2014年12月30日火曜日

【書評】『ダンスワーク68号』(2014年冬号)


『ダンスワーク68号』
特集: 上杉満代──赫の gradation を辿る
Dance Raisonné 1
(2014年冬号)

【目次】
神山貞次郎写真館:上杉満代 イブの庭園──鳥
小田幸子:骨のダンス 上杉満代「ポートレートM──反デフォルメ」から
宮田徹也:上杉満代論 大野一雄の虜になった少女
宮田徹也:[報告]素描の舞踏(写真:小野塚 誠)
参考文献、自筆文献、定期刊行物、年譜
上杉満代のワークショップのお知らせとお誘い

[特別寄稿]正朔:「闇に生息する間の、顎の関節や親しみの皮膚触覚」

[beoff通信 No.1]妻木律子:「たとえどんなに小さくとも、
うまく機能させていけば≪場≫は様々な活動の拠点になる」
藤田佐知子:ダルクローズ・リトミック国際大会2014
平多浩子:舞踊とともに通った道
[報告]三上久美子:コミュニケーション・ダンスのワークショップに参加して

[公演評]
ビントレーの軌跡 新国立劇場バレエ団『パゴダの王子』
日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」
Dance New Air2014『赤い靴』
NBAバレエ団『DRACULA』
(以上、児玉初穂)
結城一糸の活動──続・組織者の動向
人間は「変容」する──江原朋子ダンス公演「変身」
(以上、宮田徹也)
大人たちの快進撃 コンドルズ『GIGANT~ギガント~』
記号的「性」の過剰 伊藤郁女『ASOBI』
開かれた体内の宇宙 ナセラ・ベラザ『La Traversée(渡洋)』
(以上、入江淳子)
シディ・ラルビ・シェルカウイ&ダミアン・ジャレ『バベル BABEL (words)』
(以上、竹重伸一)
響く肉の音 玉内集子『3つの穴』
混沌と崩壊の物語をダンスで バベル/BABEL [WORDS]
ラムペトラの生息に由来する話
川本裕子『イワヲカム~Inheriting Landing~』
揺さぶられた 談ス dan-su
現在を映す 山下残『そこに書いてある』
(以上、長谷川六)

[書評]護阿房×萩谷京子
『舞踊家と3.11~落書きのように残しておきたい話~』

[訃報]カルロッタ池田 逝く
麿 赤兒:カルロッタ池田へ
山中美恵子:カルロッタ池田へのオマージュ
室伏 鴻:カルロッタ池田、合掌。


[注文:d_work@yf6.so-net.ne.jp]



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 表紙見返しページに、2015年度の季刊『ダンスワーク』特集記事が予告されている。なんでも習えばいいというものではない。ダンサーが身体を鍛錬する理論を探る「ダンサーの身体調整 バイオメカニクスの視点から」、<フランス現代ダンスの父>と呼ばれた男「矢野英征 とフランス現代ダンス」、深谷正子を見たことのない人はいちもくさんで公演会場に、見たことのある人もイザ公演に「深谷正子 痛快と深淵の彼方」、世界を経巡る流浪の身体「室伏鴻 衰退しない身体」の4冊。矢野英征、深谷正子、室伏鴻と、来年度は個別の作家特集に力を入れるようであるが、本号の上杉満代特集は、そのスタート地点に立つものといえるだろう。舞踏といえば大野一雄、土方巽、笠井叡の特集ばかりという傾向のある現状で、一歩突っこんだ作家論が、より多くのダンサーに対しておこなわれることは望ましい。本号の上杉満代特集は、ほぼ紹介作業に徹したものだが、参考文献、自筆文献、定期刊行物、年譜を網羅していることの利便性の他に、500頁にわたる浩瀚な写真集が刊行されたばかりの故・神山貞次郎による1980年代の上杉満代の写真と、今年「素描の舞踏」シリーズのソロ公演『追憶のプリズム』を撮影した小野塚誠の写真が並び立っていることなども見物のひとつといえるだろう。

 六本木ストライプハウス3Fギャラリーで開催された、上杉満代ソロ舞踏『追憶のプリズム』(観劇日:826日)では、白塗りをした裸の上半身に紺色のスーツを着用、ベージュ色の短パンに茶色のハイヒールといういでたちの上杉が、いなたいコンチネンタル・タンゴの響きに乗って、軽く身体をゆすりながら登場した。オットー・ディックスの絵のなかから抜け出してきたような強烈な役者顔は、戦前ヨーロッパの退廃した雰囲気で、たちまちのうちに会場を包んだ。ダンサーの背後に黒い穴をあける窓を背負いながら、手鏡を使った挑発的なダンスが展開する。鏡面に観客席を映しこむようにして、反射面をこちらに向け、ダンサーの胸から腰へと静かに移動していく手鏡は、その背後にある人形のように空虚な身体を守るため、女の胸と腰に放たれる欲望の視線を、視線の主に向かって折り返す呪物そのものだった。しかし、鏡に映る観客の視線は、会場の暗さから、実際にはなにも映し出していないため、どこまでも幻想でしかない。入れ子状になった虚構空間が観るものを襲う。破調は、後半に登場した底のこげた煮物用の鍋とともにやってきた。生活感覚を引きずる台所用品は、ダンサーの幻想世界にまぎれこんだ異物に他ならない。日常的な時間のなかにあるそのものは、水を注ぎこんだりするパフォーマンスの経過とともに、上杉が前半でもたらした幻想性を次第に晴らしていく。観客の視線は、いたるところで罠をかけられ、宙づりにされる。あなたが観たものはいったいなんなの?


 【関連記事|季刊ダンスワーク】
  「【書評】『ダンスワーク67号』(2014年秋号)」(2014-10-28)

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2014年12月20日土曜日

ピアニッシモのテロリズム


多田正美 曽我 傑
ピアニッシモのテロリズム
武内靖彦 大森政秀 上杉満代
日時: 2014年12月17日(水)&19日(金)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000、学生以下: 無料
(予約、当日券共に同一料金ですが予約の方には座席確保致します)
演奏: 多田正美、曽我 傑

【ゲスト舞踏家】
第一夜:17日(水)「沈黙と真珠」with 武内靖彦
第二夜:18日(木)「危険な夜」with 大森政秀
第三夜:19日(金)「涙のパヴァーヌ」with 上杉満代



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 音楽家の即興演奏であれば、彼/彼女の音楽における即興の意味はさまざまでも、演奏の瞬間瞬間に、楽器から生み出される響きを時間のなかに自由に配分して、自己との対話や、共演者との対話を構成することと形式的に要約できるだろう。しかし、楽器や音のかわりに身体とかかわるダンサーの場合、即興とはなにをすることを意味するのだろう。さらに舞踏家となれば、先入観も手伝って、そこにミステリアスな要素がつけ加わるような気がする。伝統的には、大野一雄のダンスの自由なあり方を「即興」としてとらえ、土方巽の「振付」と対置してそのことが語られてきているようであるが、この二項対立はいまも踏襲されているのだろうか。踊りが生まれてくる場所を、第一義的にみずからの(身体の)内側に想定するという意味で、呼び方が「魂」であれ「イメージ」であれ、それは解放されたもの、自由なものでなくてはならず、音楽の場合と同様、それを「即興」的なあらわれと呼んでもさしつかえなさそうではあるが、こうした原理的なことを述べても、なにかをいったことにはならない。やはり舞踏のいまを生きるダンサーが、どのような即興をしているかに触れることなくしては、なにひとつはじまらないように思われる。多田正美と曽我傑による解体/再構築的な演奏と、武内靖彦、大森政秀、上杉満代という3人の舞踏家が日替わりで共演する3デイズ公演『ピアニッシモのテロリズム』は、このことを体験する絶好のチャンスだった。

