2012年4月29日日曜日

FOOD feat.Nils Petter Molvær@新宿Pit Inn



FOOD feat.Nils Petter Molvær
── Japan Tour 2012 ──
Special Guest: 巻上公一
日時: 2012年4月19日(木)
会場: 東京/新宿「ピットイン」
(東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿ビル B1)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/予約: ¥4,000、当日: ¥4,500
出演: ニルス・ペッター・モルヴェル(tp, vo)
イアン・バラミー(sax) トーマス・ストレーネン(ds)
Guest: 巻上公一(vo, theremin)
予約・問合せ: TEL.03-3354-2024(新宿ピットイン)



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 ヴォイスの巻上公一は、ユーロジャズに新風を吹きこんでいるノルウェーの音楽シーンから、2009年春、2010年春と、キーボードのストーレ・ストーレッケンとドラマーのトーマス・ストレーネンからなるデュオ “ハムクラッシュ” を招聘した。このことが機縁となり、今度は、ストレーネンがイギリス出身のサックス奏者イアン・バラミーと組んでいる “フード FOOD” に、一足早く「フューチャー・ジャズ」の文脈で来日を重ね、日本でもよく知られるトランペットのニルス・ペッター・モルヴェルを加えた特別編成のトリオを招聘することになった。もともとFOODはデュオ・ユニットで、時々のゲストをサード・パーソンとして迎えることで、音楽のバリエーションを拡大していく方法をとっているようだ。2011年春、このメンバーでのツアーが企画されたものの、3.11東日本大震災の影響でトリオは渡航禁止の憂き目にあい、今回は満を持してのリベンジ公演ということになる。巻上公一にとって、バラミーやモルヴェルとはピットイン公演が初顔あわせ。細かいサウンドを網の目のように編みあげていくFOODの隙間のない演奏に対し、巻上がヴォイスとテルミンによる異質のサウンドで切りこんだ第二部は、まさにぶっつけ本番のスリリングな即興セッションとなった。

 FOODトリオの演奏は、モルヴェルのラップトップも含み、繊細なサウンド・コントロールやループを可能にするエフェクター装置を三者三様にそろえているので、人数的にはトリオでも、実際の演奏は、トリオのイメージを覆すような数多くのサウンドが飛び交う場となっている。あるときはサンプリングされた音が亡霊的に再帰し、あるときはループされたサウンドが瞬間を永遠に引き延ばして、たったひとつしかないはずの時計的な時間を、いくつにも複数化していく。過去と現在が混在するという時制の混乱が、聴き手に無時間的な体験をもたらすこととなり、そこに桃源郷(仮想された未来の時間)が出現する。多種多様なサウンドで飽和状態になった空間がゆっくりと移行していくという、こうしたホーリズムを破壊してしまうことのないよう、音量バランスには最大限の注意が払われている。ホリゾンタルな音響世界、桃源郷さながらのパストラルな空気、音楽の無時間性、どこのものとも知れない架空のフォークロア的サウンド、演奏の多焦点性──これらの背後には、キリスト教的な楽園のイメージがあるのだろう。

 イアン・バラミーのサックスは、私たちのよく知っている地上的なジャズを演奏するが、楽器をトリガーとするサウンド操作に徹底したモルヴェルの演奏は、トランペットをひっくり返し、ベル部分に装着した小型マイクに声を吹きこんでエフェクトする奏法も含め、バラミーの対極をいくという意味で、つねに天上的なる声、天上的なる空気感を創造していた。いうまでもなく、民族的なる表現をローカルなものから引きはがして普遍化するのは、ECMがずっとやってきたことのひとつでもある。バラミーが体現する地上的なるものと、モルヴェルが提示する天上的なるものを架橋する役割が、地上的なるリズムの反復と機械的なループによる自動演奏の間をいくトーマス・ストレーネンである。対照的な演奏をするバラミーとモルヴェルは、交互にソロをとる場合もあれば、別々の領域を動いて仮想的なデュオ演奏をする場合もある。こうした3人が描き出すトリオの関係性は、音楽に終止感をもたらすことなく、まるで偶然の出来事のように次々に移行していく。

 身ぶりのパフォーマンスでヴォイスとテルミンを一本に貫く巻上公一の演奏、つねに音楽を身体の原初的なあり方から離さず、人のカラダが持つグロテクスな異物感を失うことのない特異な彼の演奏が、多様なサウンドを細心に積みあげていくFOODの緻密な世界とどうからむのか、もしかして破壊してしまうのではないか、第二部の即興セッションは、まさに実験の場となった。言うまでもなく、巻上のヴォイスはモルヴェルの対極をいくからである。アンコールでの共演も含め、全体で50分ほどのセッションは、あくまでも第一部の雰囲気を崩さずに演奏されたが、巻上に触発されたモルヴェルが、ダイレクトなトランペット演奏をする方向に引きずり出される場面もあった。その場で起きている出来事に全身的に没入する巻上の演奏は、偶然のシンクロニシティを生み、アンコール演奏では、身体的な衝動を引き出して予想外のヴォイスを生み出す巻上ならではの展開が見られたのも収穫だった。FOODのデュオがアンサンブルを支え、ニルス・ペッター・モルヴェルと巻上公一が実験的対話を交わしたこの場面は、初日のハイライトだったように思う。

