2014年9月29日月曜日

佐藤ペチカ@ヒグマ春夫: 精魂と映像とのコラボレーション2014



ヒグマ春夫: 精魂と映像とのコラボレーション2014
第5回ゲスト: 佐藤ペチカ
日時: 2014年9月28日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アートホール/5Fギャラリー」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
料金/当日: ¥1,500
出演: 佐藤ペチカ(dance)
映像: ヒグマ春夫

予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッド・アイラック・アートホール)



♬♬♬



 924日(水)から106日(月)までの12日間、明大前キッド・アイラック・アート・ホールの5Fギャラリーで、ヒグマ春夫の映像インスタレーション展「精魂と映像のコラボレーション2014」が開催された。例によって、ダンサー/パフォーマーをゲストに迎え、日替わりコラボレーションがおこなわれたのだが、今回は、「映像の関与を通して、身体表現者が持っている潜在的なウゴキを響かす表現の試み」というテーマが設定され、事前に個々のゲストの要望を聞き、撮影時間や場所の指定、あるいは映像改変の注文などにこたえながら、公演当日に固定で流されるビデオ映像を作成、あらかじめ出演者に渡してパフォーマンスの内容を考えてきてもらうという手順で公演が準備された。「ヒグマの映像インスタレーション展」におけるパフォーマンスは、そのとき一回かぎりの出来事としておこなわれ、基本的に「再演」は考えられていないようだ。その意味で、あまり時間をおかずにおこなわれた佐藤ペチカとの二度のコラボは、おなじ映像を使ったという点で、例外的なものだったといえるだろう。映像インスタレーションは、コンセプトを理解すれば作品が鑑賞できるといったものではなく、多彩な展開を見せるコラボの複数回の体験を、観者が積極的に解釈すること通して、そこでなにが展示されているのかがようやく浮き彫りになってくる仕組みになっている。

 「精魂と映像」5日目に迎えられた佐藤ペチカは、春におこなわれた「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト Vol.59」(528日)でもゲストをつとめた。彼女の場合、このときのヒグマ映像に再チャレンジしたいという事情から、今回あらためて映像は製作されず、(1)扉を開放したまま4Fで停止したキッドのエレベーター内で倒立するダンサー、(2)5Fギャラリーのある最上階への外づけ階段を、頭を下にした仰向きの姿勢で這い降りてくるダンサー、という二種類の映像が再映された。キッドの1Fホールで開かれた春の公演を観た観客にとって、これらの映像は、キッドの建物の階上を意識させるものだったが、5Fギャラリーの観客にとっては、出入口の扉のすぐ外で、あるいは階下で撮影された出来事になった。ふたつのコラボを見た私個人の感覚では、おなじキッドの建物の映像に別の位置感覚を重ねて見ることになり、自分がキッドの最上階にいるという場所性をつねに意識させられた。「精魂と映像」の初日公演では、ゲストのケイトリン・コーカーが、会場の5Fギャラリーで撮影された過去の映像と、現在のパフォーマンスが生み出す時間的なずれをテーマにしていたが、こんなふうに、ビデオ映像がパフォーマンスのなかで持つ意味は公演によって異なった。

 佐藤ペチカのパフォーマンスは、一見すると、狂気じみたスタイルをとっているが、私にはとても内省的なものに感じられる。精密にデザインされたパフォーマンスによって狂気にいたる方法といったらいいだろうか。今回目指されたのは、それ自体が不可解な動作を映し出す映像を、強烈なライヴパフォーマンスで(結果的に)忘れさせることではなかったかと思う。そのような無関係という関係の創造は、前回以上に徹底していた。緑色の衣裳を着て、トゲトゲの生えた長いビニールの尻尾を引きずりながら登場した佐藤は、まるで仁王立ちしたトカゲのよう。内側を赤く塗った緑色のハイヒールを片足だけに履き、バランスを崩してギクシャクしながら、赤い色で塗られた生の卵を床のあちこちに置いていったかと思うと、ベランダから持ちこまれた鉄製のテーブルのうえに置かれた赤や青のカツラをかぶり、あらぬ方角に向いて、肩や腰をプルプルとふるといった具合。「劣悪、俗悪、醜悪、最悪」という歌詞を執拗にリフレインする七尾旅人の曲とともに、頭のネジを吹き飛ばすような狂気の発作がやってくる。ともすれば反復的になる動きをはずす偶発性に身をさらし、最後には、映像が終わっても行為をやめず、暗転後の闇のなかを、テーブルの上のラップトップが壁に投げるぼんやりとした光まで這い寄っていき、いったん身を投げ出すように椅子に座ったのだが、そこを終着点とせず、暗闇のなかを出入口の扉から出ていった。

