2014年1月14日火曜日

真砂ノ触角──其ノ伍@喫茶茶会記



吉本裕美子 meets 木村 由
真砂ノ触角
── 其ノ伍 ──
日時: 2014年1月12日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開演: 3:00p.m.、料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 吉本裕美子(guitar) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 チェリスト入間川正美との「不機嫌な二人」シリーズ(20116月~)で、即興演奏家との本格的なセッションに踏み出してから数年が経過した現在、ダンサー木村由の活動スタイルは、外向きと内向きという相反するベクトルの間に一本の綱を張り渡すような、ダイナミズムと緊張感をもっておこなわれている。内向きのベクトルは、地元である経堂のギャラリー街路樹で公演されるちゃぶ台ダンス「夏至」「冬至」と、明大前キッド・アイラック・アート・ホールの5階ギャラリーで公演される無音独舞「ひっそりかん」に代表される、みずからの踊りと孤独に向きあい、身体の底なしの深みに釣り糸を垂らしていく<凝縮>の方向性。かたや外向きのベクトルは、吉本裕美子、本田ヨシ子+イツロウ、照内央晴、新井陽子、長沢哲、森重靖宗というように、徐々に広がっていった即興演奏家との共演をユニット化しておこなうもので、デュオを中心とした即興セッションで身体をなんでもありの環境に置き、新たなダンスに挑戦する<拡散>の方向性である。喫茶茶会記を会場にしたギタリスト吉本裕美子との「真砂の触角」シリーズは、後者の最初期にスタートしたもので、毎回凝った演出がほどこされる点に特徴がある。

 三年目に突入したシリーズ第5回の共演では、パフォーマンスの変化を期待してだろう、ステージ上の立ち位置を交代して木村が下手に立っただけでなく、ダンサーがそのうえで横になれるほど長いテーブルが持ち出され、テーブルの前には数段しかない階段椅子が置かれた。頭上には一本のスポットライト。ちょっとしたステージ内ステージの格好だが、これはパフォーマーが横並びになる視覚的な平板さに、垂直方向のダイナミズムを与える最近の木村のダンスの延長線上に出現した舞台装置と考えられる。というのも、ピアニストの新井陽子や照内央晴との共演において、椅子のうえに立ち、頭を天井に触れさせたり、演奏するミュージシャンをうえからのぞきこんだりする場面を、木村は何度となく作っているからである。ダンサーの衣裳も前例のないもので、白い上着に丈の長い白いスカートをあわせ、顔を白塗りをして、バレエのチュチュの生地になる白の薄衣を、頭からすっぽりかぶるというものだった。全身白づくめの衣裳は、どこか儀式めいていて、死装束・死化粧のようにも、花嫁衣裳のようにも見えていた。テーブルのうえで立ったり座ったりする木村は、薄衣にあたるライトのとりとめなくも繊細な戯れに、細心の注意を払いながら演技していた。

 新たなパフォーマンス環境を提供する舞台装置がツボにはまるとき、木村由の身体は強力なイメージ喚起力を発揮し、見るものの心臓を鷲掴みにするような鮮烈な場面を、まるで湧き出る泉のようにして、次から次へと展開していく。彼女のパフォーマンスにおいて、ひとつの空間を切り開いていくダンスは、イメージの細部を形作る精度の高い身ぶりや足どりとともにたどられていく。ごそごそと動く薄衣の塊から、ゆっくりと動く手や足が出て、薄衣を通して見え隠れする白塗りの顔が、頭上から降ってくる強いスポットライトを浴びて輝く様子は、耽美とコミカルさが同居した特異な表情をたたえていた。とりわけ、薄衣を頭からかぶった大女が、共演者のギタリストや観客を睥睨するようにしてテーブルうえに仁王立ちになる、パフォーマンス前半のクライマックス。あるいは、後半もかなり押し詰まってから出現した、薄衣をはだけてあられもなくテーブルのうえに仰臥したヴィーナスの惨殺場面。前者は、男性が女性に対して隠しもっている根源的な恐怖を、また後者は、自分もいつか犯すのではないかと心の底で怖れている他者への決定的な暴力を、それぞれにイメージ化して見せるものだった。