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新宿ピットイン

2012年4月27日金曜日

Black Artists' Group を聴く会



BAGを聴く
──再発見されるセントルイス・ニュージャズ・シーン──
日時: 2012年5月11日(金)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開演: 7:00p.m.~(2時間ほどを予定)
料金: 資料代 500円+ドリンク注文(¥700~)
DJ: 片岡文明
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)





 ジャズの領域における、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの圧倒的な知名度により、その活動が広く知られているAACMですが、この自主組織とならぶような芸術のアソシエーション運動が、60年代のセントルイスでも展開されていました。そのひとつの結節点となったのが、ニュージャズの演奏家を含むブラック・アーチスト・グループ(略称:BAG)でした。BAGに結集したオリバー・レイク、ジュリアス・ヘンフィル、ハミエット・ブルーイットらは、その最初期の活動において、どのような音楽を作りあげていたのでしょうか。BAGの貴重なアナログ盤をそろえている片岡文明氏が案内役を務め、実際の演奏を聴きながら、その足跡をたどるレコード鑑賞会が開かれます。1960年代の(黒人)芸術運動として展開されたニュージャズの多様な広がりを再発見する機会になりそうです。




ブラック・アーチスト・グループ|Black Artists' Group
 公民権運動を背景に、1960年の中頃からセントルイスで活発になってきた黒人芸術運動のなかから生まれてきたミュージシャンの自主的な組織で、1968年から72年にかけて活動した。地元でさまざまな芸術活動(特に実験演劇)とのアソシエーションをはかり、使われなくなった倉庫を改装して、芸術の教育機関としての役割も果たそうとした。後に有名となった音楽家たちに、“ワールド・サキソフォン・カルテット” を結成したオリバー・レイク、ジュリアス・ヘンフィル、ハミエット・ブルーイットらがいる。やはり60年代に結成されたニュージャズ・ミュージシャンの自主組織であるシカゴのAACMと比較できる運動で、シカゴ出身の詩人ブルース・ラトリンがBAGに所属していたことなどから、ふたつの活動の間には交流も図られていたと思われる。21世紀に入ってから再評価が進んでいる。



DJ: 片岡文明氏
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吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ

2012年4月23日月曜日

ACKid 2012:小宮伸二+吉本裕美子



The 7th ACKid 2012

小宮伸二吉本裕美子
日時: 2012年4月22日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 4:30p.m.、開演: 5:00p.m.
料金/前売り: ¥2,000、当日: ¥2,500
出演: 小宮伸二(美術) 吉本裕美子(音楽)
照明: 早川誠司 企画: HIGUMA
主催: ACKid 実行委員会
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)


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 毎年4月に定期公演されている明大前キッド・アイラック・アート・ホールのオリジナル・プログラム<ACKid>は、「音楽だけでも美術だけでも身体だけでも表現できない、視覚と聴覚と触覚とが融合した身体感を体感する表現の試み」を合言葉に、ジャンルの異なる表現者がコラボレーションするプログラムを集めた芸術週間のことである。「ACKid」の「AC」は「Art Collaboration」の略称というわけで、芸術の総合的な表現を目指して2006年にスタートしてから、今年で7回目となる。キッドでお馴染みのアーチストたちが複数回参加しているが、本年度の初日公演は、函館在住の美術家である小宮伸二が作りあげたインスタレーションのなかで、ギタリストの吉本裕美子がサウンド・パフォーマンスするというプログラムだった。吉本の参加は、やはりキッドで大晦日に定期公演されている<除夜舞>での演奏が機縁になったと推察されるが、彼女にとって、インスタレーションとの “共演” というのは、ライヴハウスなどでいつもしている即興セッションやソロ演奏、あるいはダンサーとのコラボレーションとも少し趣きの違う環境下でのパフォーマンスとなったのではないだろうか。

 キッドで音楽公演がおこなわれる際にはいつも観客席の最後列になっている場所、階上に音響・照明ブースをいただく凹みのスペースが、大きな白いカーテンで仕切られている。そのかわり、いつもはステージになる場所の壁際に、ぐるりと椅子が並べられて観客席が作られている。吉本裕美子のギターやエフェクター類を乗せたテーブルはカーテン前にセッティングされ、白いカーテンには病院で使われる点滴の瓶から受け皿にしたたり落ちる水紋が、照明の光を反射して大きく映し出されている。カーテンのこちら側にも、会場の四隅と中央の五ヶ所に点滴の瓶と受け皿が配置され、ポチャリ、ポチャリと受け皿に落ちる水滴の音が、増幅して会場に流されている。公演には多くの観客が詰めかけ、椅子が足りなくなると座布団を使って順次あいている床を埋めていった。大入り満員である。会場照明は、点滴のラインに沿って受け皿を照明する5点と、カーテンに映し出された水紋のみ。演奏家には、足もとの投光器から弱い光が出ているだけだったが、パフォーマンスの後半になると、吉本の周囲を白いハロゲンライトがほんのりと浮かびあがらせていた。時間の移行が、音だけでなく、光によっても語られている。

