2013年3月29日金曜日

毒食 Dokujiki 8



中空のデッサン Un croquis dans le ciel Vol.38
毒食8
Dokujiki 8
日時: 2013年3月28日(木)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.~
料金: 投げ銭+drink order
出演: 森 順治(alto sax, bass clarinet) 林谷祥宏(guitar)
田井中圭(guitar) 金子泰子(trombone) 
多田葉子(sax) 岡本希輔(contrabass)
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)


毒食8 演奏順
第一部
森 順治林谷祥宏 → 田井中圭 → 金子泰子 → 
多田葉子 → 岡本希輔
第二部
森 順治 → 多田葉子 → 金子泰子 → 田井中圭 → 
岡本希輔 → 林谷祥宏



♬♬♬




 昨年の夏、コントラバスの岡本希輔が吉祥寺ズミで主催する音楽シリーズ「中空のデッサン」の枠内で、サックスの森順治、トランペットの橋本英樹、ギターの林谷祥宏からなる「毒食」(どくじき)セッションがスタートした。しばらくの間は、この四頭体勢のままシリーズが進められていったのだが、毒食5(1225日)と毒食6(130日)の二回を林谷がインド旅行で欠場したのをきっかけにメンバー枠を拡大、毒食4(1129日)から毒食6(130日)まで、ピアニカを演奏する蒔田かな子の参加をみただけでなく、毒食5には、折よく来日中だったチェロのユーグ・ヴァンサンも特別参加した。ひとりの演奏家のソロを継続して聴くという会の趣旨を生かすため、参加者には、三回をワンクールとして演奏することが、基本条件として課されている。個々に生活の事情を抱えているという点では、演奏者はもちろんのこと、聴き手にも、シリーズを継続して聴くというのが、意外なことに、ソロ演奏というスタイルをうわまわる過酷な条件となるかもしれない。今年になって、毒食6から毒食8(328日)までは、サックスの多田葉子とトロンボーンの金子泰子が参加、偶然からか女性の参加がつづいている。また毒食7からは、スタートメンバーの橋本が諸事情で欠場中であり、毒食8からは、ギターの田井中圭が新たに参加した。

 三ヶ月の継続性を確保しながら、ホストとゲストの演奏家が、少しずつずれつつメンバー構成をし、ひとつのコンサート内でソロ演奏をバトンしていくというのは、思いつきからスタートしたものであれ、演奏の緊張感や新鮮さを保つ最適のスタイルとなっている。こうした<毒食>には、聴き手もおなじように参加すればいい。すなわち、聴き手の参加もまた、必然でも義務でもないけれども、だからといって、その場かぎりの気ままな娯楽というわけでもなく、できれば意識して継続的な聴取をすることが望ましい──<毒食>をそんな聴き方の提案として受け取ることができるだろう。このことは即興演奏を「自由な音楽」というときの「自由」のあり方を、異質なミュージシャンの共演によってではなく、現実的な公演スタイルそのものから規定するやり方になっていて興味深い。というのも、現代のような情報資本主義の時代には、良質な情報の獲得や、最適な情報の組合わせといった合理性が「自由」の前面に押し出されてくるため、教養であれ娯楽であれ、自己を離れてなされる聴取や継続した思考といったものが、成立しにくくなっているからだ。本来的にそれらは「自由」と無関係ではなく、むしろ「自由」のベースとなるものであるにもかかわらずである。

 毒食8の参加者は、森順治、林谷祥宏、田井中圭、金子泰子、多田葉子、岡本希輔で、この日は、森順治の司会で、第一部では、ミュージシャンが会場に到着した順が、そのまま演奏順になった。各自が10分~15分ほどでおこなうソロ演奏を二巡させたので、休憩時間も含めると、全体で三時間を越えるような長いコンサートとなった。二度のソロ演奏に変化を持たせるため、田井中は金属ボウルとおはじきを用意し、金子は元素周期表をボードに書きながら演奏し、多田はズミの書棚から故・大里俊晴の『ガセネタの荒野』を取り出して朗読しながら演奏するなどの工夫をしたが、そのなかでもっとも効果をあげたのが、窓の外にきれいな月が出ているからと、会場照明をできるだけ落として演奏した多田のアイディアだった。多田にならって、その次の岡本も薄暗闇のなかで演奏したのだが、そこからさらに、第二部は明るい照明を次第に暗くしていくという趣向が採用され、第二部のラストを務めた林谷のギターソロは、演奏者の顔も見えない真暗闇のなかでおこなわれることとなった。見ることは、感じることに直結しているため、聴くことも大きく左右せずにはおかない。ミュージシャンが考案したさまざまな工夫が、あくまでも知的なもの、意識的なものである一方、光の明暗はたんに感覚的なものでしかなく、しかしそうであるがゆえに、ダイレクトに身体に働きかけることになったと思われる。

 こうしたゲスト奏者たちとは対照的に、森順治、林谷祥宏、岡本希輔ら、毒食のホスト奏者たちは、二度のソロ演奏を楽器一本に集中して演奏した。これは演奏のなかに作曲的な要素を持ちこまなかったということである。両者の間にある(方法論上の)この相違は、おそらく重要な意味を持っているに違いない。森順治と岡本希輔の演奏は、いずれも無限のヴァリエーションを持つ日々の即興の今日の姿というようなものだった。<毒食>シリーズで積み重ねられてきたソロ演奏に、意識の「進化」を見たり、演奏の「戦略」を読んだり、あるいは世界の「豊かさ」を感じたりするのは、いずれも解釈の多様性であるわけだが、彼らがそうした解釈以前に示しているのは、即興がもはや特別なものとしては存在しない、生活と一体化した現実を生きている姿に他ならないだろう。そのなかにあって、通販で入手したというハーモニーのアコギを弾いた林谷祥宏は、少し前に杉本拓がしていたような「沈黙」の演奏を聴かせて異彩を放った。毒食の最初から、林谷は「実験音楽」と呼ばれるような性格の即興演奏をしていた。いうまでもなく、杉本の演奏は、即興批判を裏面に(隠し)持ったコンポジションの試みであるが、林谷の場合は、そうした「実験音楽」のアイディアを即興に応用してみているようである。聴取概念の変更をともなう音楽的試行が、ここでは一種の引用に様変わりしているというわけだ。判断の性急さをおそれず、林谷の演奏を現代即興地図のなかに位置づけるなら、おそらくカセットレコーダーの河野円や、ギターの(「演奏家・音楽家」ではない)康勝栄などと近い場所で、新たなサウンドの領域を開拓しようとしているのではないかと思われる。





※毒食(どくじき):1900(明治33)年2月17日、衆議院で演説した
田中正造が、「目に見えない毒」に汚染された水や作物を飲み食い
することをいいあらわしたもの。[フライヤー文面から]



【関連記事|毒食】
毒食 Dokujiki」(2012-08-30)
毒食 Dokujiki 2」(2012-10-02)

-------------------------------------------------------------------------------