 現在の時点で、試みに本シリーズをまとめてみれば、「真砂ノ触角」の特色をなすのは、断片化されたフレーズがノンクライマックスで続いていく演奏スタイルも含め、不動の姿勢を崩すことのない吉本裕美子と、毎回新たなアプローチを工夫してセッションにドラスティックな変化を注ぎこむ木村由が、決して縮まることのない距離を危機的なものとして抱えこみながらおこなう一騎打ち、ということになるのではないかと思う。どこかで接点が開けることを期待するよりも、動かないことが動きを際立たせ、動きまわることが不動のものを浮き立たせるという関係性が、すでにこのデュオの核心部分を構成している。一升瓶を引きずりながら共演者の前を通過していったり、共演者に触れるほど至近距離まで接近して影を重ねたり、深く帽子をかぶりながら盆踊りのように共演者の周囲を回るなど、暗闇の領域にあって、激しく、生々しい場面を生み出す木村由を、他で見ることはできない。発展よりも飛躍によって連結されていくイメージ群は、他でもない、吉本の演奏がもっているゆるぎなさの質感によって触発されたものというべきだろう。そのなかにあって、今回生み出されたイメージ群は、これまでとくらべようのないくらい、見るものの心臓に刃物を突き立てるような強烈さと濃密さをそなえたものだった。



 【関連記事|真砂ノ触角】
  「真砂ノ触角──其ノ弐@喫茶茶会記」(2012-08-27)
  「真砂ノ触角──其ノ参@喫茶茶会記」(2013-01-14)
  「真砂ノ触角──其ノ四@喫茶茶会記」(2013-08-12)

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2014年1月13日月曜日

身体の知覚 vol.2


身体の知覚 カラダノチカク vol.2
2014年1月10日(金)
喜多尾 浩代「Edge of Nougat」(new creation)
2014年1月11日(土)
横滑ナナ「かぜのはしわたり」
2014年1月12日(日)
菊地びよ「vie-vibrate organs──波動態」
会場: 東京/中野「RAFT」
(東京都中野区中野1-4-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.(10日)
開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.(11日、12日)
出演: 喜多尾 浩代、横滑ナナ、菊地びよ(dance)
料金: ¥2,000(各日)
[予約のみ]¥3,500(2公演セット)、¥4,500(3公演セット)
問合せ: TEL.&FAX.03-3365-0307(RAFT)



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 110日(金)から12日(日)までの3日間、中野にある小スペースRAFTで「身体の知覚(カラダノチカク)」とタイトルされたダンス公演が開催された。ダンス公演を実践的な身体探究の場とし、オリジナルに「身体事(しんたいごと)」と呼ぶ喜多尾浩代が、新たな舞台表現に場を提供するRAFT(主宰者:来住真太)との間に築いてきた数年越しの関係を土台に、昨年からスタートした新シリーズ「身体の知覚」の第2回は、菊地びよ、横滑ナナというふたりのダンサーとともに、「普段は忘れてしまっている身体の知覚、可能性を再発見する」ための3本のソロ公演という構成をとった。三者三様にオリジナルな動きを連結していくダンスの魅力と、「身体の知覚」という共通のテーマを意識しながら、ダンサーが自身に課した独自のテーマ:細胞レベルまで含むミクロな身体が同時多発しているありようをヴィジョン化してみせる「Edge of Nougat」、環境に身体を開くことによって、見るものの心にさまざまな風景や物語性を喚起する「かぜのはしわたり」、形をもたない声の様態をダンスする身体が追っていく「vie-vibrate organs──波動態」というふうに、個別のテーマはダンスの作品性に結実した。以下では、個々のダンスに簡潔に触れたうえ、3デイズ公演を観た全体の印象を書きとめておくことにしよう。

 初日の公演は、例によって、前年にヨーロッパ公演された作品を日本初演する喜多尾浩代の「Edge of Nougat」改訂版だった。昨年度のバージョンは、パフォーマンスの全体が、前進する、あるいは後進する歩行とともにおこなわれ、それがダンスの音楽的リズムを生むことにつながっていたが、今年の改訂版では、周囲の照明をステージ中央に集め、できるかぎり影を出さないように(おそらくこれは影が視覚的な意味をはらみやすいからだろう)しながら、ステージの中央に立ったままパフォーマンスする前半と、摺り足でじわじわと動き出す後半に大別され、さらに後半では、これまでの喜多尾のダンスには見られなかった、床に横になるという場面が挟みこまれた。それは典型的な舞踏の型ともいえるものだったが、喜多尾の身体感覚は、床に身を委ねるというのではなく、身体の一部を床に触れさせることで、逆に、宙づりの身体を強烈に意識させるという浮遊感のなかにあるものだった。ダンスが特定の表現や身体的ディレクションに傾斜することがないよう、身体を大地から引き離し、いくつものミクロな身体の動きを、同時多発的に発生させ、ほとんど全身に拡散し、かつ連結していくのが彼女のスタイルといえるだろう。感覚の前面化と表現的なものの回避は、喜多尾のダンスにおいて表裏一体のものとなっている。