 即興の過程から真新しい身体を発見していこうとするインプロヴァイザーを別にすると、一般的には、ダンスや舞踏における即興は、その場でなされるインスタントな振付といえるのではないかというのが、現時点での作業仮説である。これは、いうまでもなく、ジャズファンにおなじみの言葉、「インスタント・コンポジション Instant Composition」をダンス用に言い換えたものだ。初日公演「沈黙と真珠」では武内靖彦がゲストとなった。会場は日ごとにレイアウトが変わり、この日は、ステージの上手側にグランドピアノが寄せられ、その前の空間が、シンバルや銅鑼、民族楽器のダルシマー、ガットギター、鍵盤シンセ、さらには木製の箱に一本の線を張った創作楽器など、多種類の楽器を統一感なく寄せ集めた演奏スペースとなっていた。かたや、観客席から奥の壁前へと広がるいびつな四角形がダンススペースにあてられていたが、この空間レイアウトは、ダンスと演奏が距離を置いてそれぞれの領域を動いていくであろうことを予兆していた。上手下手の壁には、多田が撮影した写真をアブストラクトに構成した空色の掛け軸がさがっている。カーテンを開け放った楽屋のなかで、ものを強打する場面からスタートした武内を追って、通奏低音のような響きを出す曽我、しばらくして舞踏家が楽屋口に立つと、多田が細い枯れ枝を空中でヒュンヒュンいわせはじめるというふうにパフォーマンスはスタートした。

 デュオのふたりが多彩なサウンドを交換しながら、演奏をにぎやかに散らし書きしていく一方、武内靖彦は、ステージを横切って楽屋口から座って演奏する多田の前まで直進してくると、さらに会場を反時計回りに壁際までさがり、壁前をゆっくりと歩いて下手の掛け軸の前までと、ときおり立ち止まって見栄を切るようなポーズをとりながら、一本のラインのうえを静かに歩いていき、デュオの演奏とあざやかな対照性を描き出す舞踏をおこなった。「沈黙と真珠」「危険な夜」「涙のパヴァーヌ」のサブタイトルは、パフォーマンスのどこかではさみこまれるピアノとギターの合奏による楽曲(ビゼー『真珠採り』より「耳に残るは君の歌声」、ジョン・ケージ『危険な夜』、ダウランド『涙のパヴァーヌ(流れよ、わが涙)』)にちなんだもので、初日の『真珠採り』は武内のテーマ曲ということだった。ここでの即興は、響きの多層性を際立たせる演奏の外に出て、独自の領域を囲いこむ単線の動きとしてあらわれたように思う。身体の強度は、演奏が侵入不可能となるような結界を張るため、辻々に記される犬の小便のようなものといえるだろうか。

 第二夜「危険な夜」の空間レイアウトは、上手のコーナーに置かれたグランドピアノの両脇を雑多な楽器群が埋め、これらの楽器群に相対して斜めに観客席を設営するというものだった。間に広がる対角線の細長い空間が、この日のダンススペースとなる。正面の壁には、掛け軸のような写真がさらに4枚吊るされ、ステージの下手には、天井から床へと一本のロープがたれさがり、紫のライトに照らし出されていた。ロープが実際に使われることはなかったが、天国からさがる蜘蛛の糸のように、印象的なアクセントを打って空間を構造化していた。ゲストの舞踏家はなかなか登場せず、最初の30分は音楽演奏のみだった。そのかわり、ダンススペースまでくり出した多田正美が、たくさんの竹筒を紐で一列につないだ創作音具を、ものすごい音をさせてふりまわしたり、身体に巻きつけて床を転げ回る激しいアクションがあった。そのあとで振りまわした細い枯れ枝は、床にあたってはじけ、観客席にいた女性の頬を打った。変化は大きかったが、全体的には、初日より演奏が整理された印象で、音はずっと少なめだった。異なるサウンドの交換から、似たような響きを使ってのアンサンブルへというのが、デュオ演奏の大きな変化だったように思う。

 演奏が30分を経過したあたり、小さい音が連続する凪の状態のなかに、楽屋口ではなく事務所側の鉄扉を開けて、黒いワンピースの衣裳に身を包んだ舞踏家が静かに侵入してきた。背中に紐を編んで止めるスリットが大きくあいているドレスは、女性ものの衣裳であるらしかったが、白塗りをした大森が着るとまるで牧師のように見えた。人差し指を立てる特徴的なしぐさにも女性を感じさせるが、あるいは男と女の境界線を撹乱する両性具有をイメージしているかもしれない。一本のラインを描き出した第一夜の舞踏は、饒舌な演奏との対照性を際立たせる静かなモノローグとしておこなわれたが、第二夜の舞踏は、トリオ・パフォーマンスであることを意識して、斜めにのびた空間を何度となく往復しながら、演奏の隙間をさがしては、そこに動きをはさみこんでいくような踊りをしたと思う。これには、第二夜の演奏が隙間だらけだったことが、踊りに大きな自由度を与えたことも影響しただろう。舞踏家は途中で一端引っこみ、櫛のように見える髪飾りを頭をつけて再登場したが、これもまた女性への変身を思わせた。ここでの即興は、白地の多い空間に、トリオの3人が自由に出入りするものとしておこなわれた。そもそも雑多な楽器構成からして空間的といえるのだが、ここでは音楽の時間がダンスに場所を譲った形となり、途中ではさみこまれたケージのプリペアド曲『危険な夜』も、本セッションの即興演奏とスムーズに連結するベストの選択となった。

 上杉満代を迎えた楽日の「涙のパヴァーヌ」は、即興演奏のパートにおいて、ダンスする身体に並走しながら、特別な意味を持つことのない即物的なサウンド、川の流れのような無心の時間の流れのなかに、濃密な意味をはらんだ身体を立てるため、共演者に対し、上杉が果敢な身体的アプローチをおこなう闘争的セッションとなった。3デイズの舞踏家は、それぞれ身体イメージによる独自の舞踏戦略を行使したと思うが、最終日は、音楽する身体と舞踏する身体が正面衝突しながら場を作りあげるところに、膨大なエネルギーが発生することになった。舞踏する身体が音楽する身体との違いを際立たせるのにイメージを使う(何者かに変化する)点は三夜ともよく似ているが、ここで興味深いのは、第二夜の公演で女性に変化した大森に対し、上杉は、黒いヴェールのしたに山羊(羊にも見えた)の面をつけて、動物に変化したことである。彼女が動物を選択したことには、おそらく特別な意味がある。そこにいく前に、上杉の「死闘」について少し触れておきたい。この晩のセッションは、中央のちゃぶ台のうえに置かれたダルシマーの前で、周囲を見ずに演奏に専心していた多田に対し、黒いワンピースのドレスに黒いヴェールという喪服めいた衣裳をまとった上杉が、何度もアプローチするところからスタートした。