 水紋の光と水滴の音は、吉本のパフォーマンスがはじまる前から、また終わったあとも持続している(ものと想定されている)。それとは対照的に、約一時間のパフォーマンスを、吉本は連続するひとつらなりのものとしてではなく、いくつかに区切って構成した。(1)幕の向こう側に映し出される影の歩行(影はギターを持っている)、(2)ヘッド部にたくさんの鈴やラトル類をさげたガットギターを鳴らしながら観客席に入りこみ、中央に置かれた受け皿に触れて音を出す、(3)幕前に戻ってのガットギター演奏。なにがしかの音楽スタイルのある演奏ではなく、ギター弦をランダムにつま弾き、かき鳴らすような演奏、(4)録音された環境音を流しながらするガットギターの演奏、(5)キリル文字で音が表記されたグルジアのおもちゃの鉄琴を鳴らしながらの会場歩行(環境音の持続)、(6)幕前に立ってのエレキギター演奏(最初と最後の部分にだけ環境音が重なる。最後の部分の環境音は「雨音と雷鳴」)、(7)床においたギターにe-bowを乗せてノイジーな自動演奏させたまま、演奏者が退場する(ロックショーでお馴染みの終演のスタイル)。暗転。

 長いパフォーマンスをいくつかに区切って構成するというのは、通常の音楽演奏ではあたりまえのことに属するが、「視覚と聴覚と触覚とが融合した身体感を体感する」ことがテーマの<ACKid>においては、少し別様の視点から見ることが必要になると思う。というのも、構成のある吉本の演奏は、水滴のあるインスタレーション環境とは別に、彼女自身のパフォーマンスのなかに、一度通ったら戻ることのできないいくつかの部屋を用意したことを意味するからである。点滴からしたたり落ちる水滴の音のような環境に耳を(身体を)開くため、サイトスペシフィックな態度をとることのある現代の即興演奏が、ときに長時間の沈黙をすることもあることを考えれば、光と影から構成される小宮伸二の(空間)世界に、吉本は彼女自身の(時間)世界を斜めに交差させながら通り過ぎていったということができるように思う。両者の間をつなぎとめているのは、それ自身なんの意図ももたない、点滴のカテーテルからしたたり落ちる水滴の音であり、この意味において、パフォーマンスの前半部分で、吉本がガットギターのヘッドで受け皿に触れて音を出したのは、ふたつの世界を触れあわせる象徴的な行為になっていたと思う。

 本公演をもって今年7回目となる<ACKid>の幕が開いた。



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明大前キッド・アイラック・アート・ホール

2012年4月22日日曜日

鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート:その8



鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート
ELECTRICAL PARATE: PART 8
日時: 2012年4月21日(土)
会場: 東京/大崎「l-e」
(東京都品川区豊町1-3-11 スノーベル豊町 B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order
出演: 木下和重(violin, electronics) 鈴木 學(electronics, 野菜)
問合せ: TEL.050-3309-7742(大崎 l-e)
※電話はライブのある日の午後5時以降にお願いします。


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 鈴木學と木下和重の<エレクトリカル・パレート>は、木下の声かけによって2011年の9月にスタートしたエレクトロニクス・デュオで、もともとは今井和雄トリオのライヴのとき、急遽出演できなくなったオプトロン伊東篤宏のピンチヒッターとして木下がトリオに参加したのがきっかけになっているという。エンジニアでエレクトロニクス製作講座を開いている鈴木學が、回路を自作した発信装置を使ってエレクトロニクス演奏をするプレイヤーであることは、数々のユニットで演奏してきた経緯もあり比較的知られているだろうが、かたや弦楽四重奏団を率いたり、不思議なエンターテイメント作品を作ったりと、その活動スタイルがいささか謎の木下については、エレクトロニクスへの関心はおろか、ほとんどなにも知られていないというほうが早いのではないかと思われる。そしてそれは、実際のところ、私のようにほんの少し木下を知るものにとっても、内橋和久のワークショップに参加してライヴ活動をはじめたヴァイオリン奏者という以外にはうまい形容のしかたが見つからない。個人的なことではあるが、直接には音楽に関わらないことで、プロフィールに書かれることもない、阪神・淡路大震災のとき神戸で被災した経験を話してもらったことが、ずっと印象深く記憶に残っている。

 音響トリガーとなるヴァイオリンを携えた木下和重はステージ下手に位置し、旧ループラインからひきついで使用されている鉄製のふたつの丸いテーブルのうえに機材を並べた鈴木學は上手に位置した。ふたりの間には、それぞれの音響装置から出されたシグナルを増幅する大小のスピーカーが置かれている。今井和雄トリオなどでは、赤い団扇で電子ノイズをあおぐというようなインタラクティヴなパフォーマンスも加味することのある鈴木だが、この晩はほとんど動くこともなく、いたって地味なふるまいに徹していた。鈴木のエレクトロニクス演奏は(あるいは電子回路は)、低音成分の多いファットなノイズが特徴となっているように思われる。かたや、ヴァイオリン弦の響きはもちろんのこと、楽器ボディへのタッチやヒットまでもトリガー音源にする木下の演奏は、聴き手が視覚でとらえることのできる楽器の部位による響きの性格の違いが、そのままエレクトロニクス演奏の違いにも反映されるようなものとなっており、ループされるサウンドの微細な変化にも彼ならではの(かなり忙しい)変化が加えられる。

