2013年1月19日土曜日

絶光 OTEMOYAN



絶光 OTEMOYAN
── 木村 由 - 本田ヨシ子 - イツロウ ──
日時: 2013年1月18日(金)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開演: 8:00p.m. 料金: ¥2,000
出演: 木村 由(dance)
本田ヨシ子(voice) イツロウ(synthsizer, etc.)



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 その場でサンプリングしたヴォーカリーズをループで重ねていき、こすれあう皮膚感覚をもって干渉しあう擬似コーラスによって、無国籍で、幻想的な空間を織りあげていくヴォイスの本田ヨシ子、シンセサイザーやサンプリングされた物音を組みあわせながら、不均衡な電子ノイズを脈絡なしに散りばめ、穴だらけの時間を構成していくイツロウ、数ある木村由のダンスシリーズのひとつ「絶光 OTEMOYAN」で演奏するユニークなこのコンビが描き出す音響空間は、サウンド間に対立がないことで際立っている。声と声、声と物音は、ときにぶつかりあうように聴こえたとしても、基本的にそれぞれのレイヤーのなかを動いていくだけなので、本質的な対立も、また対話もひき起こすことがない。本田のコーラスは、(たとえば、巻上公一の「声帯」のように)他者の声が出会う場所ではなく、乱反射するひとつの声のこだまとして響いている。音響機器を接続した輪のなかに座りこむステージ下手の本田と、正面の壁前に楽器類をセッティングしたイツロウが、ダンスする木村由をサンドイッチにしておこなう演奏は、ホールの床を大量の黒い水で満たしていくかのようで、それは間違いなく、意識の底にわだかまっている影の領域を、強烈な催眠効果を発するサウンドとともに開いてみせるような演奏だった。

 彼方まで広々とひろがる湖の、鏡のように静かな水のうえを、髪を頭のうしろで束ね、白塗りにした顔に赤いほお紅と口紅を描き加えた “おてもやんメイク” の木村由が、足首まで水に浸かりながら、ゆっくりとした動きを運んでいく。これはもちろん私が見た幻想の風景に過ぎないが、「絶光 OTEMOYAN」では、ドラマーの長沢哲やピアニストの照内央晴と共演したときのように、投光器の光や壁に投影される影を使ったダンス空間が(音楽とは別に)用意されるということはなく、ダンサーが対話の相手にした空間は、まさに本田ヨシ子とイツロウが構築した音響空間そのものだったところから、私が見たこの風景は、たんに幻想というにとどまらず、ダンス空間の構造をも示しているように思われる。下手側の太い柱が、天井から吊り下げられたスポットによって明るく照らし出されていて、滝壺に落ちる滝のようだったのだが、そこが「絶光 OTEMOYAN」の空間の扇の要でもあり、またダンスの開始点になったこと、あるいは、奈落の底にある楽屋からステージに登場したとき真知子巻きにしていた赤いショールを、パフォーマンスの途中で小道具に使ったことなどをのぞけば、この日の木村由は、ほぼ徒手空拳の状態でダンスにのぞんでいた。これはもしかして、木村由の即興セッションでこれまで採用されていた、ダンス空間(時間)と音楽時間(空間)の楕円構造を解消しようとする試みだったのかもしれない。

 本田ヨシ子とイツロウが開いてみせる空間は、これまで木村が共演してきた即興演奏家のものとは大きく違っているが、それを身体のレベルまで下降していうなら、(上述したように)無意識の水を大量にたたえた深い池のようなものといえるであろうし、視覚的にいうなら、抽象的なサウンドを書きこむことのできる面(複数のレイヤー)の出現ということもできるだろう。そこにはおそらく世代的なメディア経験の相違が横たわっている。おてもやんメイクをした木村が持ち運ぶ身体は、一時間という時間を区切って、対立のないこれら複数のレイヤー空間を、いわば斜めに横切りながらダンスしていくのであるが、投光器の強い光が作り出す方向感覚や影を投影する壁を使えない(実際のパフォーマンスでは、公演の中程で壁に寄りかかるなどしていたが、これはダンスというより身体をオフの状態にする行為で、そこまでのパフォーマンスをいったんリセットする効果を生んでいた)ところから、いつも以上に床の存在を意識するものになっていたように思う。まさに対立や葛藤のない無意識の水からなる池の水面を歩行しながら、目に見えない水しぶきをあげて腰を落とし、身体を横たえ、緋毛氈のうえに頭を乗せ、芋虫のように身をよじり、(私は初めて見たのだが)寝たままの姿勢で床を蹴って床面を滑っていったのである。キッドの床と壁は、天井のライトが投影する格子模様でおおわれていた。

 木村のダンスは、本能的に反復を嫌う。新たな展開が見つからずに、似たような動きや身ぶりが出現することはあるが、ミニマルな動作の反復によってリズミカルな展開を作り出すというような場面には、これまで出会ったことがない。そうした音楽的な処理をせずに、パフォーマンスの終わりまで一本のラインのうえを歩きつづけようとする姿勢が、つねに過程を生きる即興演奏とがっぷり四つに組み合う現在にいたっているようである。私の知る範囲では、「速度ノ花」の山田せつ子も、木村とは身ぶりも構成もまったく違ったものでありながら、反復を嫌う即興という点で通じ合う部分を持っているように思われる。山田の場合、反復のない動きを連ねていくなかで身体のエネルギーが枯渇してきたと感じると、デュオ/デュエットでおこなっているパフォーマンスの最中でも、椅子のうえに腰かけるなどして身体を休めながら、いったん周囲の音から身を引いて、身体の内側からやってくる声に耳を傾けるということをしているようである。木村由の場合、こうしたダンスの空白を回避するためだけの動きをすることがあるが、即興演奏においては、共演者にソロを渡すということは頻繁におこなわれている。「絶光 OTEMOYAN」のサウンド空間が穴だらけのものであったように、即興演奏が生み出す時間も、本来は穴だらけのものなのである。

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