2013年2月5日火曜日

高原朝彦+ノブナガケン「続 連歌」



続 連歌 Shoku Renga
── 短即興アンソロジー ──
日時: 2013年2月3日(日)
会場: 東京/谷中「HIGURE」
(東京都荒川区西日暮里3-17-15)
開場: 3:30p.m.、開演: 4:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 高原朝彦(10string guitar, electric guitar, etc.)
ノブナガケン(percussion, voice, etc.)



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 クラッシュした細かなサウンドを生み出す10弦ギターの、高速のスピード感が持ち味の高原朝彦。高原とは対照的に、深い井戸の底で鳴る一音に没入して、背後に広がる闇にまで耳をとどかせようとする打楽器/ヴォイスのノブナガケン。即興演奏において対照的な資質を持つふたりが共演する「連歌」の第二弾が、高原の自宅から徒歩で10分ほどという地元のギャラリー「HIGURE」で開催された。ふだんは事前の決めごとをもうけずにおこなわれる即興演奏だが、「短即興アンソロジー」というサブタイトルに明らかなように、この「続 連歌」では、曲ごとに楽器(とその組合わせ)を変えながら短い演奏を重ねていくというスタイルが採用されている。風変わりな公演タイトルは、新たな演奏とともに刻々と変化していくイメージの連鎖が、短詩型文学のひとつである連歌のそれを思わせることによるのだろう。周知のように、この演奏スタイルは、わざわざ連歌のたとえを持ち出さずとも、即興の領域ではよく知られたものであり、格別珍しいものとはいえないが、公演場所に谷中の町を展望する地元のギャラリーが選ばれたこと、またステージの背後に開いたバルコニーの窓を通して、夕方から夜へと移る日没の時間帯をともに過ごしながらライヴを聴くという趣向などから、即興演奏は、音楽をローカルな環境に開いていくためのツールという特別な意味を持ったように思われる。

 即興演奏を環境と関わらせる点に、美術的なコンセプトを読む人がいるかもしれない。しかし「続 連歌」が選択した場所の特殊性は、むしろいま演奏会場としてさかんに利用されている阿佐ヶ谷ヴィオロンや喫茶茶会記などが、小規模スペースであるだけに、新宿ピットインや六本木スーパーデラックスなどと違って、環境面からも、地域に密着した場所になっているという側面を、意識的にとらえかえしたものと理解したほうがいいように思われる。音楽としての即興演奏が、(たとえば自由を得るための方法として)音楽それ自体で評価されてきたことに対し、即興演奏が新たなローカリティ獲得のための重要な方法になりつつあるという認識は、けっして声高に主張されているものではないにしても、これまでの即興演奏が持っていたイメージや意味を大きく塗りかえていくはずのものである。もちろん、演奏がおこなわれる場所や環境と即興の深い関わりは、すでに常識でもあれば、この音楽がはじまった当初から存在したテーマでもあったが、私たちの社会形成そのものであるローカリティの獲得という局面が浮上してきたのは、おそらく初めてのことではないだろうか。「続 連歌」を支えているのは、街場の即興演奏が日常的にしていることに対するあらためての考察であり、それを意識的に体験しなおしてみる作業(すなわち、積極的なローカリティの再構築そのもの)だったのではないかと思う。

 ノブナガケンのソロ公演がそうであるように、「続 連歌」でも、あらかじめ決められた楽器の組合わせが、即興演奏を枠づけるコンポジションの役割を果たして、逢う魔が時の谷中という環境の枠づけとは別に、演奏の全体にもうひとつの構造を与えるものとなっていた。このことは、「私の衝動は(共演者からではなく)楽器からやってくる」というデレク・ベイリーの発言を思い出させる。すっかり日没した第二部では、ミュージシャンを背後から照らし出していた外光がオレンジの照明に交代した。窓外の街並が暗闇に沈んでいくと、静かにおこなわれていた演奏も熱を帯びはじめ、次第に雄弁な即興演奏へと移行していった。楽器構成は以下の通り。第一部:(1)10弦ギター/ラトル+声、(2)テナーリコーダー/大正琴(スティックで弦打)、(3)10弦ギター/フレームドラム(素手)、(4)10弦ギター/小型の鐘(弓奏)。第二部:(1)テナーリコーダー/竹笛、(2)エレキギター/フレームドラム(ブラッシュ、マレット使用)、(3)エレキギター/大正琴(左足の付け根部分に立てて弓奏)、(4)10弦ギター/鈴(手のなかで揉む)と声。なかでもノブナガケンの大正琴は、奄美の竪琴に見立てたような演奏スタイルがことのほか印象的だったが、あまり他人の影響を感じさせない彼の演奏のなかで、この部分は、向井千惠が演奏する胡弓の影を感じさせるものだった。

 短かい即興演奏の切れ目でMCや拍手などはおこなわず、基本的には、坦々と音を環境に置いていくような演奏がつづいていくのだが、「続 連歌」で前面化されるサウンドは、高原とノブナガケンの間で、ちょうど池上秀夫のコントラバスと鈴木學のエレクトロニクスの間にあるような音のあり方の違いにもとづく緊張感を保っていた。すなわち、高原の場合、ノイズはそれを使って演奏するための語法となるものであり、サウンドがそうしたみずからの尾骶骨を消す形にはなっていないのにくらべ、対するノブナガの場合、演奏者はあくまでも楽器が鳴るための替え添え役として、(ほぼ偶然に)そこに居合わせているだけなのである。「聴く」という態度を徹底する点において、彼の演奏を音響的なものということができるだろうが、そこに沈黙を際立たせるヴァンデルヴァイザー楽派の実験性や極端さはなく、そのために、環境のなかに立った演奏者が環境のなかに埋没して姿を消してしまうというような出来事は起こらない。環境と演奏家が、いわば並列状態で提示されるのである。「続 連歌」において静から動へとむかった音の流れは、ノブナガのヴィジョンから高原の身体性へと演奏の中心が移動していったことを示しているが、それが日没による環境の変化と深く結びついていたことはいうまでもないだろう。




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