 ここまで徹底して予定調和の外に出ようとする(徹底した理性の)行為──あえて「コンセプチュアル」と呼んでみたい気もする──を見せられたら、もうなにも言うことはないだろう。佐藤ペチカの「リベンジ」は果たされたように思われる。「芸能の始原には狂気がある」(田中悠美子)、「かつては狂うことの専門家がいた」(室伏鴻)というような言葉を考えあわせると、彼女のパフォーマンスは、演じられているはずの狂気がどこかで本物の狂気になってしまう瞬間や、正気/狂気の境界領域を探索する作業になっていたように思う。しかも、個々の行為が持つ意味を喪失させていくゲームにとどまることなく、同時に、狂気に「芸能の始原」というような根拠を与えることもしないという、意味/無意味の境界線上をどこまでも歩いたと思う。狂気を理性で押さえこみ、理性を狂気で押さえこむというダブルバインド状態をパフォーマンスにもたらすこと。『狂気の歴史』(1961年)を著したミシェル・フーコーによれば、こうした正気/狂気の境界設定こそが、人々を排除と包摂にふりわける社会的な制度だという。この意味では、佐藤ペチカのパフォーマンスは、私たちの身体がつねにすでに血肉化している制度やシステムに、触れようとする試みにもなっていたといえるだろう。ヒグマ春夫の「精魂と映像」は、親和的なコラボレーションなどではまったくなく、ダンサーのひとりひとりが、彼女たちの危機的な瞬間を賭ける場となっていた。



*写真提供: 坂田洋一   




 【関連記事|佐藤ペチカ】
  「佐藤ペチカ@ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト Vol.59
(2014-05-29)    


-------------------------------------------------------------------------------






 

2014年9月27日土曜日

横滑ナナ 舞踏ソロ: 楼夜 Night Collapsed of Nana


横滑ナナ: 舞踏ソロ
楼 夜
Nana YOKOSUBERRY Butoh Solo
“Night collapsed of Nana

日時: 2014年9月25日(木)&26日(金)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
開演: 8:00p.m.(25日)、7:30p.m.(26日)
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
出演: 横滑ナナ(舞踏)
照明: 三枝 淳 音響: ワタル
音楽協力: 舟沢虫雄、成田 護
予約・問合せ: nanasuberry@gmail.com(横滑)

*小野塚誠 写真展示「写心」の同時開催あり。



♬♬♬



 春季と秋季の二度にわたり、公開稽古でもなく、公演でもない身体の検証シリーズ「五つの夜」を開催した横滑ナナは、観客のための演出がほどこされていない素のパフォーマンスを反復することで、みずからの身体に問いかける日々の地道な作業を公開してみせた。このシリーズは、秋に予定されていた舞踏ソロ『楼夜』に向かって、身体のありどころを探る試みにもなっていた。「五つの夜」の踊りは、身体を通して内面の作業を積み重ねていくという点で、即興演奏のライヴによく似たものだが、舞台演出が加わる『楼夜』の本公演で、こうした身体の探究作業がどのような作品に結実していくかに、私の個人的な関心は集中した。『すなのおんな(Nana in the Dune)』(201111月~20126月)、『砂楼(Tower of Sand)』(20129月)、『風楼(Nana in the Dune)』(201310月)、『かぜのはしわたり』(20141月)というように、ここ数年の横滑公演をならべてみると、風や砂にこだわったタイトルだけでもテーマの連続性が推測されるが、ソロ公演ではこれが演出によって前面化される部分になってくる。『楼夜(Night Collapsed of Nana)』は、これまでのイメージに新しく「夜」を加えたことになるだろう。しかも倒壊する夜である。