 初めて<エレクトリカル・パレート>を聴いた感想としていうと、デュオ演奏におけるエレクトロニクスの質はかなりざっくりとしたもので、決して爆音ではないが、ラップトップに登録したサウンドファイルによる演奏などとはまったく違う、演奏者の身体性に近接した場所から生み出されるノイズ・ミュージックという感触を持った。サウンドに野生の部分が残されているといったらいいだろうか。一方で、音響を実体化するスピーカーのサイズの問題であるとか、時間を形成するという意味では、サウンドそのものより重要と言えるかもしれないループに対する方法論的な依拠──電子音がそこに連続的にあらわれることを可能にする枠組みとして採用されるために、ループそのものが意味生成の場であることが意識の対象にならなくなること。よく使われる比喩に従うなら、ものを見る目そのものを見ること──などが、デュオ演奏を大きく枠づけているように思われた。エレクトロニクス音楽の大衆化とともに、エレクトロニクスの響きそのものに対する私たちの感覚も、ずいぶん開発されたと思う。音質に対して感覚が細分化されたり、響きがループされる意味生成場を、空間(優位)的なものとして体験するか、時間(優位)的なものとして体験するかというような経験の質にまで、聴き手の感覚自体がコミットできるようになった。そうした意味でいうなら、<エレクトリカル・パレート>デュオは、野生のサウンドをもってする、仮想された(ひとつの)大文字のループのうえの即興的対話になっていると思う。

 パート8においてメルクマールをなしたのは、第一部の後半に出現した、木下和重がヴァイオリンのボディをたたきながらその音をループさせた場面である。私の耳にはそれが土を掘る音として聴こえてきた。というのも、これは端的に、木下の出したサウンドが、ボブ・オスタータグの『Sooner Or Later』(1991年)を想起させたことによる。ジャーナリストとして現地におもむいたオスタータグが、エルサルバドルの内戦で殺された父親を埋める少年のすすり泣く声やシャベルの音をサンプリングした政治的な作品。木下がこの作品を知っていたかどうかは知らない。しかしながら、即物的なサウンドが聴き手の思いがけない記憶を誘発するのも、こうした演奏がもたらす音楽の一部分だろう。また第二部で、ふたりが同時に音響装置の操作をやめ、回路から手を離して自動演奏させたときがあった。このような演奏は、これまでのライヴで初めてということだったが、彼らの操作する電子回路が、演奏者とは別に、そこに自生しはじめていることを意識化させる興味深いシーンだったと思う。こうしたなりゆきも、デュオにおいてはすべてが偶発的に招来するもので、決して目指されるようなコンセプトではないということであった。



※【次回】鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート:その9      日程:5月27日(日)、会場:大崎/戸越銀座 l-e、ゲスト:古池寿浩
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大崎 l-e
 

2012年4月21日土曜日

Lucio Capece:Zero Plus Zero


LUCIO CAPECE
ルシオ・カペーセ
ZERO PLUS ZERO
(potlatch, P112)
曲目: 1. Some move upward uncertainly (For Harley Gaber)、
2. Zero plus zero、3. Inside the outside I、4. Inside the outside II、
5. Spectrum of One、6. Inside the outside III
演奏: ルシオ・カペーセ
(soprano sax, bass clarinet, sruti box, electronics)
録音: 2009年~2011年
場所: ドイツ/ベルリン
発売: 2012年4月


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 アルゼンチンのブエノスアイレスからベルリンに拠点を移し、音響シーンで角頭をあらわした管楽器奏者ルシオ・カペーセが、2009年から2011年にかけて演奏/録音したソロ演奏をまとめた『ゼロ・プラス・ゼロ』は、通常の音響による即興セッションとは切り口を変え、カペーセがどのような音響に、どのような固有の感覚を、どのように見いだしているかということを、再構成してみせた作品集となっている。少なくとも彼のソロ演奏においては、すでにベイリーのような即興語法(言語的なるもの)は問題になっておらず、その意味では、これは野外演奏するミッシェル・ドネダのソロ演奏によく似たもの──サウンドによって満たされる内面世界──といえるだろう。彼が「ノイズのなかに隠された音程、そして音程のある響きの組みあわせに隠されたノイズ」と呼ぶものは、ノイズ/楽音の二項対立を突き崩すケージ的な思考法に立ったものだが、ここではそうしたケージ流のノイズ一元論を超えて(あるいはその手前に居つづけながら)、ある響きとの接触によって、感覚が変容していく瞬間そのものを演奏に定着しようとしている。それは音楽の演奏というより、むしろあるヴィジョンの開示とでもいうべきものではないだろうか。

