2012年9月10日月曜日

並行四辺系



並行四辺系

日時: 2012年9月8日(土)
会場: 東京/蔵前「ギャラリーキッサ」
(東京都台東区浅草橋3-25-7 NIビル4F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: 前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
出演: 入間川正美(cello) 太田久進(sounds)
喜多尾浩代(身体事) 木村由(dance)
問合せ: TEL.03-3303-7256(ダンスパフォーマンス蟲)



♬♬♬




 都営浅草線でいうならば、「蔵前」駅で下車して、「浅草橋」駅の方向に少し戻ると、川向こうに渡る蔵前橋へと出る広い四つ辻にぶつかる。そこから、一階がラーメン屋になっているビルの路地を折れていくと、旧消火器会館を改装したNIビルがある。このあたりの住所表示は、蔵前ではなく、浅草橋のはずれになるのだが、このNIビルの最上階(その上は開放された屋上)に、今年の六月から新たに店を構えた画廊兼フリースペース「ギャラリーキッサ」がある。この場所で、チェロの入間川正美とサウンドの太田久進が演奏方を、また「身体事」(しんたいごと。喜多尾はみずからの身体表現をこう呼ぶ)の喜多尾浩代とダンスの木村由が舞い手をつとめる即興セッション「並行四辺系」がおこなわれた。ステージ奥にあたる壁には大きな窓が開いており、その外には地上四階の展望が開けている。窓の正面には、路地をはさんで、向かいのビルの窓が間近に対面しているという環境。タイトルはカルテット・パフォーマンスであることを示しているが、公演は三部構成になっていて、演奏者が(書き割りのように)一貫してステージに居つづけるなか、第一部では木村由のソロが、第二部では喜多尾浩代のソロが、そして第三部では(椅子を使用した)木村と喜多尾のデュオがおこなわれた。これをトリオ+トリオ+カルテットと考えることもできるが、私には公演の全体が、即興セッションというよりはダンス公演に感じられた。

 木村由のパフォーマンスを、ちゃぶ台ダンス「夏至」(621日公演)以降、しばらく継続的に見てきているが、この「並行四辺系」を通して、新たに、地上四階にあるステージならではの発見、また共演者が身体事の喜多尾浩代だったことならではの発見があった。それは彼女が、照明のスポットを外れた暗がりに立ち、すっかり日の落ちた窓の外を見るところから第一部のソロをスタートし、第三部のデュオを、観客に背を向け、ふたたび窓の外を見るところでしめくくった(実際にはこのあと、床に尻餅をつくようにして倒れこみ、すでに訪れていた「終わり」を身体化した)ことに典型的にあらわれていたと思う。夜景の見える窓辺に立つ女性は、それそのものが通俗化されたイメージだが、ここで起こっていたことはそうした情景描写と無関係だった。というのも、木村が身体の向きをもって漆黒の窓外をインデックスしていた(「索引をつける」という辞書的意味ではなく、広義において、ダンスがまるで索引のようにそれ自身ではない何事かを指し示すこと)ことが、彼女のパフォーマンスの本質にかかわる出来事だったと思われるからである。天井を見あげる、片手をうえに差しあげる、上半身をゆっくりと回していく、いずれも身体のある部分がなにかをインデックスしていく行為が、個々の身ぶりを連結させていくことになっている。もちろんそればかりではなく、動きは彼女自身の表現ともなっているわけだが、<いま/ここ>の時間をずらすような衣装を着用し、亡霊的なるものを出現させる木村由のパフォーマンスの固有性を支えているのは、なによりもこのインデックスする身体の喚起力ではないかと思われる。

 いっぽう喜多尾浩代の身体事は、木村由と対照的なもので、身体の外部を指向することがない。すり足を多用することで、ダイナミックな動きを封じながら、動きは隣接的に、すなわち、ひとつからまたひとつへと、わずかながらの差異をもって連結されていき、少しばかり様式的に身ぶり手ぶりを細分化していくなかに、細かな感情の襞を織りこんでいこうとする。ここでの感情は、「喜怒哀楽」という、大きく分節される原色的なものではなく、さだめなく動き、変化していくものとしてとらえられている。木村のパフォーマンスが、なにか目に見えないものをインデックスするため、顔の表情をうつろにするのとは対照的に、喜多尾の顔は、(自分であれ他人であれ)何者かを演技することこそないものの、コミュニケーション・ツールとしての表情=ペルソナを持とうとする。これはとても人間的なるものを土台にした身体への注目といえるだろう。機能的な身体観を相対化する多様体としての身体観の登場は、すべからくモダニズムのくびきの下から出発しているダンス表現においても、「人間」がひとつのイデオロギーに過ぎないことを暴露する過激さと裏腹のものだったろう。というのも、ダンスにおける多様体としての身体の獲得が、「人間」の解体と不即不離にあったことが、様々な舞踏のバリエーションを生んでいると思われるからである。この点からいうなら、喜多尾の身体事は、いまもなおモダンな個の主体性の拡張としておこなわれているのではないだろうか。

 太田久進の演奏は、ラジカセのノイズ、アブストラクトな電子音、チクタクいう時計のような効果音を、複数のCDプレイヤーを使って重ね書きしながら、スペイシーに配していくサウンド・コラージュで、身体表現にミステリアスな奥行き感を与えるものだった。構成の妙を聴かせるようなものではなく、ある場面におけるサウンドの選択が、聴かせどころのすべてとなるような演奏。チェロの入間川正美は、ノイジーな彼自身の即興演奏を展開する場面と、太田が作り出すミステリアスな奥行きのなかに隠れるようにすることで、その演奏を前面に出す場面とをうまく使い分けていた。これらはあくまでも即興演奏であり、ダンスの内容を説明しようとするものではないので、「伴奏」ということはできないだろうが、身体の動きにインスピレーションを与えこそすれ、身体が動こうとする方向に立ちふさがるようなものではまったくなかった。この意味からいうなら、「並行四辺系」の「並行」というのは、全員がひとつのことをするのではなく、それぞれの即興が並び立つ時間的、空間的なスペースを空けるための方法論となっていたのではないかと思う。カルテットは微妙な距離を保ちながら、共演者のしていることを全身的に意識し、おたがいの生活圏の近くを通過しては、また遠ざかっていく。あらかじめ決められていたものだったのだろうか、最後に四人がステージに「四辺形」を作って立った幕切れなど、数あるダンスと即興演奏のコラボレーションのなかでも、見事なもののひとつであったと思う。

-------------------------------------------------------------------------------