2013年10月22日火曜日

池上秀夫+菊地びよ@喫茶茶会記12



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.12 with 菊地びよ
日時: 2013年10月21日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 菊地びよ(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 コントラバスの池上秀夫が主催するシリーズ公演「おどるからだ かなでるからだ」の第12回に、舞踏家の菊地びよが迎えられた。菊地は地域コミュニティの活動にも積極的に取り組んでいて、踊りの立ちあらわれる場というものを、近代的な劇場空間のなかだけにとどめることなく、また「環境」という美術的な方法論に押しこめたりもせず、3.11以降の社会のありように根ざした広い視野から探究し、その身体をもって実践的にかかわっているダンサーといえるだろう。踊りの立ちあらわれる場を、重層的なものとして経験にもたらそうとする態度は、彼女が本シリーズのいくつかの公演を下見に訪れたところにもあらわれている。この晩のセッションでは、ホスト役の池上が、彼にしては珍しく、ころあいを見はからって演奏に終盤を作るというような配慮をせず、意識的にサウンドに焦点する彼ならではの即興演奏を全面展開しながら、共演者に合わせるというのではなく、また対立するというのでもなく、それぞれの(身体の)ありようがおさまりどころを見つけるまで、パフォーマンスの流れに身をまかせるという演奏をしたため、公演時間はシリーズ最長の70分となった。

 この結果は、即興的なダンスに対する菊地の習熟度に負うところが大きかったように思う。公演冒頭、黒のワンピースドレスに裸足というシンプルないでたちで楽屋口から登場した菊地は、本編のパフォーマンスに入る前に、かたわらの照明コントローラーを操作して会場を暗転させ、コントラバス奏者を呼びこむという演出上の注文をつけた。パフォーマンスに入ってからは、菊地びよならではの動きを随所にはさみこみながら、公演の最初と最後では、疾走する帆船が海風を帆にはらむように、大きく両手をあげて身体を波打たせる動作をフィーチャーすることで、「おどるからだ」におけるダンスの基調を形作っていった。くりかえし踊りのなかに出現してくるダンサー固有の身ぶりは、即興演奏において音楽的な語りを構成するイディオムに相当するものと考えられるだろう。これを身ぶりの即興語法といってもいいし、その場で即席になされる振付、すなわち、即興演奏におけるインスタント・コンポージングのようなものとみなすことも可能である。自由であることを観念的にとらえるのではなく、実際の身体のありようと密接に関連づけて理解するために、過去に即興演奏のなかで語られてきたこの種の知見は有効だと思う。

 菊地の場合、つま先立ちをしての歩行、両肩をあげ背中を丸めるしぐさ、肩を床につけるようにして尻を突きあげ、身体の左側から顔をのぞかせる身ぶりといった特徴的な動作が、公演のたびごとにあらわれてくる。菊地の踊りをまだ二度しか見ていない私でも気づくようなそうした身ぶりのなかに、たとえば、コントラバス奏者の足もとに頭を投げ出し、片足を高くあげる「尾長鳥」と呼ばれる型のダンス(あるいは型に変形を加えたもの)もはさみこまれてくる。視覚に強く訴えかけるこうした型のダンスは、即興演奏には登場してこない。高くあげられた菊地の足は、さらに型を崩すまでに高くあがっていき、沸騰点を経過すると、腰の回転とともにそのまま床に投げ出され、股割りの姿勢に移行していく。直立するベーシストの身体と床のうえにまっすぐ広がった足が、あざやかな対照性を描き出す。身体の風景が次々に移り変わっていくなかでも、この場面はとりわけダイナミックなものだった。またセッションの中間地点では、ステージの対角線に沿って、うつ伏せにした身体を上手の観客席側にまっすぐにのばし、全身の力を抜いて動きをリセットする場面があった。この姿勢から下半身だけを使い、まるで屍体を引きずるようにして上半身を引きこんでいったのも、印象的な場面として記憶に残っている。

 菊地びよのダンスを初めて見た畳半畳の踊りで、私は「子狐」を連想させられたのだが、たとえ彼女が実際に子狐を模倣していたわけではないにしても、やはりそれがどこか動物的な質感をたたえたものであることが、本公演からも感じられた。一般的にいって、くりかえし出現する動きや身ぶりには、即興語法という語りのテクニックによって理解できる側面と、身体の奥深くにわだかまる、容易に言語化を許さない根源的なものに触れている側面があるように思う。前者を目に見える身体のふるまい、後者を目に見えない身体のふるまいということもできるだろう。「おどるからだ」での菊地のダンスは、身体の深みに向かうより、共演者の池上が彼女に展開の半分をまかせてしまえるような即興演奏の地平を、どこまでも滑走していくものとして踊られたように思う。もちろんそこに特異な身体の深みがたちあらわれていなかったわけではない。音楽的、時間的な流れのいたるところに亀裂は入っていたのだが、おそらく菊地は、共演者や観客との間に、しかるべき関係性を構築することを優先したのではないかと思われる。音楽の時間を凍らせてしまうような身体には、スポットがあたっていなかった。音楽と身体がどのような場所でかかわるのかは、つねに空欄のままである。公演のひとつひとつが謎解きそのものであり、音楽と身体のありようは、そのような謎解きの過程で少しずつ開かれ、明らかになってくるのだろう。





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