2012年9月5日水曜日

黒田京子&池上秀夫@月刊『くろの日』




月刊『くろの日

── 黒田京子池上秀夫 ──

日時: 2012年8月23日(木)
会場: 東京/大泉学園「インエフ」
(東京都練馬区東大泉3-4-19 津田ビル 3F)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500+order
出演: 黒田京子(piano, voice) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3925-6967(大泉学園インエフ)

【演奏曲目】
Dave Holland「Four Winds」「Hooveling」
黒田京子「向日葵の終わり」
Chalie Haden「La Passionaria」「Silence」「Ellen David」



♬♬♬



 ピアニストの黒田京子が大泉学園インエフで主催している「月刊『くろの日』」は、毎月違うゲストを迎えるライヴシリーズだが、今年のはじめ、阿佐ヶ谷ヴィオロンで開かれている Bears'Factory の公演に黒田が招かれた(122日)のがきっかけとなって、春には10弦ギターの高原朝彦がこの「月刊『くろの日』」に迎えられ(330日)、また今回は、コントラバス奏者・池上秀夫とのデュオが実現した。「月刊『くろの日』」即興を主体にした自由な演奏会ではあるものの、なにがしかの楽曲を入口にする趣向を凝らしていて、クラシックやジャズは聴くけれども、インプロヴィゼーションには親しみがないという聴き手の敷居を低くしている。あたりまえのことではあるが、パフォーマンスするたびに何度もおなじ道を通ることになる楽曲演奏は、短い時間内でミュージシャンどうしの対話の糸口を確保するだけでなく、即興演奏という複雑な約束事のある領域にある日突然やってくる新しい聴き手に、歓待の場を開くための便利なコミュニケーション・ツールとなる。いっしょになにかをするということは、完全即興のセッションでも変わりがないが、共通の話題があることでお互いの相違がよりよく見えるというのは、楽曲演奏の効用だろう。

 細かいセッションワークを別にすると、池上秀夫の現在の活動は、(1)高原朝彦との Bears'Factory シリーズ、(2)広瀬淳二と鈴木學からなる異色トリオ、(3)この秋にスタートする舞踏家/ダンサーとのコラボレーション・シリーズ、そして(4)阿佐ヶ谷ヴィオロンから沼袋ちめんかのやに会場を移して継続されているソロ演奏などになるだろう。最後のソロ演奏は、多くのインプロヴァイザーにとってそうであるように、池上にとってもライフワークと呼べるようなものであり、年に一回、池袋にある自由学園明日館でおこなわれる記念コンサートは、ソロ演奏でみずからの立ち位置を定点観測する一里塚となっている。どの活動にも共通しているのは、セッションの過程でジャズ的な局面が訪れたとき、自然な流れをそこなわないように対応することはあっても、自分から積極的にジャズや楽曲を提示しないところにある。すべてが即興演奏にふりむけられているのだ。しかしそれを、かつてのようにフリー・インプロヴィゼーションと呼べるかといえば、彼の演奏がノン・イディオマティックではなく、演奏環境によって姿を変えるポリ・イディオマティックなものであるところから、別の呼び名があってしかるべきだと思う。池上の演奏の位置を「ジャズとフリー・インプロヴィゼーションの間」というのは、あくまでも便宜的なとらえかたに過ぎない。

 池上秀夫を迎えた「月刊『くろの日』」は、デイヴ・ホランドやチャーリー・ヘイデンらコントラバス奏者の楽曲を特集した。デュオ演奏の他にも、前半には、アルコ弾奏でフレーズのない弦の響きだけを聴かせた池上ならではのソロがあり、また後半には、黒田のピアノソロで、喜多直毅とのデュオでも演奏しているオリジナル曲「向日葵の終わり」が演奏された。この日のセッションの眼目は、初手あわせということもさりながら、いまは即興演奏に専念している池上が、演奏家となるまでに通過したであろうコントラバスの巨人たちの楽曲を、あらためて演奏してみるという点にあった。様々な語法に通じているデュオの演奏は、ホランドの曲で、いささかつきすぎるほど密接に相手の演奏に反応し、おたがいがおたがいの言葉をすぐに拾っては新しく発展させていくという、ジャズならではの丁々発止としたインタープレイをくりひろげた。ふたりが並走しながら言葉のキャッチボールをしていく感じ。こうした動機だけを抜き出したようなホランドの曲とは対照的に、第二部で演奏されたヘイデンの曲──「ラ・パッショナリア」「サイレンス」「エレン・デヴィッド」──は、バラードばかりということもあるが、時代背景も、感情も、楽曲の雰囲気にも濃厚なものがあること、すなわち、その時代を呼吸した強力な「歌」をもっていることが、演奏者その人の歌を要求するという、演奏技術とは位相を異にする高いハードルをそなえた楽曲だった。

 ジャズ転形期の名曲を懐メロにしないという点で、デュオのインタープレイはじゅうぶんに現代的であり、またオリジナリティを感じさせるものだった。しかしながら、特にヘイデンの楽曲を演奏する現代的な意味という点では、ジャズ転形期の遺産が現代にどのように受け継がれるべきなのかということも含め、言うべきことはもっとあったように思う。簡単な答えがないことは承知している。演奏のなかに、どのような形で問いを埋めこもうとしたかが、キーポイントではなかったかと思うのである。ヘイデンの楽曲が封じこめているパッションは、おそらくそうした井戸のなかからしか汲みあげることのできない性格のものではないだろうか。ここでのオリジナリティとは、個性的な即興スタイルを持つことではなく、固有の感情や声を持つことに他ならないだろう。そして私たちはしばしば誤解してしまうのだが、このこともまた、政治的な問いではなく、音楽的な問いなのである。ちなみに、この晩の黒田のMCのなかで、ピアノ調律師である辻秀夫氏の協力のもと、11月にソロ・レコーディングを予定しているとの告知があった。ファーストCDがピアノソロだったので、初心に返るという意味も含め、彼女もまた一里塚を立てる時期を迎えているのだろう。あわせてここに記しておきたい。



  【関連記事|黒田京子・高原朝彦・池上秀夫】
   Bears' Factory vol.11」(2012-01-23)
   黒田京子・高原朝彦」(2012-04-02)

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