 見開きジャケットには、いくつかの引用文がちりばめられている。たとえば、地球を地球の外から初めて撮影したソ連の宇宙飛行士ゲルマン・ティトフは、地球が──すなわち、人類にとってゆるぎない大地的なるものが──宇宙の砂粒に見える瞬間を記述し、中世ドイツの神秘家ヒルデガルド・フォン・ビンゲンは、光が経験的なものから普遍的なものに変わる瞬間について述べ、フランスの社会学者エミール・デュルケームは、ひとつのものに精神を集中するとその他のものが見えなくなる経験について語り、そしてさらに、以下のようなゲーム理論からの引用がある。「もしふたつの量子チャンネルの伝達能力がそれぞれゼロであっても、ふたつをともに使用したとき非ゼロ和の能力はなおも保たれるだろう」(非ゼロ和:複数の人が相互に影響しあう状況の中で、ある一人の利益が、必ずしも他の誰かの損失にならないこと、またはその状況を言う)。おそらくこれらは、ある実体や態度の正しさについて述べようとしたものではなく、いずれも視点が変わることで、あたりまえのように考えていた感覚が変容する瞬間と、そのとき私たちに訪れる驚異の感情をとらえようとしている。詳細には触れないが、おそらくここには、崇高なるものをめぐる美学的テーマが隠されているはずだ。引用はいずれも視覚に関係したものだが、「ノイズのなかに隠された音程、そして音程のある響きの組みあわせに隠されたノイズ」というあわいの領域を探索することで、ルシオ・カペーセは、このことを聴覚において感覚可能なものにしようとしている。

 オルガンのように響くインドの楽器シュルティボックス、プリペアドしているために “さわり” の響きを誘発するソプラノサックスやバスクラの演奏(サーキュラー・ブリージング奏法で演奏される)、あるいはイコライザー、サイン波、リングモジュレーターのようなエレクトロニクスなどによる特殊演奏は、カペーセの場合、トラディショナルな楽器の演奏方法の外に逸脱していくだけの一方通行的なものではなく、「Inside the outsid」というタイトルに象徴的なように、いわば外側と内側を同時に提示するように組みあわされている。どんな楽器が演奏されているかがわかると同時に、どこか違う、なんか妙だという感覚も聴き手に誘発するように、サウンド構成がなされるのである(「ゼロ・プラス・ゼロ」)。そうしたあわいの領域に滞留するカペーセの反復的、あるいはループ的演奏が心地よく響くのは、おそらくそれらのサウンドが、管楽器奏者である彼の静かな呼吸によって息づいているからではないかと思われる。持続や反復において、ドラマーやギタリストのループとは決定的に異なる気息の関与。ドネダにおいて彼の動物性をむきだしにするものが、ここでは光合成をする(呼吸にすら光が関与していることの驚き!)植物的な呼吸──山内桂のそれに比較できるだろう──にとってかわられている。

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POTLATCH
 




2012年4月17日火曜日

パール・アレキサンダーのにじり口 with カール・ストーン



Pearl Alexander presents "Nijiriguchi"
パール・アレキサンダー:にじり口
with カール・ストーン
日時: 2012年4月15日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金/前売り: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: パール・アレキサンダー(contrabass)
カール・ストーン(laptop)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)


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 喫茶茶会記で毎月公演されているコントラバス奏者パール・アレキサンダー主催の「にじり口」シリーズの第二期が、ラップトップ・コンピュータを使うカール・ストーンをゲストに迎えてスタートした。エレクトロニクス関係では、第一回に中村としまると共演しているが、ミキシングボードを使用しながら外部入力されるサウンド情報を遮断する中村が、エレクトロニクス奏者と呼べるのに対して、カール・ストーンは、かつてサンプリング・ウィルス時代の大友良英とアルバム製作したように、パソコン内のサウンドファイルはもちろんのこと、その場で共演者の演奏をパソコン内に取りこんで加工しながら演奏するなど、シンセサイザーに始まる音響技術の進化を受けて、演奏スタイルを「進化」させてきたミュージシャンということができる。久しぶりに聴いたこの日の演奏から判断すると、彼はいまもそのスタイルを変えていないようだ。メディアや複製技術の発展とともに、原音という起源のイデオロギーを離れた音響が、それそのものとして自立するポストモダン的状況(ボードリヤール的に言うなら「音響のシミュラークル化」)を引き受けて音楽する演奏家というふうにいえるだろう。

 カール・ストーンは、ステージ下手にラップトップを乗せるテーブルを用意し、パソコン本体を中央に、小型のスピーカーをテーブルの両脇に置いて演奏した。上手に立ったコントラバスの前にマイクを立て、そこから伸びたシールドがパソコンに接続されている。シールドがステージの床に瀧のように垂れ下がる鈴木學の音響機器群とくらべると、いたって簡素なたたずまいである。共演者がサンプリングしやすいようにという配慮もあったのだろう、第一部の冒頭は、アレキサンダーが音質を変えるだけの静かなワンノートをアルコで出すところからスタートした。出だしのミニマルな雰囲気を保ちながら、色々なベースサウンドをノイズ的に織り交ぜていくアレクサンダーに対し、ストーンはためしに音を出してみるといった感じでほとんど演奏せず、結果的に、アレクサンダーのソロを先行させる形になった。これ対して、第二部では、反対にアレクサンダーが演奏しないでストーンに長いソロをさせる場面があった。これは意図された対照性というより、この楽器の組みあわせにおいて必然的なものだったと思う。

