2013年10月12日土曜日

新井陽子7days3 with 亞弥@白楽Bitches Brew



新井陽子 piano7days
第三夜
Guest: 亞弥
日時: 2013年10月11日(金)
会場: 横浜/白楽「Bitches Brew」
(横浜市神奈川区西神奈川3-152-1 プリーメニシャン・オータ101)
開演: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(1飲物付)
出演: 新井陽子(piano) 亞弥(dance)
予約・問合せ: TEL.090-8343-5621(Bitches Brew)



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 即興することの本義に戻るならば、即興ダンスをジャンルとして語ることは適当でないだろうが、即興する身体のありようをもって、たくさんの演奏家と積極的なセッションを展開してきた(またいまも展開している)ダンサーのひとりに舞踏の亞弥がいる。年に一度、あるいは数年に一度おこなわれる自主公演にむけて、すべての準備を整えていくようなダンサーからしてみれば、月に数度という公演数は、ほとんど異常な頻度であり、そのダンサーの内面の特別な事情を想像させるもののようである。たとえば、読書における濫読のようなもの、誰にでも経験のある、ダンス衝動に突き動かされるはしかのような時期という解釈もそのひとつだろう。かたや、即興演奏が示した多くのことのひとつに、生活のなかから立ちあげられる音楽の存在があった。そこで感じとられる演奏の(身体の)ミクロな変化は、日々の生活のようにして移り変わっていく、たくさんの演奏を仔細に観察することによってしか意識にとまらない。ダンスにおきかえれば、年に一度の公演では、発見された身ぶりのほとんどすべてを捨てざるをえないような身体の多様性、原初的な身体のありさまに接近するものといえるだろうか。非日常的なリサイタルよりも、日常的な練習/稽古に限りなく近いこのありようは、練習/稽古そのものを、身体的な実践の過程と定義しなおすものだった。

 この10月、ピアニストの新井陽子が、ジャズのフォトジャーナリストとして知られる杉田誠一の店「ビッチェズ・ブリュー」を会場に、一週間に一度、二度というとびとびの日程で、「新井陽子月間」とでもいうべき7デイズ公演を開催中である。その第三夜のゲストに、ここしばらく共演する機会のなかったダンスの亞弥が迎えられた。ステージの狭いこの会場では、アップライトピアノが常設されている他の音楽喫茶やライヴハウス同様、壁に寄せられた楽器に向かうピアニストは、他の共演者と背中合わせになって演奏しなくてはならない。聴くことが優先される音楽であれば問題はないが、これが身体表現のダンスとなると、黒いピアノの板に反射する背後の景色をうかがったり、演奏しながら身体をよじったり、立ちあがって内部奏法をするときを利用したりと、気配を察知するためのあれこれが試みられる。背後のダンス・パフォーマンスを見ることができないという条件が、デュオの間に必然的な距離感を生む。この晩、第二部の冒頭で、ピアノを背中にまわし、椅子に腰かけるダンサーに対面して座った新井は、足を片方ずつあげるゲーム的なパフォーマンスからスタート、その後、ピアノを背中向きのまま弾くアクロバティックな奏法をみせてから、本格的な演奏にはいった。ダンスとの共演になにがしかの方向性を与えるものではなかったにせよ、これらの挿話的なパフォーマンスが、ピアニストの実験心(悪戯心?)の発露であったことはたしかだろう。

 前後半に40分弱のパフォーマンスをふたつ配したライヴの第一部を、薄く白塗りした亞弥は、キャミソールと短パンのうえに、背中の大きく開いた和服柄の薄いガウンを羽織り、このガウンを脱ぐという行為をポイントにして静かな舞踏を展開した。裸足の足指には赤いペディキュアが塗られていた。また第二部では、黒のタンクトップに短パン、足にはエナメルが剥がれ落ちた銀色のバレエシューズといういでたちで、第一部とうってかわった道具立てのない裸の空間を自身に課しながら、足を使う動きのあるダンスを展開した。第一部が静的な展開になったのは、銀色の厚紙が持ちこまれたことによる。すなわち、座布団ほどの大きさの銀の厚紙を、四隅を丸く切ってステージの中央に置き、その内外を出入りしてダンスするための道具立てとしたのである。会場をそのまま使うのではなく、オリジナルに空間をカスタマイズするこのやり方は、木村由が自前の投光器を持ちこんでおこなう空間演出に相当するものだろう。ダンスの視点からいうなら、第一部では、ピアノ演奏とダンスが二重焦点になるようなパフォーマンスが、また第二部では、ピアノ演奏する新井の左手のスペースに立ち、演奏者から自分の姿が見えるように演技するなど、より積極的にピアノ演奏との対話を試みるダンスがおこなわれたように思う。

 いつからということを明確にいえないのだが、おそらくはごく最近、亞弥のダンスは、顔のありようにひとつのポイントを置くようになったのではないかと思われる。もうすこし正確にいうなら、瞼を見開きながらどこも見ていない眼、そうであるがゆえに、あまねくすべてを見ているように感じられる視線をまとうようになったのではないかと思われる。人間的であることをいったん停止するような、非日常性へと逸脱するこの視線を、彼女は新井陽子とのセッションでも見せていた。それをさまざまに用いられる舞踏的な手法のひとつといってしまえばそれまでのことだが、私の知る範囲で、亞弥のこの眼は、上杉満代のそれを容易に連想させるものだった。上杉の視線は、観客を凝視しながらなにも見ていない無意味さの強度に貫かれたもので、私たちを見てはならないものを見てしまったという気持ちにさせる強烈なものだが、即興ダンスとは別のところで、亞弥もまた、そのようなものに自身を開いていこうとしているのかもしれない。もうひとつ、ダンサー本人も見ることのできない、汗をかく肩や背中の美しさも印象的だった。これはさまざまに技法的なるものを越えて、あるいはエロティシズムのようなテーマを越えて、さらには汗っかきという体質を越えて、見るものに直接、そうでしかありえない固有の身体を運ぶものだった。それが会場の弱い照明に濡れて美しく輝いていたのは、そこに触れるべき重要なことが示されていたからだろう。




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