2013年6月24日月曜日

白石民夫+井上みちる@多摩川是政橋



白石民夫井上みちる
THE FIRST REUNION
日時: 2013年6月23日(日)
場所: 府中市/稲城市「是政橋」多摩川北岸河川敷
開演: 2:30p.m.~
出演: 白石民夫(sax) 井上みちる(舞踏)
雨天決行 観覧自由 投銭歓迎



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 米国から一時帰国したアルトサックスの白石民夫を迎え、2012年のニューヨーク滞在期間中に、彼とコラボレーションした舞踏の井上みちるが、多摩川をまたいで府中市と稲城市を結ぶ大橋「是政橋」の北岸河川敷で、東京での再会を記念する40分ほどの野外セッションをおこなった。それにしてもなぜ是政橋なのだろう?  帰国の知らせが急で、準備期間がとれなかったという事情があるのかもしれない。しかし、もしそうだとしても、帰国の報を聞いた井上が「まっ先にここで踊ることを思いついた」のには、じゅうぶんな理由がある。その活動歴のなかで、2010年に「おどりすと」を宣言した井上は、隔月公演に挑戦した。そのとき選ばれた公演場所が、いまはなき小金井アートランドであり、美学校屋上であり、彼女自身もメンバーである<国立舞踏の会>がその前年に公開稽古をした是政橋だったということが一点。もうひとつは、白石と井上のふたりが、ニューヨーク滞在中に、ビルの屋上だとか、ブルックリン地区の汚水処理場などで屋外セッションをしているということ。ライヴハウスや画廊のような、通常の屋内空間とは別に、美術で「サイトスペシフィック」と呼ばれるような、特別な磁力を発する場所での舞踏を、井上みちるは求めているようである。

 多摩川是政橋の北岸は、近隣の人々の散策コースであり、フェンスで囲ったグラウンド設備などもある土地柄なのだが、大橋が空を分断してそこだけ天井のようになっている橋下あたり、広い河川敷を水際まで深く入った場所には、人もあまり足を踏み入れず、生活空間から隔絶されたようなひっそりとした空間が開けている。右手に見える南武線の鉄橋をときおり電車が渡っていく以外は、これといった動きも目につくことがなく、多摩川をはさんだ対岸の建物は、広い空の下で静かにたたずんでいる。大きな河原石がごろごろとして足もとは覚束なく、バーベキューでもしたのだろうか、黒々と焼けた石がキャンプの痕跡をとどめている。川や橋があるところは、人々の身体に変容を起こさせる境界的な場所だとはよくいわれることである。府中市と稲城市の間という行政区域のはざまにあり、生活空間と密着した日常性からキャンプのような非日常性への移行も、境界線ではっきりと区切ることができないような形で空間的に存在している。盂蘭盆の季節になると、海や河に近づくなという言いつたえも思い出される。屋外の、野外の自然空間というより、ここは都市の周縁が露出してくるような場所といえるのではないだろうか。

 サックスの白石民夫は多摩川の流れを背にして立ち、舞踏の井上みちるは黒い上着を羽織り、白い手袋をした手を、左手、右手、両手と、空に向かって高く掲げながら、一段高く土盛りをしたあたり、雑草が生い茂る草むらのなかに、遠く離れて白石と対峙するように立った。サックスの演奏といっても、阿部薫や柳川芳命の系譜にある白石の演奏は、高周波のサウンドだけを選択して、鳥のような、風のような、悲鳴のような、呼び声のような響きを発するもので、演奏と演奏の間にじゅうぶんな間をとりながら、出発点となった位置から水際まで、ひとつの水際からもうひとつの水際まで、水際から最初に井上が立った土手の草むらのなかへと、河川敷を円を描くように移動しながらパフォーマンスした。かたや、黒い上着を脱ぎ、灰色の(銀色の?)シルク地のワンピースで踊った井上は、白石と対照的に、位置をあまり移動せず、土手のうえと土手の斜面という、自由なダンスをさまたげるような環境で踊った。この動きにくさが意図的な選択だったことは、彼女が赤い下駄を履いていたことでもあきらかだろう。土手の斜面での動きにくさ、下駄に足もとをとられての限られた動きを受け入れての舞踏は、この場所との対話を意味している。

 パフォーマンスの最終局面で、土手の草むらのなかに入った白石を見届けた井上は、周囲にあった大きな石を投げながら、ふたたび土手をよじ登っていき、胸のあたりまで生い茂った雑草を引き抜いては、ダイナミックに四方へと放り投げるアクションをくりかえしてから、力士のように両脚をふんばり、両腕を激しくふりまわし、身体全体にパッションをみなぎらせるクライマックスを作った。その一方で、河川敷に鳴り響く白石のサックスは、環境を驚かすようなものとしては演奏されておらず、見え隠れする響きの間歇的な構成は、クライマックスと呼べるようなものをあらかじめ排除していた。それでも立ち位置の変化によって、井上との距離が縮まることが、デュオが作り出す空間そのものの変容につながり、時間的な物語に相当するような流れを描き出すことになったと思う。風にまぎれて環境に溶けこんでいく白石のサックスの響きと、環境を(日常的な)身体を変容させる契機として受け入れていく井上の舞踏のありかたの相違は、とても興味深いものだった。踊り仲間も含め20人ほどもいただろうか、このパフォーマンスを見ることのできた見物客は、河川敷にインスタレーションされたようなふたりのアクションを、環境を異化するものとして感じただろうか、あるいは環境に溶けこんでいくものとして感じただろうか。

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多摩川是政橋