 人の声や民謡というような、(その場にない)異質のサウンドを使ったストーン独自のコラージュらしき演奏は、第一部の後半から少しずつあらわれてきたが、そうすると今度は、風呂敷を広げたようになるサウンド構成のなかで、コントラバスが簡単なサウンド・コメントを添えるだけの演奏をするようになる。コントラバス演奏に少し遅れて、ライヴな演奏の影のような、エコーのようなサウンドをつけること(ここで注意すべきは、「こだま」という概念が「エフェクト」という概念と異なることだろう)、あるいは複数のサウンドを構成して簡易的な作曲を施すこと、これがストーンのしていた演奏のように思われる。なぜこのサウンド・ファイルなのかという理由があるかもしれないが、即興的対話という点で見るとき、これはどちらかがどちらかに先行し、遅延するという仕方でしか話を作ることができないということを意味している。この時間的ずれのなかで引き起こされる批評性が、サンプリングがスタートした1980年代には、創造的なものと見なされたのであった。

 演奏の同時性が成立しないというのは、ラップトップのようなパソコンを使ったサンプリング音楽が登場してきた当初から、インプロヴィゼーションと共演する際の問題点だったように思う。それはたぶん、サンプリング音楽がつねに過去の一時点にある記録/記憶を扱うという点と、演奏の際にオリジナルなものをつけ加えようとすれば、サウンド断片を再構成しなくてはならないところから、そこに立ちあらわれる音楽構造そのものに、時々の即興の自由度や偶然性が阻害されてしまう点からきている。パソコン演奏は、即興演奏をしていくなかで音楽の構造を自由に選び取ったり、方向性を急転換させたりといったことが不得手の「楽器」なのである。おそらくこれは、ディスプレイ画面とマウスによる操作が、即興演奏を「インスタント・コンポージング」と呼ぶのとはまた違った、強い作曲性を帯びていることによるのではないだろうか。このような困難をあえて呼びこみ、インプロヴァイザーとして独力で立ち向かわなくてはならない状況を作り出すことが、「にじり口」シリーズの眼目である。問題の難しさに、ときに立ち往生してしまうパール・アレキサンダーだが、そのような修羅場にあえて身をさらすことが、即興演奏家にとっての音楽の冒険であることはいうまでもあるまい。



【関連記事|パール・アレキサンダーのにじり口】           ■「パール・アレキサンダーのにじり口」(2012-01-21)          http://news-ombaroque.blogspot.jp/2012/01/blog-post_21.html  ■「パール・アレキサンダーのにじり口 with 鶴山欽也」(2012-03-19)   http://news-ombaroque.blogspot.jp/2012/03/with.html

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喫茶茶会記

セグメンツ創世記 七日目:神は休んだ。



セグメンツ創世記 最終回
七日目「神は休んだ。」
日時: 2012年4月15日(日)
会場: 東京/大崎「l-e」
(東京都品川区豊町1-3-11 スノーベル豊町 B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order
出演: 木下和重(performance) 古池寿浩(performance)
坂本拓也(light, performance) 鈴木 學(sounds, performance)
問合せ: TEL.050-3309-7742(l-e)
※電話はライブのある日の午後5時以降にお願いします。


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 ヴァイオリン奏者の木下和重が、ジョン・ケージの後期に登場するタイム・プラケットの考え方に触発され、独自に考案したセグメンツ理論を使い、ステージに乗せられる芸術/芸能ジャンルを、かならずしも音楽の演奏、楽器の演奏に限らない出来事一般へと拡大していきながら、ビジュアル・アート、人形劇、仮面劇、パフォーマンス、手旗信号、パントマイム、影絵芝居、エレクトロニクス演奏、その他いろいろ──なかには暗闇という「出来事」すら引用されていた──これらのことを、日常生活のなかで私たちがあまり経験することのないような形で連結してみせるライヴが、千駄ヶ谷ループラインでシリーズ公演されていた。このセグメンツ・プロジェクトは、ループラインが経営規模を縮小して再開した大崎 l-e へと引きつがれ、いくらやってもいっこうに洗練度を増さないパフォーマンス(洗練度を増すことがないために、パフォーマンスは正確な反復を可能にするなにがしかの技術になることなく、いずれも身体的な出来事の範囲にとどまっている)の数々をならべていくという、予備知識のない観客には、おそらく手作りの寸劇やバラエティ番組にしか見えないだろう不思議なステージを、今回は、「セグメンツ創世記」シリーズという、『旧約聖書』に出てくる神の七日間の天地創造になぞらえて公演してきた。4月15日は、シリーズの総集編「神は休んだ。」の公演日だった。