 アプローチといっても、実際のコンタクトがあったわけではない。踊りと無関係の関係を保つことで、自生してくるサウンドを「伴奏」にするまいとする多田の演奏を、濃厚なイメージをもつ身体を(ときには誘惑的に)演奏者の視線にさらすことで関係づけてしまうこと、といったらいいだろうか。身体を見るだけで演奏が変わってしまうことを、上杉はよく承知しているようだった。第三夜において、楽器と楽器の間にあけられた動線は、そうするための絶好の環境を提供していた。これは舞踏と音楽の間の主導権争いのようなもので、第三夜のパフォーマンスがとりわけ濃厚なものになったひとつの理由であり、あえて「闘争」をいうゆえんである。ピアノの脇に用意された椅子に淑女然として腰をおろし、黒いドレスの裾をからげ、片方だけ白い脚をむき出しにすること。竹の音具のうえに寝そべり、ほとんど無意識に音具をまさぐりながら、演奏家の顔を下からのぞきこむこと。こうした上杉の動作が、エロチシズムにコミットするものであることはたしかだが、それが男女の対のなかに閉じられた誘惑のイメージにとどまらず、彼女がヴェールのしたにつけた山羊(あるいは羊)の面のように、人間を出外れた(忌まわしい)卑猥さをかきたてる動物的なもの、もっと下の、意識の底のほうからやってくるものであることが、イメージの領略しがたい濃密さ、異様さを下支えするものとしてあったように思う。これを身体のシュルレアリスムと呼ぶこともできるだろう。

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2014年12月13日土曜日

深谷正子: 垂直思考 Ba Ba Bi@八丁堀 七針


ダンスの犬 ALL IS FULL
深谷正子ダンスソロ
垂直思考 Ba Ba Bi
日時: 2014年12月10日(水)~12月12日(金)
会場: 東京/八丁堀「七針」
(東京都中央区新川2-7-1 オリエンタルビル地階)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000
予約・問合せ: TEL.070-5082-7581(七針)

作・出演: 深谷正子
照明: 玉内公一、音: KO.DO.NA
衣裳: 田口敏子、制作: ダンスの犬 ALL IS FULL
ビデオ記録: 坂田洋一



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 コレオグラファー/パフォーマーの深谷正子が主宰するカンパニー「ダンスの犬 ALL IS FULL」は、2014年度も精力的に公演を打ってきたが、八丁堀の「七針」でおこなわれた本年度最後の『垂直思考 Ba Ba Bi』は、深谷自身による3デイズ・ダンスソロ公演となった。タイトルにある「Ba Ba Bi」は「幼児が英語を習うときの一節」とのことで、時間をさかのぼっていく点で、若木が伸びていくイメージの「垂直思考」と対極をなす言葉になっている。おそらく未知の言語を初めて発語するような身体を獲得することが含意されたものだろう。あるいは、パフォーマンスのなかで手垢のついた身体を脱ぎ捨てるため、「垂直思考」するという解釈を重ねることができるかもしれない。観客に床を見せることが必要ということで、いつもスタンドや台座のうえに置かれている七針のスピーカーは、上手のアップライト・ピアノの前に床置きされ、ソファやスツールなどの椅子類はすべて撤去されて、オリジナルに二段組の雛壇が造設された。新たなダンススペースの誕生である。さらに、動きのクリシェを脱出するローテク装置として、皮膚感覚を刺激する13個ほどの完熟トマトが用いられた。うがった見方をするなら、これらのトマトの落下こそが、身体による「垂直思考」だったかもしれない。

 3デイズ公演は、どの日も同じ条件のもとにおこなわれたが、パフォーマンスの内容によって、大きく最初の2日間と楽日に二分される結果となった。暗転板つき。暗闇のなかに出現した深谷は、ほのかに床を照らす光の外側に立ち、スポーティなシャツと短パンの胸、腹、背中などにたくさんの丸いものを詰めこんで、身体の線をデコボコにしていた。街頭の雑踏、子供たちの声といった環境音からスタートした KO.DO.NA の音響(録音されたもの)が一段落したところで、照明が深谷の姿をゆっくりと浮きあがらせると、彼女はかすかに上半身を揺らしはじめた。駄々っ子のように身体を揺する謎のしぐさは、真赤なトマトが、大きな音をたてながら、ひとつ、ふたつと床に落ちはじめたところで、シャツの下にはさまった野菜を身体の動きで振り落とそうとしているのだとわかる。トマトが落ちきると、ふたたび床から拾いあげてシャツのなかに入れ、立ち位置を変えて同じことを反復する。トマトを落とす床の位置は決められていないようだった。身体の揺らし方は次第に激しいものになってゆくが、ときおり動きが止まり、トマトからふっと意識がそれる瞬間に、彫刻を思わせる深谷ならではのポーズが出現してくる。

 私たちの日常にあたりまえのようにある野菜を異物化するところに生まれる非日常の動き。異常ともいえるこのトマト遊戯は、ダンスする、あるいはパフォーマンスする身体の文脈をはずれた謎の動きとして、観客の意識のエアポケットに宙づりになったまま、いつまでも落ちつきどころを見いだすことができず、ひたすら床に落ちていくだけの反復のなかで、時間を経過させていく。トマト遊戯とサンドイッチになった存在感のある深谷の彫刻ポーズは、動きに句読点を打つようで、容易に行為の意味をみいだすことのできないダンスを見ることで不安定な状態に置かれた観客の視線を、止まり木に宿らせる働きをした。立ったまま足にはさんだトマトをクチャクチャと潰し、ナメクジが這ったような跡を残しながら床を引きずっていくこと。あるいは、床に座って身体を揺すり、パンツの中にとどまって落下してこないトマトを潰すこと。触覚のバリエーションと呼べるこれらの場面は、ひたすら身体を原始的に遡行していく「Ba Ba Bi」のパフォーマンスに、連鎖する感覚による擬似的な進展を与えていた。物語もなくコンセプトもない。ないというより、持とうとしない。あるのは密かに決められたルールと、むき出しにされた身体と物のかかわりだけ。こうした意識の宙づり状態のなかを、ときおり美しい瞬間が通り過ぎていく。

 初日であれば、夕陽のような暖色の光のなかで、深谷が床に落ちたトマトに、低く、低く身をかがめたとき、中日であれば、無音のなか、深谷が潰れたトマトを足の間にはさみ、股をぎゅっと締めた姿勢で下手から上手へ足を引きずっていく途中、いまや生演奏では聴くことが少なくなった、とても古いジャズの感覚を漂わせる KO.DO.NA のブルージーなトランペットが鳴り響いたとき、そして楽日であれば、散乱したトマトの間に身を横たえた深谷が、出産するような姿勢で天を仰いだとき。異質な感覚が、おたがいに無関心のまま、つかのま交差してゆくこれらの美しい瞬間は、物語や風景があらかじめ設定されていない場所で、たまたまの出会いによって構成される「寓景」と呼べるような風景を描き出した。いうまでもなく、深谷が獲得しようとした「Ba Ba Bi」の身体そこが、これらの瞬間を永遠に記憶にとどめる絵筆となったことは間違いない。異質な感覚ということでは、中日の後半に出現した、激しく首を振る動作や荒い息づかいも印象的だった。やっぱり気持ち悪いのかな?  トマトの汁が冷たいのかな?  という想像をかきたてる動きは、潰れたトマトとダンサーの皮膚の間で生じている(だろう)感覚に、観客を巻きこむものだった。

