2013年2月25日月曜日

りょう+木村 由: midnight dreams@神田 楽道庵



りょう木村 由
midnight dreams
日時: 2013年2月24日(日)
開場: 6:45p.m.、開演: 7:00p.m.
会場: 神田「楽道庵」
(東京都千代田区神田司町2-16)
料金: ¥2,000
問合せ: TEL.03-3261-8015(楽道庵)



出演: 
西村卓也(bass)+亞弥(舞踏)
りょう(十七絃箏)+木村由(dance)
KARAS(神楽)+ひでお(尺八、能管)



♬♬♬




 神田にあるヨガ道場「楽道庵」(らくどうあん)は、ダンスや舞踏など、身体表現のパフォーマンス会場としても活用されているが、その一階スペースの改装に際して、昨年の暮れには「Frame ここは入口 ここは出口」(1223日)という改装前イベントが、今年になってからは規模を縮小した「midnight dreams」(224日)が、ミュージシャンとダンサーを集めた小規模のフェスティバルとして開催されている。その二度目の公演でダンサーの木村由にも声がかかり、箏奏者りょうとの初共演が実現した。箏奏者のりょうは、ダンサーたちとの(即興)セッションに取り組んでいる演奏家のひとりである。かたや、数年前から、本格的な即興セッションをはじめた木村由にとって、箏のような邦楽器(奏者)との共演はこれがはじめてではないかと思う。とはいうものの、伝統的な楽器を弾いているからといって、演奏者が伝統的な感覚を持ちあわせているかというと、かならずしもそうとはかぎらないのがやっかいなところだ。たとえば、故・富樫雅彦に私淑している長沢哲などは、モダンなドラマーであるが、まるで墨絵を思わせるような、微細なサウンドの濃淡を描きわける感覚に秀でている。もちろん、高橋悠治の探究に見られるように、箏のような民族楽器が演奏者にもたらす身体性には、西洋楽器とは別の特異性があるのも事実ではあるのだが。

 楽道庵における木村由とりょうの共演では、ライトがパフォーマンスをリードする役回りを果たしていた。ふたりが完全暗転のなかで板つきをすますと、出演者それぞれの頭上に吊りさげられた、周囲を針金で防護したふたつの裸電球がゆっくりと点灯する。それとともに、まるで命のない機械人形にスイッチが入るかのように十七絃の箏が鳴り、箏の背後の壁前で、背中を見せて椅子に座ったダンサーが、静かな動きをはじめる。箏の弾奏は、時報のような単調さで、時間をおいて鳴らされる。会場はのっけからこの世のものではない雰囲気に支配される。白塗りをしたダンサーは、長い髪を頭のうしろで束ね、朱塗りの下駄をつっかけ、赤いというよりも、ライトのなかで乾いた血糊のように映える色味の花柄ワンピースを着て、ゆっくりと動作する。楽道庵を意識した衣装だろうか。木村がゆっくりと正面に向きなおり、椅子から立ちあがると、下手サイドのライトが正面から低い位置でダンサーを照らし出す。ときおり素早い動作を入れながら、一歩、また一歩と土間を踏みしめながら楽器の前へと進み出てきた時点で、今度は上手側のライトが点灯する。ダンスがライトを誘導するように見えて、じつはこれは、ライトがダンサーの次の動作を観客に素描してみせているのだと思われる。ライトによって開かれた空間になにものかが出現する。おそらくここまでが(能舞台における)橋懸かりでの演技に相当する部分だろう。序の舞というわけである。

 ダンスが本舞台に移ってからのりょうの弾奏は、特別な語法を使っているわけではなく、箏という邦楽器ならではの味わいを生かした伝統的な手でありながら、サウンドに強弱のメリハリをつけて、ダンスする身体の強度にふさわしい激情性を与えるという、正攻法の演奏を聴かせた。やがて上手側のライトが消えると、りょうはスティックを使って絃をこするノイジーなサウンドへと移行する。絃の爪弾きだけでは出せない凶暴な荒々しさを楽器から生み出すためだ。そうしたなか、ゆっくりとした動作を持続する木村は、荒々しい絃の奔流のなかにすっくと立つ巌のように、クラッシュした音のしぶきをはじきかえしながら、観客側にあった左足をゆっくりとあげていくと、朱塗りの下駄で土間をひと蹴りする。この瞬間がエネルギーの解放点となった。クライマックス以後は、ごく短時間で場を収めるための舞いが舞われる。細かい身ぶりをつなげながら身体をゆっくりと回転させ、まるで手踊りをしているように上手奥へと退いていく木村。上手奥で、右手を高く掲げる身ぶりが反復されるなか、暗転。関尾立子が会場の壁に描いたフレーム群が、黄土色の壁面色とあいまって、楽道庵をピラミッドのような王の墓所に見せていた。

 「midnight dreams」で踊られた木村のダンスは、光の足し算によって暗闇が開かれ、光の引き算によって空間が閉じる、そのわずかに開かれた場所になにものかが出現し、また去っていくという物語構造をもっていた。りょうの箏演奏もまた、デュオを構成するというよりは、むしろこの光を音に変換したようなものだったといえるだろう。こうした明快な形式性は、しばしば「亡霊」的なものにたとえられ、私自身もそう呼ぶことが多い木村のダンスの方法論を、きわめてシンプルな形で提示したものと受け取ることができる。そこに出現するものは、なにがしかの舞踊理論によって導きだされたものではなく、たとえば、「楽道庵」という場所(光)が用意されたとき、突然そこに(理由なく)出現する身体なのである。踊る身体と遭遇するとき、私たちはそこに存在する物質的な身体そのものに目を奪われがちだが、むしろここでは、その出現様式に注目すべきだろう。それはギャラリー街路樹のちゃぶ台のうえでも、盆踊りの晩の井の頭公園の橋のうえでも、自然光が降り注ぐキッドアイラックの5階でも、そのようなものとしてあったはずのものである。他のダンサーにはないこの特異性を、これまでは木村のダンスの「イメージ喚起力」と呼んできた。それはそこで起こる出来事が、ダンサーである彼女の個人的な資質に負うものと想定したからなのだが、もしかするとこれは、まったく逆に、伝統的に「地霊」(genius loci)と呼ばれてきた場所の力に、彼女が自分の身体をまるごとあけわたすことができる能力からきているのかもしれない。こちらはおそらく「人形振り」から「インデックスする身体性」へとつながる概念の系譜を持っている。いうべきことはあまりに多い。



  ※本公演のレポートは、長坂光司氏撮影のビデオ映像によっておこないました。
    また、掲載写真は、ビデオ映像から起こしたもの、あやこさん、太田久進さん撮影によるものです。
    ご協力ありがとうございました。

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