2012年12月22日土曜日

木村 由: 冬至



冬至
木村 由ちゃぶ台ダンス
日時: 2012年12月21日(金)
会場: 東京/経堂「ギャラリー街路樹」
(東京都世田谷区経堂2-9-18)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥800(飲物付)
出演: 木村 由(dance) 太田久進(sounds)



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 よんどころのない事情で開演に遅れ、ギャラリー街路樹に到着したときには、すでに15分ばかりが経過していた。入場しやすさに配慮してか、ガラス窓を被うカーテンが引き開けられたままになった玄関の扉から、ほぼ満席状態になったまっくろの会場と、明るい照明に浮きあがったギャラリー奥のスペースが見えた。つきあたりの壁には大きな絵が一枚かけられている。ダンサーの姿がなかったのは、観客の陰に隠れ、ちゃぶ台のうえにじっと座りこんでいる場面だったからである。街路樹の内側で進行していた石のように静止したままの時間とは対照的に、扉の外に立って場内をのぞきこむ私の背後を、近隣住民らしき人たちが、雑談をかわしながら三々五々通り過ぎていく。偶然にもカーテンが引き開けられていたことで生まれた扉口の境界性は、この夏、小面の能面をかぶって井の頭公園の橋の上に出現した木村由のパフォーマンスを思い起こさせた。日常的な時空間に混入してくる異界的な時空間。そのような時空間のまだら模様が出現するのは、この場合、ダンサーの身体が持つ「強度」と一般的に呼ばれるもの、あるいは一種のイメージ喚起力によるものと思われる。ダンサーの身体を通して、時計的な時間に狂いがもたらされる。以上のような事情から、ここに記された断片的な記述は、作品としてのちゃぶ台ダンス『冬至』を論じるものではない。近隣住民にまじって街路樹を通りすがった人間が見ることになった、不思議な光景というべきものである。

 周知のように、石のような堅固さを感じさせる身体の静止には、膨大なエネルギーを必要とする。とまっているように見える独楽がそうであるように、微動だにしない姿に高速度で回転する時間を感じるのは、私たちに、身体をかけめぐる目に見えないエネルギーの存在を感じる能力がそなわっているからだろう。ちゃぶ台のうえにぺったりと座る木村の姿は、身体をモノとして描いた一枚の静物画にも見えるが、そのような平面的なものとしてではなく、出来事をダンス公演らしく身体の出来事として受け止めるならば、動きのエネルギーをかぎりなく凝縮していって、もはや静止しているとしか見えないまでに高めていった結果というふうにいうことができるだろう。ちゃぶ台のうえに座っていたそのような身体が伸びあがるとき、彼女の背後に立つ影の存在とともに、ほとんど天井に触れるくらいの巨大なものにふくれあがる。これはもちろん、物理的に頭が天井に近いということではなく、凝縮されたエネルギーの開放が、天井に向かっておこなわれたことを示している。そして観客席に正対した木村の姿には歓喜がみなぎる。これもまた、演劇的なものとはいっさい関係なく、エネルギーが観客席に向けて開放され、伝播することで生まれる感情に他ならない。

 身体の傾斜、足の開き、視線の方向、指先の表情などは、ダンサーの誰もがするようでいて、木村でなくてはけっしてそのようにはならない固有性がある。どこかが決定的に違っているのだが、いざその相違を言葉にしようとするとむずかしい。聞くところによれば、少なからざる人が彼女のダンスに亡霊的なもの、あるいは薄気味悪いものを感じるということである。これもまた、容易に言葉にならない、意表を突くものをダンスのなかに目撃することになるのが、大きな原因のひとつになっていると考えられる。私自身、彼女の身ぶりの「亡霊性」について指摘したことがあるが、それは記憶と関わる場面において出現するもの(こちら側の世界に取り憑いて、くりかえし回帰してくるもの)のことだった。端的に言うなら、デリダ的な亡霊性だった。いっぽう、ここでいわれる「亡霊的なもの」は、より具体的な動きに対していわれているもののことであり、おそらくは身体の各パーツが別々に動いているように感じられるところからくるものではないかと思われる。別々といっても、ピアノを弾く右手と左手のように、これはけっして特異な例ではない。木村の身ぶりにおいては、身ぶりの方向が各パーツで微妙にずらされていること、動きを支えるスピードがまちまちであることなどから、身体の統合感が崩れ、そこに亡霊性が胚胎してくるのではないかと想像される。静止した動きのただなかですっと顔をあげ壁を見あげたときのありえない速度。高い位置からちゃぶ台のうえに急落下する身体。

 静止する身体にみなぎる凝縮されたエネルギー、観客席に正対する身体の肯定性といった身体の劇場のなかに、いくつかの身ぶりがあらわれては消えていく。断片的な身ぶりのひとつひとつは印象的であり特徴的だが、ひとつの物語によって貫かれているわけではなく、仕草の面白さという以上には特別な関連性を見つけ出すことができない。たとえば、『冬至』のなかには、からだ全体を小刻みにふるわせながら、ちゃぶ台をガタガタといわせる数秒の時間がある。あるいは開いた手のひらで顔をおおいながら身体を傾け、右手で印を結んで静止する瞬間がある。これらの出現を、意味を結ばない身ぶりのパスティーシュと受け取ることもできるし、3.11大震災を経験した私たちの心的トラウマに触れるものと解することもできる。私たちがストーリーを求めてしまうのは、語るべきものはすべて物語を持っている(ほとんど同語反復だが)ことを知っているからだ。ちゃぶ台ダンスのような作品性の高いパフォーマンスにおいても、木村由のダンスは、みずからをこうした意味と無意味の間で宙づりにしている。『夏至』がそうであったように、私個人は、大震災の後遺症のなかにあるいまの時期に、ちゃぶ台をガタガタといわせれば、それが強烈なメッセージ性を帯びてしまうということを、ダンサー自身は積極的に選択していると受け取りたい。冒頭で述べた理由によって、ここで『冬至』論はできないが、おそらくは今回も(彼女のではなく、私たちのといえるような)なにか重要な記憶に触れるダンス作品を作りあげたに違いないと思う。



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