 事件は楽日に勃発した。初日のパフォーマンスでは、潰れたトマトの汁が、股間から太ももを濡らして滴り落ちるという生々しい場面もあったのだが、楽日に用意されたトマトは、いまだ若く、完熟していなかったため、トマトの汁が肌を濡らすという、観るものの感覚を触発する要素がいっきに後退してしまったのである。残るはトマトの垂直思考=落下だけ。その結果、シャツの前後にたくさんのトマトを入れたダンサーが少し動くと、なにもしないうちから次々にトマトが床に落下し、それを追って拾い歩くというコミカルな場面が出現することになった。この突発事故は、身体を揺すってトマトを落とす即物的なパフォーマンスが、一般的なダンスの内容をなす動きのかわりにしていた「触覚の喚起」を不可能にし、楽日の公演を前2日とまったく別のものにしたと思う。いろいろと変化したなかで最大のものは、シャツの下にトマトを入れずに身体を揺さぶるという行為の出現だろう。というのも、これは上半身を揺する動作とトマトの落下を結びつけることで、動きの自己目的化=ダンス化を防ぐという『垂直思考 Ba Ba Bi』の基本ルールを、両者を引き離すことで(ダンサーみずから)破ったことになるからである。これはちょっとした出来事の変化が、踊りの内容はもちろん、パフォーマンスのルールすら変えてしまうという即興的な事態の到来といえるだろう。

 3デイズ公演の楽日に、トマトの固さによってもたらされた予想外の事態は、トマトを捨てたパフォーマンスの後半で、集中的に、彫刻を思わせる深谷の身体ポーズのバラエティと型に対するセンスのよさを引き出した。玉内公一の即興照明に助けられながら、その場の機転をきかせて、直前まで考えてもいなかった動きをくり出し、次々に場面を切り開いていったスリリングなパフォーマンスは、同時に、本公演の全体像を別角度から照らし出すことで、『垂直思考 Ba Ba Bi』の意図を立体的に理解させることになった。楽日のダンスで見えてきたのは、動きのなかで交互にあらわれる、トマトを使った即物的な動きと美的な(あるいは記号的な)身体ポーズというふたつの要素は、実のところ、明快に切り分けられるものではなく、ダンサーの意図をはずれるトマトの動き(落下)によって身体ポーズも大きく影響されており、動きの細部においてつねに変化を余儀なくされているということであった。楽日の突発事故は、形式化したダンスから身体を取り戻すという『垂直思考 Ba Ba Bi』の作業が、ひるがえって、いまここに出現してくる身体が、どのようなダンスを生み出すことになるのかということと表裏一体であることを、端なくも照らし出したのである。






【関連記事|深谷正子】
縫部縫助@自然は実に浅く埋葬する2」(2014-05-11)
ダンスの犬 ALL IS FULL 公演: 指先から滴り落ちる混沌」(2014-10-16)

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2014年12月10日水曜日

佐東利穂子ソロ『ハリー』(Update Dance No.15)



Saburo Teshigawara / KARAS|Update Dance No.15
佐東利穂子ハリー
新作オペラ『ソラリス』へ向けて
日時: 2014年12月8日(月)~15日(月)
会場: 東京/荻窪「カラス・アパラタス B2ホール」
(東京都杉並区荻窪5-11-15)
開演: 3:00p.m.(14日)、開演: 5:00p.m.(9日・11日)
開演: 8:00p.m.(8日、10日、12日、13日、15日)
(受付は30分前、客席開場は開演時間の10分前)
料金/予約: ¥2,000、当日: ¥2,200、学生: ¥1,500(要学生証)
出演: 佐東利穂子(dance)、勅使川原三郎 他
予約・問合せ: TEL.03-6276-9136(カラス・アパラタス)


*観劇日: 12月9日(火)



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 荻窪西口のすずらん通りを行きつくしたあたりに、勅使川原三郎のアトリエ「カラス・アパラタス」がある。アトリエでは、館内のホールを利用して、カンパニーのメンバーが出演する少人数の公演を日常的に打っている。20138月にスタートした<アップデイトダンス>シリーズは、ダンサーを身近に感じることのできるアトリエ公演の利点を生かして、ダンスや作品の質を落とすことなく、思い切った実験にも挑戦しながら、この芸術をローカルに根づかせる試みとなっている。12月開催の<アップデイトダンス>第15弾は、佐東利穂子によるソロ『ハリー』(振付:勅使川原三郎)だった。20153月に、パリのシャンゼリゼ劇場で公演予定のオペラ『ソラリス』に登場するヒロインハリーのダンスを、ワーク・イン・プログレスで抜き出し、オペラとは別に音楽や照明をつけて独立の作品としたもの。頻繁な照明のスイッチによる速いテンポ、水音や電子音のコラージュがかもしだすアブストラクトな雰囲気などは、お馴染みの勅使川原演出であるが、冒頭と末尾で、照明が切り替わるたび、ダンサーがドラスティックに立ち位置/姿勢を変える構成は、中間部分において、照明のスイッチに縛られないゆったりとしたダンスを展開して、このダンサーならではの質感を十分に感じ取らせるものになっていた。

 佐東のソロダンスは、4月の<アップデイトダンス>第6弾『パフューム°R』(20144月)から、同作品を両国シアターXで出張公演した『パフューム』(201411)へという流れのなかでおこなわれている。『ハリー』に先行した『パフューム』のダンスは、基本的に、舞台の一点から他点に向かう直線的な歩行、あるいは前進と後退という往還的な歩行を、照明のスイッチによる速い場面転換と、白、赤、青などの色彩を使ったアブストラクトなライティングで見せるステージだった。『パフューム』でも出現した痙攣の身ぶりは、同作品において、動きの優雅さを相対化するものだったと思う。とりわけ印象的だった演出は、床に置かれた細長い反射板に光をあて、ダンサーを下から照明するというアイディアで、これは光によって世界を反転させ、観客の眼というもうひとつの身体性を露出させる効果を与えていた。これらのことは、平板になりがちな美しさに、異質さの楔を打ちこむ方法の数々だったのだろう。変調した水音がくりかえし現われる作品のアブストラクトな雰囲気は、光に導かれて下手から上手へダンサーがゆっくりと歩く冒頭の場面が反復されたあと、様子を一変させて、モダンダンスの世界で神話的な意味を与えられている「牧神の午後への前奏曲」を踊るという構成をとっていた。

