2013年6月15日土曜日

野村あゆみ+高原朝彦+木村 由



高原朝彦 Solo & Duo
日時: 2013年6月14日(金)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+1drink order
出演: 高原朝彦(10string guitar, recorder)
野村あゆみ(dance) 飛び入り: 木村 由(dance)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



♬♬♬




 ダンスと即興演奏家のセッションでもっとも多いのは、おそらくデュオのフォーマットであろう。そもそも、身体表現において「即興」と呼ばれるものと、音楽においてそう呼ばれるものは、かならずしもおなじことをさしているとは限らないため、出会い頭の驚きとともに、あるいは回数を重ねながらの探究とともに、ふたつの領域の間に横たわる境界線を測量していく作業を欠かすことができない。この境界線は、事前の話合いのなかで明確になるような性格のものではなく、たった一度のパフォーマンスにおける身体の交感や交錯のなかに出現するものなので、とにかくやってみるしかないというようなものになっている。デュオの組合わせは、この境界線をはっきりと見るために、最適なもの(最低限の条件)といえるのではないかと思う。こうした場合の即興演奏は、フリー・インプロヴィゼーションが中心を占めることになる。より正確にいうならば、現代の即興演奏は、雑多な要素の混合物となっているので、そこから純粋な形でフリー・インプロヴィゼーションだけを抽出できるというわけではない(そんなことをすれば、演奏者の固有性そのものを損なってしまう)のだが、フリー・インプロヴィゼーションが歴史的にあつかってきたものを遺産として受け継いでいることは間違いないように思われる。

 あらゆる音楽形式(音楽ジャンル)から抜け出たところでも成立する演奏を、フリー・インプロヴィゼーションが問うていくなかで発見されたもののひとつに、響きを媒介にした演奏者の身体と場の関係性があるように思う。これは現在にいたるまで、美術用語でいうところの「サイトスペシフィック」な試みとしてなされてきているものだ。洞窟のなかとか地下水道など、特別な響きをもたらす環境での演奏が、場所そのものの特異性を聴取可能なものにする。おそらくはこの経験が、ダンスと共演する場合に、大きな力を発揮するのではないかと思われる。それを空間にコミットメントする演奏ということができるだろう。もちろんダンスと即興演奏の共演では、ある種の身体的な交感を通して、共演者との間の境界線を踏み越してしまうような出来事が問題になっているのだが、場との共振というのは、物理的な作用のことではなく、演奏における音楽的な出来事そのもののことなので、デュオにおいては、もうひとりの身体表現者とともに、こうした出来事に接近するということがおこなわれているのではないかと思われる。ダンスが即興的なものに接近する事情は別に考えられなくてはならないが、音楽においては、ある種の必然性が背景にあるといえる。

 10弦ギターの高原朝彦が、新しい演奏活動の拠点を求めて、ダンサーの野村あゆみと共同企画した新シリーズの初回ライヴに、観客としてきていたダンサーの木村由が飛び入り参加した。衣装の準備もなく、普段着のTシャツとジーパン姿だったが、ダンサーふたりに演奏家ひとりという組合わせは、数多い木村の即興セッションでも見ることのできないもので、思いがけなく新鮮なものであった。即興デュオから即興トリオになるというのは、音楽の場合もダンスの場合も、単に数だけの問題ではなく、パフォーマンス空間の構造やテーマが一変することを意味している。トリオ編成では、<ダンサー+演奏家+演奏家>がひとつの方向性としてあるが、これまで予想していなかったもうひとつの可能性を、この日偶然に見ることになった。江古田フライングティーポットの会場照明を落とし、床上に置かれたライトがステージのほぼ中央、演奏する高原をはずしてやや左側の壁を照らすなか、野村は下手の椅子に座って演技をスタート、一方の木村は、音をたてて椅子を引きずりながら上手から登場してくる。ひきずった椅子を途中で倒した木村は、ライトの光のなかでパフォーマンスしてから下手の野村と位置を交換、野村は木村の倒した椅子によりかかりながら床のうえで演技し、そのまま上手奥の玄関口へと歩き去ってゆくというシンプルななりゆきをたどった。

 発見のひとつは、ダンサーがふたりいるときのほうが、ひとりで演奏家に対しているときよりも、ダンサーのそれぞれにおいて、動きの特異性が浮き彫りになってくることだった。それは少し感じ方の角度を変えることで、初めて見ることのできるような特異性であって、たとえば、椅子のような道具の使い方の違いであるとか、舞台上での動線のとりかたの違いなどにあらわれてくるものである。これはおそらく、関係性をあらかじめ固定するような振付のない即興ダンスだからこそ、見えてくるものでもあるのだろう。発見のふたつ目は、ふたつの即興ダンスが、コンタクト・インプロヴィゼーションのような(ときにはアクロバティックにもなる、身体の強度を前面に出した)方法論をとるのではなく、いわばおたがいを照らし出しあいながらおこなう身体の提示になっていたことが、もうひとつの触れあいとして感じられたことである。複数の身体の間には、あなたでもなければ私でもない、明確にラインを引くことのできない曖昧な領域があって、それへの対処のしかたに感覚の特異性があらわれてくる。これもまた、当然のことながら、ふたりのダンサーがいることで、初めて私たちに感覚可能になるものといえるだろう。

 下手にある壁前の椅子のうえでなにかの到来を待った野村あゆみに対して、だらりとさげた左手に椅子を引きずりながら、この場所に侵入してきた木村由は、まさしく(予期せぬ)出来事の到来そのものだった。野村にとっての椅子は、いまだ座る道具という日常性のなかにあるのに対し、木村の椅子は、彼女の「ちゃぶ台ダンス」におけるちゃぶ台がそうであるように、日常性を逸脱するような出来事を起こすための道具、いや出来事そのものと化していた。ふたりのダンサーの交差は、日常性と非日常性がスパークするような、ありえざる領域の交錯/錯乱のようなものを垣間見せたと思う。扇の要にあたる位置に身を置き、ダンサーの交差を見守っていた10弦ギターの高原朝彦は、スピード感のあるいつもの演奏を封印し、弓を多用するサウンド指向の演奏で、あたりの暗闇をぼんやりと照らし出す線香花火のような響きを放ちながら、出会いの緊迫感をいや増しに増していた。15分間の短いパフォーマンスにもかかわらず、それはこれまでにない感覚を開く異色のセッションとなった。ダンスと即興演奏家の共演におけるデュオの重要性はゆるがないだろうが、ここにはまだまだ未開拓の表現領域が豊かに広がっている。そんなことを実感させてくれた強烈な15分間だった。

-------------------------------------------------------------------------------