 中日の演目は、身体のもつイメージ喚起力をフル稼働させる横滑ナナの舞踏ソロ「かぜのはしわたり」だった。この日は会場設営に特別の工夫があった。大久保通りに面したRAFTは、往来側にガラス張りの出入口があり、鰻の寝床のように長いスペースの一番奥が、通常はステージにあてられている。横滑公演では、この細長い空間全体をステージとするため、観客席は、奥の壁と下手側の壁に沿って並べられた。これによって、奥の席からは、正面のガラスを通して大久保通りを往来する自動車や人が見えるという、開放的な環境がもたらされた。通用口から登場した横滑は、紫色の衣裳を着用、身体の強度を保ちつつ、それでいて舞踏ならではの(筋肉的)凝縮にはいたらないゆっくりとした動き、ていねいな動きを連ねて、かなりストレートなダンスを展開した。このときRAFTの会場は、横滑にとって風の通う洞窟以外のなにものでもなかったはずである。彼女は、ライトが床を照らすその際あたりで、「バイバイ」するように左手をあげ、やや動きの速度をあげて出入口までたどりつくと、正面に見えるガラス窓の前に立って、今度はサヨナラをするように何度も大きく手をあげてから外に出ていった。ガラス窓の外を流れる日常的な時間/空間と、凝縮された濃密な身体を生きる横滑の非日常の時間/空間──生と死と呼べるようなふたつの次元をひとつの身体が横断していく魔術的な公演だった。

 「身体の知覚」の最終日は、さきごろヴォイスの徳久ウィリアムと「肉体総動員発声態」(1217日)を開くなど、ただいま現在、声を使ったダンスに挑戦している菊地びよの「vie-vibrate organs──波動態」である。いうまでもなく、デュオとソロでは、声と身体の関係に大きな相違がある。声を外からやってくるものとしてあつかう菊地は、心臓の鼓動や呼吸音、ハミングする声や痙攣する声の録音を流すことで、過去からやってくる声と、いまここを生きる声を折り重ね、ふたつの時空に呼吸を通わせながら、ダンスする身体を別のアンサンブルにもたらそうとした。録音は、心音以外すべてが彼女自身のもので、ライヴな息は録音された息に、痙攣する声は痙攣する声に呼応して出されていた。薄暗い照明のなか、心音をバックにステージ中央で横になったダンサーは、ほんの少し足をあげて中空に浮くような姿勢からスタートした。息に代表される不定形なサウンドは、観客に向けたメッセージや即興ヴォイスではなく、壁や床、また中空や天井などに向かって放たれると同時に、ダンサー自身の身体にフィードバックしていくサウンドとしてあり、湾曲する背中、爪先立ちする姿勢、海風を受ける帆のように高く波打つ両手といった菊地ならではの身ぶりの形を、形のない身体のほうへ、形が生まれる以前の根源的な場所へと解き放とうとしていた。

 ひとつの作品を作りあげるというのではなく、その場で即興的なセッションをするというのでもなく、「身体の知覚」というテーマを意識したソロ公演をおたがいに見合うことで、自分自身のダンスを照らし返すというのは、それ自体がユニークな関係性に立つものといえるだろう。身体を自由にすることと、身体から自由になることを喜多尾はわけて評価するが、今回出演した三人は、それぞれのしかたで後者のありように触れていたように思う。すなわち、これまで記述してきたように、喜多尾は細分化された感覚によって多孔的になった身体を立ちあげることで、横滑は身体が通過していく環境そのものを開く(あるいは身体を拡大する)ことで、そして菊地は外からやってくる不定形の声にこたえる身体をもってと、それぞれが<私>と身体の間に<他者>(私ではないもの)と呼べるような空間性を挟みこんだり、切り開いたりしていたからである。これはダンサーが固有にもっている身体の知覚が、どのようにして外部に開かれていくかを考えるとき、重要なポイントとなるのではないだろうか。もしこの三人の関係が継続していくなら、将来的には、それぞれのありようをクロスさせた特異な身体空間が切り開かれることになるのかもしれない。



※ダンサー単体の写真は、来住真太さんの撮影によるものです。  
ご協力ありがとうございました。  

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2014年1月1日水曜日

謹賀新年 2014



謹賀新年
2014年 元旦

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北里義之/音場舎