 『ハリー』のなかに『パフューム』の冒頭場面が引用されたところをみると、オペラ『ソラリス』の一部分である本作もまた、同時並行的に練られてきた踊りの一端といえるだろう。ソロダンスの継続性のなかにあって、『ハリー』の特徴をなすのは、想念が現実化するソラリスの世界で、コピーとして誕生した女性が、みずからのアイデンティティをめぐって苦悩するというテーマの明快さからくるダンスのわかりやすさにある。勅使川原が愛してやまないというタルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(1972年)をみると、佐東利穂子の踊りを輝かせている悲劇的な色彩や、床に横になる場面に登場する痙攣的なしぐさ、わずかに人形ぶりの入った首のまわしかたなどに、映画のなかのハリーの動きが採取されているのがわかる。とくに自殺した主人公の妻の運命までもコピーしてしまい、液体酸素を飲んで自死を図った場面、死ぬことのできないソラリスのハリーが、全身を痙攣させて復活してくる様子は、舞踏的な身体としてまるまる採取されていた。60分公演の冒頭に置かれたこの場面は何度か反復され、最初は謎めいた身体として、ハリーの声をランダムにコラージュして出来事を理解させたあとでは、物語を生きる身体として見えてくるという、巧妙なしかけが施されていた。もちろんこれも、観客の視線に違う角度から光を投げかけ、見え方の変化を何重にもかさねていくという、勅使川原マジックの真骨頂といえるだろう。

 いうまでもなく、「パフューム°R」は「ダンサーR」を継承している。「佐東利穂子」という固有名の記号化である「R」は、おそらくここでの身体が内側から生きられるものではなく、外部からまなざされるものとして存在していること、あるいは、物質化され、人形化された身体によるダンスであることを暗示しているだろう。「R」が消えて新たに登場したのが「ハリー」といえるかもしれない。『ハリー』における不気味な痙攣は、『パフューム』における相対化を越え、自動人形のなめらかな動きを中断しにやってくるもの、切断しにやってくるものとしてある。観客にも、またダンサー自身にもよくわからない、人形であるはずの身体のどこかで起こっている不可解な出来事として。いってみれば、勅使川原三郎との共同作業から生み落とされた佐東利穂子のダンスは、最初からハリーというシュミラクルな身体を分かち持っていたのであり、ロボットが誤作動するような不気味な痙攣は、まるで愛のように理由のないもの、しかしそうであるがゆえに、美に内実を与えるようなものとして、人形の内側からやってくるのである。『惑星ソラリス』に登場するハリーの身体化は、佐東利穂子のダンスがもっている悲劇的な色彩の意味を、一気に視覚化した。

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2014年12月9日火曜日

新井陽子+おちょこ+木村 由「即興セッションやります!」@喫茶茶会記



新井陽子おちょこ木村 由
即興セッションやります!
日時: 2014年12月8日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 新井陽子(piano)、おちょこ(voice)、木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 いまでは、即興演奏や即興ダンスを、前衛芸術の概念と結びつけ、音や身体の表現のなかに、これまで誰も踏みこんだことのない領域が存在することを、たとえ結果的にでも明らかにする非日常の行為と呼ぶことが、簡単にはできなくなってしまった。というのも、日常性に密着した場所で、日々の反復的な演奏や踊りを瞬間ごとに輝かせ、生き生きとさせる変化をそう呼ぶこともあれば、仲間とのコミュニケーションを厚くしたり、深めていったりするためのツールをそう呼ぶことも、ごく一般的におこなわれているからである。即興的な表現のなかで、くりかえし使うことで擦り切れ、凡庸化し、クリシェ化してしまった語法を、さらなる逸脱によって刷新しようとする行為を、前者と後者、すなわち非日常性と日常性、どちらの背景によって受けとめるかで、既成のルールからの逸脱が持つ意味も大きく違ってきてしまう。もちろん、そのような意味づけをする以前の段階で、表現の生命的なる部分が誕生してくる現場に立ち、すべての音や動きが、書き割りを持たないダイレクトなもの、具体的なものとしてたちあらわれてくる出来事を経験することそのものに意味があり、同時に、大きな喜びがあるのだとしても。

 ピアニストの新井陽子、ヴォイス/シンガーのおちょこ、ダンサーの木村由、これまでデュオやトリオで個別に共演を重ねてきた3人が、女性ばかりのトリオとして初の即興セッションにのぞんだ。時系列でまとめておけば、ことのはじまりは、中野テルプシコールでおこなった共演『1の相点』(2013518日)を皮切りに、新井と木村が頻繁に共演を重ねるようになったことにある。次の段階では、3.11への思いを新たにするイヴェント『イマココニイルコト』(2014311日)での共演から、おちょこと木村のデュオがスタート(この流れの一環として、フロウ[加藤崇之+おちょこ]+木村由のトリオ演奏が実現した)、最後に、喫茶茶会記における新井の定期公演「焙煎bar ようこ」に、コントラバスの河崎純とおちょこが招かれる(2014618日)という順番で共演が実現してきた。この経緯のなかで、今回のトリオ演奏を特別なものにした要素がすでにあらわれている。その最大のものは、新井陽子と共演しはじめてすぐ、木村がひときわ高い位置からジャンプするような冒険的ダンスをはじめたことだろう。二人の即興デュオは、ごく初期の段階から、「傍若無人」「無礼講」と呼びたくなるような、徹底した逸脱が試されるセッションだったのである。

 逆説的な言い方になるが、新井と木村のデュオにおいて、その場の思いつきを次々と実行に移していく野蛮で原始的、あるいは「実験的」と呼べるような試みのダンスがつづけられているのは、演奏や動きの構成において、几帳面と思えるほどの正確さをもって身体が分節されているという、両者の似通った資質に負うところが大きいように思われる。気ままで奔放に見える実験的試みは、実際には、「傍若無人」にも「無礼講」にも陥ることなく、ときには感性豊かにさえ感じられるものとなるが、これはノイズの少ない彼らの身体性と無関係ではありえないだろう。むしろ積極的に「混乱」や「錯乱」を持ちこみ、身体やパフォーマンスに予期せぬ衝撃を与えることが、一度かぎりの共演に必然性をもたらすことにつながっているのが、デュオにおける即興(的な逸脱)の意味ではないかと思われる。かたや、新たに参加したヴォイスのおちょこは、演奏中に見せる表情のめまぐるしい変化にあらわれているように、この両者と対照的に、すぐれてノイズ的な身体の持ち主といえるだろう。彼女のなかでは、雑多なものが未整理の状態で渦巻いている。楽器の響きとは違い、声というサウンドは、それ自体が音と言葉の双方にまたがる曖昧かつ特殊なサウンドのありようをしている。そうした響きの宙づり状態が、このトリオ・パフォーマンスに特別なありようをもたらしたことは間違いない。

 下手に立ってヴォイスをくり出すおちょこ、上手でアップライトピアノを弾くだけでなく、小型のタンバリンや笛などの小物も使って演奏する新井と、ふたりがそれぞれに点描的なサウンドをつづっていくなか、すっかりおなじみとなったオレンジ色の面をかぶり、壁前の椅子に座った木村は、椅子のうえに立ちあがったり、のけぞったり、ステージ中央に転がっていたもう一脚の椅子を動かしながら踊ったりした。オレンジ面を脱いだセット後半では、金属食器を投げてけたたましい音をさせたり、ナイフを床板の隙間に突き立てて滑らせるなど、過去の共演で見せたダンスを思い出させるアクションで、このトリオにのイメージにそったダンスをくり出していった。場がどんなにとっちらかろうと、ひとたび新井がピアノに集中すれば、たちまち全体がひとつにまとまってくることが、木村の冒険に大きな自由を与えている。公演の第二部、ステージ中央に寄せられた椅子のうえに立った木村は、顔を白くまだら塗りにしていた。ヴォイスが電気的なエフェクトによって夢幻的になり、ピアニストが楽器を離れてアクションをはじめるなど、第一部以上にアクティヴな展開となり、木村の動きもまた、大きな音を立てながら床のうえで七転八倒したり、客で混雑していた隣室の喫茶室に通じる扉を開け放ったり(すぐに閉じられた)、二脚の椅子を足に履くように動かして床のうえを移動していくなど、ダンス的なものをどんどん出外れていった。最後の場面も、ピアノ演奏でまとめるようなことをせず、トリオの三人それぞれが、おたがいのパフォーマンスを注意深く聴きあい、見あいしながら、最終地点を見いだしていった。