 公演冒頭でステージが暗転すると、砂色の衣裳をまとった横滑が、薄暗いオレンジの光を背後から浴びて影になりながら、穴蔵のようにみえる楽屋口から這い出してきた。はたしてこれは人か動物か。前進と後退のたくみな足さばきによって、観客席に身体の正面を向けながら、ゆっくりと下手から上手に移動。やむことのない砂嵐の音響は、風や波のイメージにも通じ、横滑が持っている空虚なるものの世界観を背景にしている。上手までたどりついたところで、強烈なライトを真正面から浴び、背後の壁に大きな影を投げながらの演技。ふたたびステージ中央まで歩みを運んだところで、彼女の身体は糸が切れたように床に投げ出され、細かな身体の動きによって凝縮されていた密度のある空間を、いっきに解き放つ場面へと移行した。遠い国の理想郷を歌ったゴダイゴの「ガンダーラ」が流れる。リズムをはずしながら、踊りはねるような横滑のステップ。最後にやってくるのは、観客席の手前で石のように身体を丸めた横滑が、ゆっくりと立ちあがり、つま先立ちになって両手を天井にさしのばしていく場面である。天井さしてのびていく身体を宙づりにする照明のフェードアウトによって暗転。この場面は、途中から挿入されるピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」ともども、きいろろ聡明堂でおこなわれた秋の「五つの夜」でも、最後の場面になっていた。ちなみに、クライマックスの直前、床のうえで石のように身体を丸める動作は、ふたつの「五つの夜」の双方に出現していた。

 一般的にいえば、演出によって踊りに与えられるのは、動きを外側から意味づける物語といえるだろうが、踊る身体そのものに着目すると、「五つの夜」と『楼夜』の間には、共通する構造があるように思われる。それは前半と後半におこなわれる二種類の緻密なダンスを、動きを脱文脈化する、速い、開放的なダンスによって二分するという構成法だ。詳細ははぶくが、駒込ラグロットでの最底辺のアリーナを使った激しい動きのパート、あるいはきいろろ聡明堂でのアルコーヴを使った活人画のパートが、それぞれ動きのピボットを構成していた。『楼夜』ではゴダイゴの「ガンダーラ」がこの部分に相当する。これらは、公演の全体を意味づける物語にかえて、種類の異なるいくつかの踊りをつなげたり、身体の質感や動きが生み出す変化のあるイメージを連結してリズムを感じさせる手法となっている。もうひとつ、横滑の踊りには「日常的な世界への回帰」というテーマもよく見られ、これも物語ということができるだろうが、テルプシコールが劇場空間だったせいか今回は登場しなかった。さらに共通点を探せば、砂嵐の音響が強力にイメージを支えた『楼夜』前半の場面は、きいろろ聡明堂で潮騒の響きとともに踊った前半の場面に相当するが、さらに──私自身は未見だが──駒込ラグロットでの『すなのおんな』三部作にも通じているように思われる。いずれにしても強力なダンスであった。

 『すなのおんな』に直結する『楼夜』前半の緻密な踊りから、ひとつのメッセージを受け取ることができる。というのも、『すなのおんな』にインスピレーションを与えたのは安部公房の『砂の女』(1962年)であり、この寓意小説は、崩れる砂のようによりどころのない戦後大衆社会の閉塞感を描いたものだからである。すべての人間が平凡化していく大衆社会の閉塞感は現代にも通じており、舞踏家はこのことを危機的なものとして感じているのだろう。ここではない、非在のユートピアを歌う「ガンダーラ」の理想主義から、天上的な価値を希求する身体を提示してみせる後半は、反時代的な、異形の身体を提示する舞踏的な手法と真逆のものといえるだろうが、これこそはまさに、舞踏する身体を肯定的なものに価値転換したうえでの、横滑ならではの異議申し立てといえるだろう。暗黒舞踏がダンスの概念を拡張する革命的芸術運動であったことを考えれば、横滑のダンスは、造反有理の舞踏と呼ぶべきものになっている。物語ではなく、身体の提示をもってするヴィジョンの表明。つま先立ちをして身体をのばし、両手を高くさしあげるクライマックスの場面には、さよならの手をふる情感的な動作が、それとなくはさみこまれていた。しかしながら、こんなふうに『楼夜』で示されたものを追っていくと、最後のこのしぐさが、「さよなら」から「こんにちは」の挨拶に反転して見えてくるから不思議である。私たちは、この反転に賭けるダンサーの命がけのジャンプを感じ取るべきであろう。


 *写真:小野塚誠



-------------------------------------------------------------------------------