 観客を座らせて10人ほどという狭い会場の奥が、大きな白い布のカーテンで仕切られている。カーテンはパフォーマンスの準備を隠す緞帳であり、同時に、原色のライト、光と影、懐中電灯の明かりなどを投影するスクリーンにもなる。一時間のステージは、(1)オーケストラ録音による「蛍の光」楽奏、(2)エレクトロニクス・ノイズが鳴るなか、左右からカーテンにあたるふたつの光源によるライトの交錯と文様の侵入。やがて正位置の、あるいは逆立ちしたマネキンの首の影が出現。(3)ノイズ演奏が激しくなるなか、緞帳カーテンがゆっくりとあがっていくと、ステージ奥におかめ(木下和重)とひょっとこ(古池寿浩)の面をかぶったふたりがマントを羽織って座っている。背後にはオレンジ・緑・黄色のライト。背の高いおかめがマントを脱いで立ち上がり、背の低いひょっとこが次いで立つ。おかめのすることをひょっとこが真似る。しばらくして、おかめはマネキンの首を吊るした糸を切っていく。(4)おかめが下手にいたライトの坂本拓也と、上手にいたノイズの鈴木學を手招きで順番に呼びこむ。四人が整列して、おかめのすることを真似る。右足をあげる、ひざまずいて天を仰ぐ、お辞儀をする、両手を後ろ手に高くあげるなど。このときノイズは自動演奏。

 緞帳を使わない場面転換として例外的だったのが、(5)紙袋が持ち出され、観客の頭にかぶせる(すでに何度もおこなわれているので、観客もみんなおとなしく紙袋をかぶる)場面だ。紙袋のうえに直接ライトが投影される。「心のセグメンツ」である。(6)紙袋が外されると、ステージに1mほどの高さの衝立てが置かれていて、衝立ての向こうからパンダ、犬のぬいぐるみ、えのき茸などがあらわれて即興劇をする。(7)ふたたびカーテン緞帳がおり、真っ暗になる。カーテンのうえに懐中電灯(ペンライトかもしれない)で光の文様が描き出される。カーテンに近く遠く、光源が動く。このシーンは無音のまま。(8)左右の光源から白や緑のライトが投影され、そこにヴァイオリンを弾く男、トロンボーンなどの影が浮かびあがる。トロンボーンの音も。このシーンもほぼ無音。(9)高い位置からのライトに大きな満月のような光の円が浮かびあがる。オーケストラ録音による「蛍の光」楽奏。二度目はメンバーによる合唱つき。満月の下弦に、手で作ったキツネやウサギの影絵があらわれる。(10)緞帳があがり、四人が整列しての挨拶。頭を下げるタイミングが一致しない。何度も「ありがとうございました」の挨拶。

 もし即興的なものが「セグメンツ創世記」にあるとしたら、それは出来事の背後に「作曲家」を想定させるような、意識的であったり、計算可能性を持っていたりするような要素を、ケージ流の偶然性の導入にかえて、もっと簡略化した形で排除するためでなくてはならないだろう。というのも即興は方法であって、それ自体が出来事ではないからである。ノイズ演奏とともに緞帳の幕が開くと、おかめとひょっとこの面をつけたペアが椅子に腰掛けているというような、出来事の連鎖の予想外なところは、あまりの無意味さに笑いと恐怖が同時にやってくるという印象で、たしかにこの世にありえないものの結合と受け取れるものだが、ループラインのセグメンツ・プロジェクトから「セグメンツ創世記」まで、現在「GENESis」を名乗っているメンバー(木下和重、古池寿浩、坂本拓也、鈴木學)が固定されているように、出来事は受け継がれ、新たな出来事の介入とともに、単に組み替えられるだけというふうにもいうことができる。ここにはおそらく即興演奏に一般的な問題──即興が事後的に語れない行為であるにも関わらず、語りとはつねに事後的にしかありえないという二律背反──も関わっているだろう。

 冒頭に戻れば、ケージが示したようなこと──「音楽」と呼ばれるものの多様なあらわれの背後に、ある構造を発見し、現代音楽のように、特権的でもあれば自立的とも思われている芸術領域と、その外にある日常生活を通分してみせるような行為によって、「作曲」の意味そのものをずらしていくような作曲をしてみせることと、ここで木下和重がしているような、あらかじめ獲得されたそのような抽象的な場所から、ある具体的な出来事の領分に降りてくる作業とは、真逆のベクトルをもつ行為となっている。要素としては、どちらが欠けても成立しないが、だからといって、「セグメンツ創世記」に集められた数々の出来事のなかにセグメンツ理論を探そうとしても、おそらくまったくわからないだろうし、もしていねいに説明されたとしても納得できないのではないかと思われる。というのも、おそらく個々の出来事は、音楽理論を前提としながら、あくまでも木下の感覚によって集められるからであり、観客は(出来事の背後にある構造ではなく)そうした感覚そのものを、(身体的に)了解可能な出来事のひとつとして感じとってしまうからである。このことは、同様にして、他のメンバーにもいえる。あえて現代音楽の文脈を外していうならば、セグメンツ理論というのは、そのように出来事の外部にあるものを指摘することで、出来事が出来事に自足することで出来事性を捨ててしまうような事態を回避するための、つっかえ棒のようなものではないかと思われる。