 木村由がふたりの演奏家と組んで即興セッションすることは、もちろんこれまでにもあったのだが、デュオにおけるイーヴンな関係と違って、音楽2対ダンス1の割合では、先行する音楽に踊りがついていくという傾向になりがちだった。ヴォイスの本田ヨシ子やキーボードのイツロウと共演する<絶光OTEMOYAN>も、固定したメンバーによるトリオ演奏だが、そこで試みられているのは世界観のぶつかりあいであり、既成のルールを越えていこうとしたり、これまでのルールを組み換えてしまうような予想外の逸脱行為を呼びこむものとは違っている。即興がルールを変えていくだけでなく、さらには、即興そのものを成立させるルールをも変えてしまうような絶対的な出来事が起こるのは、そこにダンスする身体が関わっているからというしかないだろう。音楽的即興を共通の前提にしている演奏家たちの間では浮上してくることのない表現の底辺が、ここではむき出しになっている。そうした定石無法地帯で起こる出来事を、試みにトリオによるひとつの身体の創造と呼んでおきたい。ステージそのものがひとつの身体として立ちあがってくるような表現のあり方を、「新しいもの」として評価すべきかどうかは、ここで早計に判断できないにしても。




*写真提供:長久保涼子  







 【関連記事|新井陽子、おちょこ、木村 由】
  「新井陽子+木村 由: 1の相点@中野テルプシコール」(2013-05-19)
  「新井陽子+木村 由@白楽 Bitches Brew」(2013-08-25)
  「おちょこ+木村由@イマココニイルコト」(2014-03-12)

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2014年11月27日木曜日

田辺知美: 霜月金魚鉢


田辺知美 舞踏公演
霜月金魚鉢
日時: 2014年11月26日(水)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
出演: 田辺知美(舞踏)
照明: ソライロヤ 舞台美術・音響: 大野英寿
写真: 神山貞次郎、和田 翼
開場: 7:00p.m. 開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000



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 中野テルプシコールで開かれた舞踏ソロ公演『霜月金魚鉢』で、田辺知美は初の階段舞台に挑戦した。ロック史に残るツェッペリンの名曲「Stairway to Heaven(天国への階段)」からとったサブタイトルがつけられていること、一昨年の暮に急逝した写真家・神山貞次郎のモノクロ作品がフライヤーを飾っていることなどからわかるように、今回の「金魚鉢」は、神山の追悼公演としておこなわれた。テルプシコールの一角に設置された不揃いの階段は、段の数、幅、高さ、色などの細部にいたるまでを、ダンサー自身が美術の大野英寿に注文した舞台装置で、晩年の神山が仕事場にしていた家の内階段という記憶につながっている。追悼でもあれば生き残りでもあり、長い喪のはじまりでもあるようなものを、階段舞台での踊りに籠めたのである。会場の入口をはいって左手、いつも観客席の雛壇が設置される位置からみると「上手」にあたるコーナーを中心に、扇型に開いた幅広の雛壇と見えるものが八段ほど、裏口の鉄扉を隠すようにして設営されていて、最上段まで昇ると、長押の上まで手が届く高さになる。階段舞台と相対して斜めの方向に観客席が置かれ、満員の観客、上手席のなかに立つ大きなビデオカメラなどによって、会場全体が、追悼公演にふさわしいひとつの風景をなしていた。

 とはいうものの、田辺は神山を追悼するだけの踊りを踊ったわけではない。はじめての階段舞台が、いってみるなら「神山縛り」とでもいうようなありかたで踊りを制約する形をあえて選択することで、新たな動きに挑戦してもいたのである。一般的にいっても、ダンス公演における階段の存在は、自由な身体や動きを強く制限してくるために扱いがむずかしい。階段に集中すれば、その前後の踊りが薄くなってしまうし、斜めになった通路にしてしまえば、階段そのものが見えなくなってしまう。『霜月金魚鉢』の階段舞台は、踊りの環境として求められたものであり、ほとんど「世界」と呼んでもいいようなものだったことが、追悼へと通じる「神山縛り」を成立させ、本公演を成功に導いた。公演の冒頭、脚を上手側に投げ出して、雛壇の二段目に仰臥する田辺。そのまま長くじっとしているため、どのような舞踏が展開されるのか予想がつかない。踊り手のいうことをきかない手足、機能的でない動きの連続、そのうちにからだが移され、身ぶりが反復され、態勢が入れ替えられていく様子から、どうやら横になった姿勢のまま雛壇を登ろうとしているらしいことがわかってくる。こちらがそう思うからか、実際にも動きの内容に変化があるのか、手足は登るほどにしっかりとしてきて、少しずつ目的を持つようになるかのようだった。最後の瞬間、田辺は雛壇のうえに立ちあがった。今度は、そこからうしろ向きの姿勢で雛壇を降りはじめ、一番下の段まで降りて観客に手を伸ばしかけたところで暗転。終幕。

 「金魚鉢」シリーズでは、彼女自身の生活や近親者の病気、死などと密接に関わった踊りが踊られる。そこで田辺は、先述したように、追悼でもあれば生き残りでもあり、長い喪のはじまりでもあるようなものを、祈りとともに身体に引き受けてきたといえるだろう。私にそうした予備知識がなく、まっさらの状態で観た昨年の『水無月金魚鉢』は、フロアのセンターに横になり、上手下手の方角に、ゴロゴロと大儀そうに寝返りを打つだけにしか見えない動きであるとか、そのような身体が、座り、立つまでの劇団態変的なドラマ、そして立ちあがってからの拍子抜けするほどにあっさりとした動きなどからなった、とても日常性に近い場所で踊られるダンスのように見えた。ごくありきたりの日常的な動きと劇的なるものが背中あわせに存在しているような舞踏。日常的なもの、劇的なもののそれぞれに、感覚しきれない奥行きの深さがあり、強い意味を帯びることのない平板なあらわれのなかに、見えているのにつかまえることのできないほのかな影が揺らめくというような印象。逆に、そのもどかしさが、観客の視線を舞踏の終わりまで引っぱっていく。今回は、そのようにしてある身体が、階段のうえに置かれたわけである。

