ほぼ同時に、(演奏を聴いてから身体が反応するからだろう)少しだけ出来事に遅れて、木村は床へと落下した。なんの前触れもなく床に倒れこむのである。木村はちゃぶ台ダンスのなかでもちゃぶ台のうえに落下するということをしており、これは彼女のお家芸のようなものといえるだろう。身体状況が一瞬でまったく別の状態に変化するということ、動作の切断がそこにあらわれる。サティ風のピアノによってゆっくりと奏でられる、和声をともなったメロディの点描に呼びかけられるようにして、倒れた木村は身体を起こし、壁の抽象画を見あげるようにしていたが、やおら舞台に椅子を持ち出してステージ中央にすえ、そこからまた新たなダンスのシークエンスをスタートさせた。この椅子は、後半が前半と同じものにならないようにするための転調の装置である。椅子のうえに腰の一点を支えることでより自由になった手足は、前半以上に豊かな表情を紡ぎだしていく。音楽の単調さは、照内の演奏によるものではなく、シークエンスをつなげていくだけの時間構造がもたらすものであったが、こうした音楽的時間と、ある場所でずれたり、他の場所で折り重なったりする木村のダンスは、出来事を立体的なものにしたように思う。

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