2013年1月21日月曜日

長沢 哲: Fragments vol.16 with 森重靖宗




長沢 哲: Fragments vol.16
with 森重靖宗
日時: 2013年1月20日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 森重靖宗(cello) 長沢 哲(drums, percussion)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



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 長沢哲が主催する「Fragments」シリーズの第16回公演において、チェロの森重靖宗との二度目の共演という好カードが実現した。チェロの弦に鋭利な刃物のような弓をたて、断末魔の悲鳴を思わせるノイズサウンドに激しいパッションを重ねる森重の、痛々しいまでの快楽的な欲求は長沢になく、かたや、ミニマルに反復されるリズムのなかで、微細なサウンドの差異を執拗に積み重ねていく長沢の、求道者のような辛抱強さや実直さは森重にない。一見すると、ふたりはまるで正反対の資質の持ち主のようであるのだが、濃密に凝縮したサウンドのエネルギーによって日常性の時間を脱臼させ、時空間をゆがめてしまう魔術的な音楽をしているという点では、現在の即興シーンにおいて双璧といえるのではないだろうか。これもまた即興演奏というしかないのではあるが、音楽的な衝動に火がつくとともに、多彩なフレーズを展開し、いくつものバリエーションを経巡りながら、演奏を外へ外へと(あるいは横へ横へと)拡張していく身体のありようとは違って、彼らはいわば垂直の方向に深い穴をうがっていく。対比的にいうならば、演奏を内へ内へと(あるいは中へ中へと)拡張していく身体のありようを持っているのである。この自己への沈潜がサウンドを濃密に凝縮させ、時空間をゆがめてしまうほどの強度を獲得させることになる。

 故・富樫雅彦のドラミングに私淑してきた長沢が、内面的な音楽を志向しているのは疑いないとして、静謐な音楽空間を切り開く富樫の系譜を受け継ぐと同時に、長沢ならではの音楽性もそこにつけ加えている。さらには、長沢の演奏をかたわらに置くことで、富樫打楽の特質があらためて見えてくるようなところさえある。たとえば、サウンドカラーで絵を描くようなところだとか、サウンド構成におけるある種のデザイン感覚などである。あるいは、微細なサウンドの差異に集中してミニマルなパターンを追う長沢に対して、富樫が、(韓国の故・金大煥のように)太鼓やシンバルの一打のなかにすべてを見ようとする指向性を持っている点で、これは銅鑼の使用、バスドラの扱い方などに象徴的にあらわれているだろう。等しくサウンドに集中するといっても、微細な音色の差異を追っていく長沢は、ひとつのサウンドになにかを託すというようなことは少なく、演奏はいくつかのシークエンスを基本単位としている。これを作曲家的なセンスということも許されるだろう。周知のように、富樫を「作曲家」という場合は、あくまでもメロディを書く人、自然のヴィジョンを提示する人を意味していた。打楽する富樫は、つねにインプロヴァイザーとして考えられていたのである。

 そうした長沢哲が、森重とのデュオではアグレッシヴな演奏を展開した。ミニマルなサウンドの展開を捨てて、チェロ奏者との一騎打ちに挑んだのである。ともに内面を深く掘り下げていくタイプの演奏家でありながら、彼らはけっして自閉的な音楽をしているわけではない。くりかえせば、濃密なサウンドの凝縮をもって時空間をゆがめてしまうような、強度のある演奏をしているのである。ふたりの共演は、ひとつの密度が別の密度に接近し、重なりあい交錯しあって、まるでそこに新たな天体が誕生するような演奏だった。全体的には、ソロを交換しあいながら演奏が進行し、クライマックスでは、ギタリスト吉本裕美子と共演したとき(2012617日、Fragments vol.9)のように、長沢がゆっくりとドラミングの海面をあげていく打楽器版シーツ・オブ・サウンドで、演奏のヴォルテージを(内面の深いところから)最高度にまで押しあげていくというスリリングな展開をみせた。潮がゆっくりと引いていくような最後の部分も、自然な流れが美しく、個性的な演奏をするふたりが、演奏の個性をただの一音も犠牲にすることなく共演した、希有なケースのひとつとなったように思われる。

 昨年10月にチェロの弾き語りで活動を再開してから、さほど時間も経過していないこの時点で、森重のソロ演奏はひさしぶりのものだったようだ。彼の演奏は、目的地もないままに船出する航海のようなもので、特定のスタイルを持とうとせず、前後の脈絡もなく散発的に出されるサウンドの命綱のうえを、危ういバランスで綱渡りしながら、そこに内面の深みからやってくるパッションを編みこんでいく。方向の定めなさは、肉に突き立てられることなく、いつまでもサウンドの皮膚のうえを滑っていく鋭利な刃物を見ているようで、ヒヤヒヤとしたスリリングな感触がたまらない。即興演奏の長い歴史だとか、演奏スタイルだのコンセプトだのにふりまわされることなく、「まるでなにも知らない子どものように無垢な」サウンドを理想とする(らしい)森重にとって、よりどころとなるのはただひとつ、彼自身の内面からやってくる衝動のようである。森重が生み出すサウンドのヒリヒリとした触覚性は、演奏のなかであれこれのフレーズを使うことがあったとしても、美術でいわれるところの、アンフォルメルの音楽をめざすところからやってくるものなのだろう。ここでいう「アンフォルメル」とは、形のない、たとえば、すべてをサウンドに還元するような形式的なものではなく、そこに浮んでは消えていく散漫なフレーズやパターン等々の「形」が、音楽的に意味をなさないことを意味すると考えられる。





【次回】長沢 哲: Fragments vol.17 with カイドーユタカ   
2013年2月17日(日)、開演: 7:30p.m.   
会場: 江古田フライング・ティーポット   

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