 『霜月金魚鉢』は、踊りを制限する階段舞台の採用だけでなく、さらに「手足を使わずに登る」という「金魚鉢」ならではの縛りをみずからに課して、満員の観客の前に、ダブルバインド状態にある身体をさらしてみせた。神山貞次郎の死を受け入れるという喪の作業のなかで、神山に舞踏を投げかけながらも、誰もが観ることのできる作品を通して、観客と経験を共有しようとしたのである。自由にならないことを楽しんでいるふうさえ見える舞踏は、最初の一段を登りきるのに長い時間がかかったものの、手足をわらわらさせているうちにコツを覚えるのか、段を進めるに従ってスピードは増し、やがて階段を登りきって舞台上段に立ちあがると、いつも「金魚鉢」で立ったあとの彼女がそうするように、うしろ向きになりながらさくさくと階段を降りてきた。舞台上段に立ちあがるところで暗転する演出もありえたと思うが、「金魚鉢」ではそうならない。立ちあがるまでの艱難辛苦と、立ちあがったあとの拍子抜けするほどあっさりとしたさまは、見るものを戸惑わせるほどだが、これはたぶん田辺の舞踏には帰り道があるということなのだと思う。日常性への帰還。観客のもとに帰ってくる舞踏家。平場の舞踏でそのことは目立たないが、階段舞台の採用は、彼女のなかで生きられている物語もはっきりと見せることになった。




写真提供: 小野塚誠   


 【関連記事|田辺知美】
 「田辺知美+陰猟腐厭@間島秀徳展」(2012-07-08)
 「田辺知美: 水無月金魚鉢」(2013-06-08)

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2014年10月28日火曜日

【書評】『ダンスワーク67号』(2014年秋号)


『ダンスワーク67号』
特集: 即興インプロヴィゼーション無形の力
(2014年秋号)

【目次】
[巻頭論文]福本まあや:コンタクト・インプロヴィゼーションという即興
長谷川六:まえがき|上杉満代:舞踏 上杉満代 即興
江原朋子:即興公演は学習|若松由起枝:インプロヴィゼーション感
能藤玲子:モダンダンスにおける「即興」の意義
日下四郎:ダダと即興、そしてダンス|竹田真理:即興はどこに在るのか
萩谷紀衣:即興improvisationに関する考察
長谷川六:即興と舞踊

[ダンス日記]山名たみえ:自分のダンスに出会うまで
三木和弘:未踏の海へ、母船出発~劇団 I'M 20年の報告

[公演評]ホワイトダイス+月読彦(企画+製作)
2014・春の先ガケ公演 dance experience “三点観測”
実験舞踏ムダイ『ウミダスウミダスウミ』、月読彦『シュレジンガーの猫』
ホワイトダイス『無比較と出差 II』@日暮里d-倉庫

深谷正子『自然は実に浅く埋葬する』
長谷川六『岩窟の聖母』『素数に向かう』
古関すま子『弥勒と刹那』@六本木ストライプハウス

江戸糸あやつり人形座+芥正彦『アルトー24時++再び』
東京芸術劇場シアターイースト
(以上、宮田徹也)

能籐玲子『間にて『蕨野行』より』妻木律子『二重の影』
菊地尚子『アトカタ』東京芸術劇場プレイハウス
小島章司の贈り物『desnudo』MUSICASA
『ダンス・アーカイヴ in Japan ─ 未来への扉 ─』新国立劇場
(以上、長谷川六)

[書評]宮田徹也:志賀信夫著『舞踏家は語る』青弓社
長谷川六:『丸山圭三郎著作集全5巻』岩波書店

人物漂流



[注文:d_work@yf6.so-net.ne.jp]



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 「自分がダンス作品を創るようになって、常に即興の存在を感じていた」という企画編集の長谷川六は、ダンスの身体技法や創作の手法としての即興ではなく、芸術にとって本質的な即興の位相を浮き彫りにすべく、『ダンスワーク67号』で特集を組んだ。今日において、意識的に即興ダンスと取り組んでいる現場のダンサーは数多く、本誌が彼ら/彼女らにまったく取材していないのは残念だが、この点に目をつぶれば、これまでダンスの領域で即興がどのように解釈されてきたかという歴史を知るうえで、ベーシックな紹介作業となる記事が集められている。コンタクト・インプロヴィゼーションの歴史をまとめた福本まあやの論考、コンテンポラリー・ダンスの即興について実例をあげて論じた竹田真理の「即興はどこにあるか」、そして長くジャーナリストとして活動してきた長谷川が、豊富な具体例をもとに論じた体験的即興論「即興と舞踊」など、読みごたえのあるテクストがならんだ。ダンサー自身が舞台制作の現場でつかみとった即興も、ダンサー自身の言葉で、身体の内側からそれぞれに語られていて興味深い。その一方で、ダンスが即興と出会う今日の現場において、驚くほど多様なそのあらわれを、「即興」の一言でくくることで平均化してしまうことのないよう、一定の配慮しておくのがよいと思う。

 例えば、さまざまなダンスのジャンルに、さまざまな形で出現する即興的なるものをまとめた長谷川の論考「即興と舞踊」には、「受容と憑依」の章に、以下のような田山メイ子評が出てくる。少し長いが引用してみよう。

 「21世紀になる前だが、テルプシコールで田山明子(引用者註:当時の表記)という笠井叡の天使館出身者の舞踏をみた。彼女は立ったまま正面を向き少しの左右の動きを入れた踊り、いわゆる身体の揺らしという動きを30分以上しておりきわめて退屈だったが、身体が上り詰めたような動きをしたのち突然われを忘れたような表情と小刻みな手足の動きのあと、身体が樹木に吊り下げられているような浮遊感に満たされた動きが起こった。これは猛烈なもので、見たことはないが霊媒師などが受霊するのはこのようなものか、と思わせる動きだった。身体は激しく上下し手足の末端は柔軟でぶらぶらになり、身体全体も骨のないぬいぐるみのようになって激しく揺れた。その時間は3分にも満たなかったが激しい霊気を感じた。/これは、彼女の過去の舞踏には見られず、全く予期しなかったことだった。彼女が受容し憑依した瞬間と考えられる。/田山明子の師匠である笠井叡は、こうした憑依の瞬間を難なくみせる。(中略)彼は、自分の内側で理性という箍をはずすことが自在に出来る。霊的なものと俗界を難なく行き来することが出来る。(中略)/笠井は自在で田山は到来する。」(58頁)

 これは15年前の忘れえぬ「記憶」というより、長谷川の身体に深く刺さったままの針と呼ぶべきようなもので、未見の者に公演の実際はわからないものの、ひとつの身体を介していまに運ばれたものといえるだろう。長谷川は、舞踊における理性を超えたもの──彼女はこれを即興のひとつのあらわれと解している──を、笠井叡においては「自在」という言葉で、田山メイ子におていは「到来」するものとして特徴づけ、天使館をなかだちに、両者のダンスの差異と反復を語っている。こうした具体的な身体/ダンスに即した議論こそが、即興をつかまえるコツではないかと思う。考えるに、ひとつの名前を持つ具体的な身体を離れ、アカデミックに、あるいは文学的に「即興」を語ることが、それだけにとどまってしまっては、さほど大きな意味をもてないのではないだろうか。というのも、いま、自分の目の前にある、この身体に向かうことができるようになるためにこそ、すべての言葉は準備されるべきだからである。長谷川のテクストが魅力的なのは、議論を起こす彼女の言葉が、そうした具体的なものに満ちあふれているからに他ならない。読者は、これらの言葉のなかにも、多様体としての身体が埋めこまれているのを難なく発見することだろう。

