2013年2月23日土曜日

新井陽子SOLO vol.1@焙煎bar ようこ



焙煎bar ようこ
新井陽子 2013 ピアノソロ シリーズ 第1回
yoko arai 2013 piano solo series no.1
日時: 2013年2月22日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 昨年度、各回ごとに多彩なゲストを迎え、新井陽子が隔月公演してきた喫茶茶会記の音楽シリーズ「焙煎bar ようこ」は、二年目に入る今年、三ヶ月ごとの第四金曜日におこなわれるピアノソロ・シリーズに衣替えした。とはいえ、音楽は人と人の間にあると考える彼女が、時々のゲストを迎えておこなう即興セッションを中止したわけではなく、こちらは本シリーズとは別に不定期公演へと移行したようなので、実質的にはシリーズが分岐したこととなり、新井の茶会記公演はかえって増えるかもしれない。すでに一月は、松の内から日本滞在中のユーグ・ヴァンサンや岩瀬久美と共演し、三月には、昨年から企画の進んでいた森重靖宗との初セッションが予定されている。即興演奏におけるソロは、単なる演奏フォーマットのひとつというのではなく、伝統的に特別な意味合いを持たされてきた。たとえば、新たな即興語法を発展させたり洗練させたりする場所として、あるいは集団即興のスタイルが析出する新たな個のスタイルとして、時代によって、時と場所によって、さまざまな語られ方をしてきた。一方、拡散の一途をたどった現代の即興演奏にとって、ソロ演奏は、孤立無援の環境のなかでも、何事かを可能にする出発点のようなものと見なされてもいる。新井の場合、それはなにを意味するのだろう。

 新井のソロ演奏は、昨年度の「焙煎bar ようこ」の第四回目ですでに登場していた。ひさしぶりに取り組んだこの単独ライヴで、楽器の潜在的な可能性を開く手ごたえを感じたのか、あるいは彼女自身が初心に帰る時期にさしかかったのか、シリーズ化に向かう動機はかならずしも詳らかではないのだが、2009年に製作されたソロ・アルバム『water mirror』の完成度や、本シリーズを始めるにあたって表明された「ピアノという孤独な楽器に向き合う方法を色々やってみたい」という発言などを勘案すると、「方法」と「孤独」を、彼女がピアノにむかう際のキーワードと考えていいように思う。すなわち、即興演奏を、最大限の自由の行使だとか、反復の拒否だとか、未踏の領域へのジャンプだとかいうように、観念的にイメージするのではなく、(交換可能な)複数の方法論的アプローチによる実践と考えていることがひとつ。もうひとつは、ピアノが「孤独な楽器」といわれている点で、おそらくこれは、ソロ・シリーズが彼女自身の内面と向き合うこと(ピアノが孤独な演奏者に向き合うという逆過程)も同時に意味するところから出た言葉だろう。とはいえ、新井の演奏はすぐれて運動的なものであり、すべてを運動性に開いていくということはあっても、内省的な自己への掘り下げを感じさせることはまずない。

 新シリーズの第一回では、こうした新井のピアニズムが十二分に発揮されることとなった。中間部にイマジナリー(映像的)なパートを置きながら、前後をパーカッシヴに躍動するサウンドではさんだ第一部の演奏は、たしかな技術に支えられて間然とするところがない。いつもながらの知的に切り立った演奏だ。特筆されるべきは第二部だろう。照明を極端にしぼって薄暗くした会場で、ピアノ線を直接はじきはじめた新井は、すぐに鍵盤へと移行し、トレモロだけで構成されるミニマル色の強い演奏を展開していった。執拗につづく鍵盤の連打が、鋭くとがった音、ふわっとした倍音の雲、滝壺に落ちる水のような轟音、吹きなぐられる雪の弾幕のように波打つサウンドなどを、次から次へとピアノ線から生み出してくる。緊迫感を最後まで途切れさせることなく、この楽器ならではという特色のあるサウンドをとことん出しつくした演奏は秀逸なものだった。自由な即興演奏にひとつだけルールを決めることが、まったく色あいの異なる世界を出現させるという、リダクショニズムの方法論に通じている点にも留意すべきだろう。ノートに対するリダクションが、沈黙の多い演奏に結実するのに対して、奏法に対するリダクションは、サウンド・ヴィジョンの徹底化をもたらすということになるだろうか。

 昨年の1110日(土)、やはりこの喫茶茶会記で、来日中のジョヴァンニ・ディ・ドメニコ(ベルギー在住のイタリア系ピアノ奏者)とノルベルト・ロボ(ポルトガルのギター奏者)をゲストにした森重靖宗のセッションがあった。その際、第一部でミニマルなパターンを反復しながら演奏するドメニコのソロピアノが披露された。コンパクトにまとめられたドメニコの演奏は、即興セッションではあっても、作曲といっていいほど形式性に貫かれたものだったのだが、あるいはこの演奏が、客席にいた新井陽子に、なんらかのヒントなりインスピレーションなりを与えたかもしれない。ダンパーを多用して音色変換をくり返すドメニコの演奏は、彼自身に深くのめりこむ姿勢ともども、まさに内省的・耽美的なものであったのに対し、新井陽子の演奏は、等しく「ミニマル」という言葉を使っても、ほとんど正反対の音楽で、作曲的なコンセプトによって音楽の方向性を定めることなく、ゲームのルールによって行きあたりばったりに鍵盤上をさまよっていく。おそらくはそのために、身体的な(十指の)運動性が突出することになるのであろう。鍵盤をはいまわる指と、ボードをはずされてむきだしになったアップライトの内部に薄明かりがさすだけのライティング。なぜ演奏者の姿を隠す暗がりが必要だったのだろう。もしかすると彼女の音楽は、身体を巻きこんだ深い部分で、聴き手の意識に働きかけようとするものなのかもしれない。




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