2013年2月27日水曜日

高原朝彦 d-Factory vol.1 with 田村夏樹



高原朝彦 d-Factory vol.1
with 田村夏樹
日時: 2013年2月26日(火)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500(飲物付)
出演: 高原朝彦(10string guitar) 田村夏樹(trumpet, etc.)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 十年単位の長期スパンで見れば、10弦ギターの高原朝彦は、高円寺グッドマンをホームベースにして継続してきたソロ演奏と、阿佐ヶ谷ヴィオロンでコントラバスの池上秀夫と共催している Bears' Factory というふたつのシリーズ公演を、演奏活動の柱にしてきたといえるだろう。私生活上の転機を越りこえた最近では、これらに加え、打楽器奏者ノブナガケンとの「連歌」や、ギタリスト吉本裕美子との「electric & acoustic」、あるいは打楽器奏者・長沢哲との共演(シリーズ名はつけられていない)など、組みあわせにおいて冒険的・実験的な側面を持つ即興セッションにも取り組んでいる。このところ即興系のプログラムが増えている喫茶茶会記で、Bears' Factory の盟友である池上秀夫がはじめたシリーズ「おどるからだ かなでるからだ」と見あうように企画されたのが、トランぺッター田村夏樹を初回のゲストに迎えてスタートした高原オリジナルのシリーズ「d-Factory」である。これまでに共演したミュージシャンのなかから、高原が理想とする即興演奏をぶつけても遜色なく、高原と互角に高密度の演奏をすることのできるプレイヤーを厳選して、彼自身の音楽を全面展開しようという待望のシリーズだ。

 即興演奏の速度は、たとえば、フリージャズのような音楽では、楽器の可能性を最大化するという演奏技術の側面が、自己表現の拡大と密接にかかわりあい、表裏一体化してあらわれたものだった。しかし、それと同時に、個人的な表現のリミットを越えて、もはやサウンドそのものとしかいうことができないような強度のあらわれ、すなわち、質量的なエネルギーへと音楽を解き放つ側面をも持っていたように思われる。リズムの細分化からポリリズム、さらにその先のパルスへというドラミングの大まかな流れは、その環境内で高速度化していった即興演奏を、それでもなお「ジャズ」という伝統音楽の枠内につなぎとめる働きをしたと思われるが、そのようなパルスすら排除したインプロヴィゼーションにおいては、後者のようなサウンドの質量化が前面に踊りだしてくることになった。この点においては、デレク・ベイリーのギター・ハーモニックスも、グローブ・ユニティの大咆哮サウンドも、おなじ地平線のうえで論じることができるだろう。急速調のフレーズをたたき出す演奏者の超絶技巧が、それとして人々を感嘆させる境界線を踏み越え、人間的なものを離れた即物的・廃物的なサウンドを出現させるようになる瞬間である。

 その日本的なあらわれのひとつが、欧米由来のフリージャズを換骨奪胎した高柳昌行の「集団投射」にも見て取れるだろう。そこには「高密度」、あるいは「高濃度」の音楽と呼べるような、もうひとつ別の美学の存在があったと思われる。すなわち、マッスなサウンドの状態に、人間の手に負えない物質的なものの出現を見るばかりではなく、ある美的な感性が託されているということなのだが、こうしたサウンド特性がすべて、高原朝彦のギター演奏にも受け継がれている。私たちは、音を廃物化する即興演奏から、あれこれの音楽形式から解放された純粋エネルギーのようなものを感じ取っているが、現在の時点では、その先にもうひとつのレベルを置き、エネルギー化したサウンドの濃淡によって生態系を編みあげるような、環境的な感性を想定すべきではないか。デュオ演奏の第一部で、高原と田村は、まるで砂嵐になった放送終了後のテレビ受像機から、少しずつ形のあるものが見えてくるみたいに、まったくメロディがないどころか、まともなノートすらないノイズ状態から、少しずつ楽器演奏らしいものが混入してくるという破天荒な演奏をした。田村のトランペットは、ミシェル・ドネダやアクセル・ドゥナーのように、楽器に息だけを吹きこむ演奏からスタートし、高原とサウンドの強度で対話をかわしながら、楽器音に息をまじえた演奏へ、さらに楽器を朗々と響かせる演奏へと移行していったのである。

 明快な構造を持った最初のセットをコンパクトにまとめ、第一部の後半には田村のヴォイスが登場した。また第二部に入ると、走りつづける高原の10弦ギターをそのままに、田村はかたわらのテーブルに用意してあった小道具を次から次へと手にして、ときにはリズミカルに、ときにはリズムをはずして、さらにはリズムと無関係に鳴らしながら、穴だらけの演奏をした。鈴や小型のシンバルといった楽器はともかく、先がゼンマイのように巻いてあるおもちゃの笛やでんでん太鼓など、日常的な雑貨を使った関節外しの演奏においても、すべては音楽的なものとして立ちあらわれ、けっして演劇的な(あるいは美術的な)パフォーマンスにはならなかった。もちろん、そこで問題になっているのが視覚だからではなく、どこまでも聴こえるものに焦点があたっていたからである。演劇的な要素は、むしろこれらの演奏の後に登場した坂田明ふうのハナモゲラ語による歌や語りに見られた。意味と無意味の間に横たわる遊戯空間を綱渡りする言語パフォーマンスは、音楽以上に、すぐれて文学的な領域に属するものといえるだろう。高原の10弦ギターは、共演者から投げかけられるこうした多面的な演奏を、サウンドの強度においてとらえかえしながら、すべての球を精力的に打ち返すという四つ相撲を見せた。フラメンコ風のリリカルなバラードでまとめられた最後のアンコール演奏まで、ふたりの豊かな音楽性が全面的に発揮されたすばらしいコンサートとなった。■




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