2013年6月29日土曜日

森重靖宗+木村 由@喫茶茶会記



森重靖宗木村 由
Cello & Dance Duo
日時: 2013年6月28日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 森重靖宗(cello) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 即興演奏のライヴに足繁く通い、これはと思う共演者を見つけ出しては、新たな表現領域に挑んでいるダンサーの木村由が、喫茶茶会記でチェリスト森重靖宗との初共演にのぞんだ。ダンス公演では趣向を凝らすのが普通になっているタイトルは、パフォーマンスにあらかじめのイメージがつかないよう、あえて「Cello & Dance Duo」というそっけないものが選ばれたが、深々とした弦楽の響きと、いびつにゆがんだサウンドの間を往復するパッショネートな森重のチェロ演奏は、個性的な即興演奏にふさわしい舞台をライヴごとに準備する木村由にとって、新しいダンスへの挑戦をうながしたのではないかと思う。革新的なダンスというような専門的な評価を、門外漢の私がくだせるはずもないが、少なくとも、木村由があらゆる機会をとらえて新しい動きの探究に努める貪欲な表現者であることは間違いなく、演奏家との即興セッションに限っても、どこか資質に似たところのある森重靖宗との初共演は、確実に彼女の探究の一里塚となるように思われる。ライトはこれまで演奏家の側面から、楽器ともどもその影を会場の壁に大きく投影させるようにセッティングされていたが、この日は、まったく別のスタイルが採用された。演出のこの相違は、いうまでもなく、ダンスが展開する空間構造を根底から変えることを意味している。

 弱々しい光を放つカンテラふうのアンティークな照明が、下手に座るチェロ奏者のかたわらの台に乗っている。ダンス用には、上手寄りにやや強いスポットがひとつ、天井から床へとまっすぐに落ちている。ピアニスト照内央晴とのセッションが、ステージの全面を使うことになるのとは対照的に、ダンサーは光の輪のあたりを離れることなく、その場所にとどまったまま、座る、立つ、寝るの上下動を構成して即興的なダンスをした。この日は、偶然にも、喫茶茶会記の奥さまから、ピンクの薔薇の花束が差し入れられた。花束はそのほとんどが、演奏者の前あたり、台上の照明を取り囲むように配置されたが、木村はそのなかから一輪だけを引き抜くと、ダンス用のスポットのなかに横たえた。情熱的なフラメンコが踊られる雰囲気のなかに、立ったり座ったりするだけの女が登場するというのも意外性に満ちた趣向だが、そうではなく、この薔薇の配置は、いつものライトのセッティングを代替するようなもの、すなわち、ライトでは結ばれることのないふたりの表現者の存在を、仮につなぐようなものだったのではないかと思われる。薔薇の豪華さによってある種の退廃感が、あるいは、花たちのかすかな息づかいによって生きものの猥雑感がかもし出されていたが、後者は、この晩のふたりの表現にも通じるところがあったように思う。

 指先や足先のささいな動きによって表情を変えつづける魔術的な木村由のダンスは、その動きだけでも人々に特別な感覚を喚起しないではいないが、この晩は、スポットのなかに薔薇の一輪を置き去りにしたまま、光のなかに手や足や身体の一部分を差し入れたり、光の外周に身を置いて、床からの反射光でぼんやりと身体を(あるいは赤い花柄があしらわれた古風なシフォンの衣装を)照らし出したりと、光と影の境界性をじゅうぶんに意識しながら、絶妙の匙加減でその内外を出入りし、遊戯的にも、文法的にも感じられる動きを展開していった。光と影の境界性を、見ているものに境界性として意識できるようにするため、こんなふうに木村のダンスはみずからを亡霊化する。細部まで磨きこまれた動きの精度は、おそらくちゃぶ台ダンスで加速的に鍛えられたものだろう。この晩のパフォーマンスは、丸いスポットの輪やダンスの上下動が、ちゃぶ台的な世界をも連想させたが、それはあくまでも森重のサウンドの垂直性や即物性に見あうダンスの空間構造として選択されたものである。ダンスの後半、薔薇の枝を手にした木村は、ダンスの流れのなかで杖でも使うように天井高くさしあげると、力いっぱい床にたたきつけた。乱離骨灰とはこのことか、無惨にも、花びらは一枚も残らずあたり一面に飛散し、観客は、一瞬にして解釈のおよばない領域に突き落とされたのである。

 どこからかかすかに響くうなり声のような演奏からスタートした森重は、共演者の一挙手一投足を注意深く凝視しながら、ダンサーのあとにぴったりとついていく演奏をした。どんなに断片的なサウンドを使おうが、森重の演奏は、けっしてアブストラクトなもの、記号的なものに足をとられることがない。それはまるで呼吸のようでもあれば、動物的な声のようにも聴こえる。すなわち、それらは演奏者の身体深くへと通じる井戸の底から汲みあげられるサウンドなのである。ミュージシャンが演奏中にする作業は、大なり小なりそのようなものだろうが、森重の場合、自己に沈潜していくにしたがって、生々しい情感が、存在の孤独のようなものをともなって出現してくるところに特徴あり、おそらくはこの点が、木村由のダンスと親和的なのではないかと思われる。ダンサーが先行しチェリストがそのあとを追う。この順序が入れ替わったのは、パフォーマンスの終盤、大きなサウンドの動きを作り出した森重が、木村を激しいダンスに誘ったときだろう。森重の演奏は、静から動へという音楽的な流れのなかにあり、木村もこの展開に乗ることになった。もしふたたびこのふたりに共演のチャンスがめぐってきたならば、今度は、周囲に配慮するいとまもあらばこそ、ひたすら深く自己に沈潜していく森重サウンドのなかに飛びこんでダンスする木村由が見てみたいものだ。

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