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2014年10月24日金曜日

黒沢美香: 薔薇の人 vol.17「deep」


怠惰にかけては勤勉な黒沢美香のソロダンス
薔薇の人 vol.17: deep
日時: 2014年8月27日(水)&28日(木)
2014年10月22日(水)&23日(木)
2014年12月26日(金)&27日(土)
[昼の部]開場: 1:40p.m.、開演: 2:00p.m.
[夜の部]開場: 7:10p.m.、開演: 7:30p.m.
会場: 横浜市/大倉山記念館「集会室」&「ホール」
(神奈川県横浜市港北区大倉山二丁目10番1号)
料金/前売: ¥3,000、当日: ¥3,500
昼夜はしご券: ¥4,500(要予約)
リピーター割引: ¥2,500(要予約)
(複数回の公演をご覧になる場合には、2回目以降割引になります)
振付・出演: 黒沢美香
演出協力: 小林ともえ、首くくり栲象
Public Acoustic: 椎 啓 照明: 糸山明子、木檜朱実
現場監督: 河内 崇 制作: 平岡久美
主催: 薔薇ノ人クラブ



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 踊ろう!と燃えたらダンスは逃げてだからといって冷めて踏めば弾き飛ばされ、門の中に入れない。どう測りどう踏むとダンスに逢えるのか。だったら反対にダンスではないとはどういうことか。この境界線を怖ろしい気持ちで渡るのが「薔薇の人」の勤めで儚くて余計で遠回りな道を選んでいる。この度はナイト&デイだ。昼間は密やかに会議室で、夜は開け放ったホールにて踊る、原始的で古臭いこころみです。そして夏・秋・冬・厳冬にくり返し同じ部屋に立つこと。そして昼も夜も異常であること。
(黒沢美香、フライヤー文面)  




 大倉山記念館2階の第6集会室でおこなわれるマチネ公演と、エントランスホールの階段を3階まで登ったところにある教会風のホールを使ったソワレ公演をセットにして、2デイズ公演する黒沢美香<薔薇の人>シリーズの第17回公演『deep』は、20148月、10月、12月、年越しして翌年の3月と、ほぼ隔月で同内容のパフォーマンスを反復する変則的なスタイルをとっている。これはおそらく、「怠惰にかけては勤勉な」というコピーに暗示されているように、視覚の「怠惰」や「退屈」を招き寄せるため、<反復>の行為を方法論として採用したものと思われる。ダンスと非ダンスの境界線は、動きのどこに発生してくるのかという問いは、身体にとっての普遍的なテーマであると同時に、観客に対して投げかけられた謎でもある。周囲に目配せすれば、最近のダンスでよくお目にかかる公演スタイルなのだが、偶然なのか、それとも似たような問題意識が隠れている徴候なのか、就中、黒沢美香の<反復>は、深谷正子の振付に頻出する<反復>と、働かせ方の面でとてもよく似たものとなっている。8月、10月と、集会室で自然光とともにおこなわれるマチネ公演を観劇、10月にはマチネ公演に加え、会場を3階ホールに移しておこなわれるソワレ公演も観劇しているので、ソロダンスにあらわれた反復と差異に注目しながら、黒沢美香のヴィジョンに迫ってみたいと思う。

 初日のマチネ公演、自然光だけの集会室はほんのり薄暗く、部屋の一面に敷きつめられた絨毯の真中に、小さな子鹿のぬいぐるみが一体ポツンと置かれているだけ。窓と反対側にある壁の一面に観客用の椅子が並べられていたが、基本的には、椅子をどこに置いて座っても自由ということになっていた。しかし、夏公演に集まった35人ばかりの観客は、誰にいわれるともなく、部屋の中央に置かれた子鹿の人形を取り囲むようにして周囲に散らばり、椅子を要求することなく、思い思いの姿勢で立ったり座ったりしながら、ダンサーの登場を待った。かすかに鳴るアコーディオンの響きを合図に、足をしのばせて廊下をやってきた黒沢美香は、集会室の大きな扉の内側に入ると、しばし外をうかがう様子を見せ、もう誰も来ないことを確認してから静かに扉を閉め、鍵をかけた。集会室が密室となる。ワイシャツに濃紺のロングスカートという女学生ふうの衣裳に、毛糸編みの帽子をかぶり、裸足に白いストッキングをはいている。顔と腕は白塗りされていた。扉を閉めると、そこに観客がいるのもおかまいなしに、左手の壁に至近距離までじわっと接近し、部屋の中央に背中を向けたまま、しばらく動かずにじっとしていた。

 やがて、壁に面していた身体を180° 回転させると、扉の右側にのびている壁の近くを、座っている観客の足のうえを歩くように(実際には、ゆっくりと接近してくるダンサーを観客のほうからよけるため、たくさんの足をかきわけるように)して、窓のある反対側の壁まで直進していく。腰を落とし、胴をまったく動かさないまま、腕や足だけを大振りに動かしていくダンスは、スローモーションで全力疾走しているような奇妙な動きで、大袈裟な身ぶりが、皮肉で、批評的なものに見えた。その一方で、胴が微動だにせずみごとに水平移動していく様子は、能楽師のようだった。反時計回りで三方の壁際をまわるという動線のとられ方は、夏と秋、双方の公演で反復されたが、雨に祟られた秋公演では、観客も20人ほどと少なくなったため、観客が余裕をもって動くことができるようになり、黒沢が人々をかきわけていくときの動きや、(それが本作品の趣旨と思うのか)最初の立ち位置や姿勢を変えようとしない観客をやり過ごすときも、まったく違った身体の使い方となった。特に後者は、それだけで公演にクライマックスを作ってしまうような要素だったが、おそらくそうなることを回避しようとしてだろう、黒沢はあわてる様子も見せず、淡白に、機械的に、細心の注意を払って動きを選んでいた。正面の窓枠に手をかけて外を見たり、窓の前を往復したりするときダンスめいた動きが出るので、おそらく窓前が踊り出しの場所になっていたのではないだろうか。最後は、集会室の対角線上を横断して扉までたどりつき、終演となった。

 夜のホール公演は、二列に並べた椅子を両脇に寄せて対面するように観客席を作り、中央に広く開いたアリーナと、一段高いステージを使ってのものとなった。内容的には昼公演を反復するものだったが、ホールに立ったダンサーの身体は観客から遠く、ダンススペースも広く、ステージ上には電気スタンドやピアノやピアノ椅子など、なにもせずとも身体を踊らせてしまう要素がたくさんあったため、踊らない身体を立てるには、集会室以上の工夫をこらさなくてはならず、それが動きを複雑なものにしていた。ステージ下手に置いてあった懐中電灯を持ち出し、高いホールの天井を照らしていく奇妙な行動も、その一端だったろう。パフォーマンスの最初に、ダンスを回避するため、意図的にならないようにしながら、なんらかの意味を帯びてしまうことのない動きを構成するのは、とてもむずかしい。即物的にしか見えない(目的のない)動作を執拗に重ねていきながら、そのどこかで作業に飽きが来る瞬間があり、踊りがむこうからやって来るのを、無抵抗に受け入れる作業といったらいいだろうか。しかしながら、黒沢美香にとっては、徹底してダンスを殺していく作業もまた、強烈な欲望の対象となっているようだった。黒沢美香のダンスには人を熱中させるものがある。それはおそらく、身体に即した思考を展開するため、彼女が象徴的な動きを徹底して排除しようとしているからだと思われる。


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