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大崎 l-e

2012年4月14日土曜日

Gianni Gebbia & 新井陽子:渡来伝来伝播変成



Gianni Gebbia 新井陽子
渡来伝来伝播変成
torai-denrai-denpa-hensei
日時: 2012年4月13日(金)
会場: 東京/入谷「なってるハウス」
(東京都台東区松が谷4-1-8 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: ジャンニ・ジェッビア(as) 新井陽子(p)
予約・問合せ: TEL.03-3847-2113(なってるハウス)


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 サックスのベルのうえにそそり立つゴム手袋という隠し技も、ジャンニ・ジェッビアのビザールな感覚をあらわして余りあるものだが、今回の来日公演に彼が用意してきた “飛び道具” は、日本の篠笛と、触れることでチープな電子音を発する音響ガジェットだった。林栄一との共演で、また映画『南蛮人』上映後の音楽セッションでと、木製ボックスのこの楽器はいたるところで活躍している。13日の金曜日! 入谷なってるハウスで開かれたピアノの新井陽子とのデュオ「渡来伝来伝播変成」でも、この楽器が第二部の冒頭に登場したが、この晩はそれだけにとどまらず、休憩時間には、使い方を説明する即席のデモンストレーションまで開かれた。最初期のムーグのように、音程の自由にならない電子音がシングルノートでしか鳴らない楽器だが、ポルタメントがかかったり、指の使い方でメロディらしきものを工夫したり、バグパイプのように通奏低音を作りながら擬似的な二声を作ったりすることができる。しかしながらそれは、やはり音楽を作るための道具ではなく、自由にならない電子音の突出によって、固定化した、予定調和的な(即興)演奏を異化するため、聴き手はもちろん、ミュージシャンもどうしたらいいのかわからなくなるような無意味さを呼びこむものとして採用されているように思われる。

 この音響ガジェットが出すのっぺら坊のサウンドに、新井陽子はピアノの内部奏法で応じたが、(欧米人よりも)ノイズを意味をもった音として聴くことができる(といわれる)日本人の耳の特質や、現代音楽から出発した新井の理論的なセンスなど、おそらくいろいろなことが影響してだろう、音響ガジェットが出す電子音とピアノの内部奏法でアンサンブルが成立してしまうということが起こった。高い即興能力といえばいえるものだが、もう一方では、聴くものを当惑させる肝心要のあのビザールな感覚が生まれてこない。聴き手の私がこの音に慣れてしまったということもあるだろうが、それ以上に、新井陽子が電子音にノイズ・サウンドで応じたことが大きいと思う。床に座って音響ガジェットを操作したこの数分間をのぞくと、ジェッビアはステージ中央の高い椅子に腰掛け、瞑目したまま、ほとんど不動の姿勢でアルトサックスを吹きつづけた。あたかも座禅を組む禅僧のように、ピアノの流れに没入しながら、新井のする演奏のことごとくに即座の反応を返した。新井もまた、音に全神経を集中して、ジェッビアをふりかえることはなかった。初めてのデュオにしてすでにセッションの雰囲気はなく、もう何年も共演してきたユニットのような、即興の自由度を損ねることのないアンサンブルが瞬時に作られていく。

 メロディをくり出しながらのチェイス、サーキュラー・ブリージングが生み出すときに潮騒の胎動のような、ときに煙草をくゆらすような独特のシークエンス、連続するフリーキートーン、激しいフリージャズの応酬、ひとつひとつのノイズを宝石のように扱うピアノの内部奏法など、流れるように自然でありながら、次々とくりだされる多彩な奏法によってめまぐるしく変化していくデュオの演奏。同種の楽器ということもあってか、吉祥寺ズミでおこなわれたジェッビア/林栄一のデュオが、共演者を目の前に置くような演奏になっていたのに対して、ジェッビア/新井陽子のデュオは、自身の領域をはみ出して、共演者の領域と深くクロスしあうアンサンブルを形作るものだった。このことはたぶん、この三月に喫茶茶会記で開かれた初回の「焙煎bar ようこ」で、新井陽子/入間川正美デュオが聴かせた、お互いの間に一定の距離を確保する演奏とくらべても言えるだろう。「没入」といえるほどに聴きあうこのデュオ演奏の密度の高さは、音響ガジェットですら音楽化してしまうものだったというべきかもしれない。

 ピアノによる新井陽子のフリーフォームの演奏は、特別に風変わりなことをするわけではない正攻法によってなされている。日本の多くの即興演奏家に見られる “かぶき者”(江戸や京都などの都市部で流行した異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと)の精神といったものを欠いている。それが単なるコンプレックスの裏返しだったり、即興演奏を誤解したものであったり、仲間内だけでしか通じないジャーゴンだったりする場合もあり、評価は微妙だが、たやすく聴き手との共通感覚を確保する手段になっているということはあるだろう。即興演奏する新井陽子のエレガントさ、きっぷのよさは、こうした日本的即興の伝統から大きく離れていることから生じている。そうした彼女のまっとうさが生きるには、即興演奏一筋の演奏家より、ジャンニ・ジェッビアのように多方面の見識を持ちあわせた演奏家と、真正面からぶつかりあうのが最も早道だということを、この晩のセッションは教えてくれているようである。



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