2015年1月20日火曜日

現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13|Part 1


ダンスがみたい! 新人シリーズ13
日暮里d-倉庫
日時: 2015年1月5日(月)~18日(日)
会場: 東京/日暮里「d-倉庫」
(東京都荒川区東日暮里6-19-7)
料金: 前売/当日: ¥2,300、学生: ¥2,000
通し券[10枚限定]: ¥6,800、学生: ¥5,800
主催: 「ダンスがみたい!」実行委員会 共催: d-倉庫
舞台監督: 田中新一、佐藤一茂
照明: 安達直美、久津美太地、金原知輝
音響: 相川 貴、許 斐祐
映像: workom 宣伝美術: 林 慶一
協力: 相良ゆみ、山口ゆりあ、高松章子、仲本瑛乃、楡井華津稀、OM-2
記録: 田中英世(写真)、船橋貞信(映像)、前澤秀登(写真)
監修: 真壁茂夫 制作: 林 慶一、金原知輝


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 ダンス作品における批評性について触れる場合、身体がかならずしも言葉をもたずにそのことをするという点に、演者も観者も、留意しなくてはならないように思う。身体は、むしろ意識よりも速く、批評の言葉を出し抜き、驚くべき複雑さをもって出来事を実践してしまうということ。パフォーマンスする身体に批評性を見いだすのは、他でもない、出来事をただ見るしかない観客の視線であり、語り、書く批評家の言葉である。ダンサーが批評性を意識して振付をし、解説文にもそのように書き、踊り出すような場合でさえ、現実にパフォーマンスする身体は、そうした言葉すら飲みこんでいく複雑怪奇な出来事に巻きこまれてそのことをすることになるだろう。それよりもなによりも、言ったこととやったことは別ではないか。身体は言わなかったこと、言わずにおこうとしたことまでも言ってしまい、やるはずでなかったことまでしてしまい、行く予定になかった場所にまで踏み出していく。あらためて即興という方法を採用しなくても、身体とはもともとそういうものだ。言葉には還元できない、身体ならではの批評性があらわれるのは、こうした場においてではないか。

 ひとつのパフォーマンスについての見解の相違は、好みの問題に収斂しがちだが、「ダンスがみたい! 新人シリーズ13」にエントリーされた全32作品を観るという特別な経験のもとでは、そこに統計的な意味合いが生じ、作品解釈の枠を超えて、演者や観者がそれぞれにもっている感覚の相違、あるいは感覚の布置の相違が浮びあがってくる。それは、これこれが見える/見えない、これこれが聴こえる/聴こえないという感覚のレベルはもちろん、たとえそのことが見えたり聴こえたりしていても、身体および身体表現にとって重要であると感じられる/感じられない、という価値観のレベルまで、具体的な形をとってあらわれてくることによるものである。また、ひとつの作品を、他のどの作品と、あるいは、もっと広範囲に、ダンス史に出現した過去のどの作品と関連づけるかで、解釈の枠組に変更が加えられ、見えてくるもの(「不可視の身体の可視化」と呼べるもの)がまったく違ってしまう。注意すべきは、作品解釈というのは、作品どうしを線で結ぶという、恣意的でもあれば必然的でもある身体的行為に支えられているということである。個々の身体の感覚、感じ方を通したこの連結が多様であればあるほど、当の作品が潜在的に抱えている多面性は現実的なものになるだろう。以下の長々しいレポートは、そのような身体地図の作成としておこなわれるものである。


第一夜: 1月5日(月)
1. 中村 理『花とフラワー』
2. いそいそとよこ、ヨーコ、ゆみたろー、大由鬼山『通り風』
3. 羽太結子『メタモルフォーゼ』
4. 大東京舞踊団『あけましておめでとうございます。
  今年も踊り死ぬ所存でございます。』


 いまや絶滅危惧種となった黒電話を抱えてステージに立ち、呼び鈴が鳴って受話器を取ると、電話口から流れはじめる音楽にのって踊るという奇抜なアイディアがコミカルだった『花とフラワー』の中村理。下手の壁際に置かれた椅子に泰然自若として腰をおろし、出番がくると、ダンサーを凝視しながら尺八を吹いた大由鬼山の印象が強く残ったいその『通り風』。尺八の採用には、ダンス空間を吹き抜ける風尺八というようなイメージ連鎖があるのかもしれないが、現実のダンスと演奏家の身体がかかわりを持たないため、それぞれが別ものとしてステージ上に出現、辻褄あわせに終始した感があった。ユニークな動きを坦々と連続していった羽太結子の『メタモルフォーゼ』は、ひとり黙々と振付作業を進めるダンサーの姿が、現代を生きる女性の孤独と変態女子ぶりを強く印象づけた。マイムや人形ぶりやモダンなどが混成した動きを、エロチックな衣裳で包んだ後半のダンスは、特筆すべきものだった。

 最後に登場した男性9人組の大東京舞踊団の『あけましておめでとうございます。今年も踊り死ぬ所存でございます。』は、全員が思い思いのフェイスメイクとボディペイントをほどこして、デスメタル、パンク、ヒカシューなどの曲で群舞する作品。過激にカリカチュアライズされたストリートダンスに、自分たちの姿を冷静に観察している眼と自虐性が透けて見える。身体の前面を使って絵を描いていくダンスは、劇場空間において「第四の壁」と呼ばれた観客席との間の見えない壁にブラウン管をはめこんだような感じで、作品自体も、空間性よりメディア性を強く印象づけるものだった。激しい運動によって吹き出す汗に、身体に描かれた模様は次第に薄くなっていき、汗にまみれた肌をタオルでぬぐうと、絵の具はまるまるはげ落ちて、踊る男たちが日常的に持ち運ぶ身体の地金がむきだしになる。意図されたものかどうかは不明だが、(テレビ的に)とんがった集団性の表出と個々の身体によって生きられている日常性を、二枚の皮膚の重なりあいによって同時に見せたことは、アンビバレントな生活を生きる彼らの感情を、まるごと舞台に乗せる結果につながった。


 羽太結子(はた・ゆうこ)が見せた動きの奇妙さは、そのまま現代を生きる女性の孤独ぶり、変態女子ぶりにつながっていた。オリジナルであろうとするまっとうな努力の積み重ねによって獲得されたであろうユニークな動きの連続は、変態する生物が持つ危機的な瞬間を胚胎して、どうしてそうなるの?という驚きで観客を引きずっていった。前半は、赤いスカートとグリーンの上着というカジュアルな衣裳で、がに股に開いた足の間から手をうしろに出してヒヨコ歩きするといった、特別な物語を想定させない動きをつないでいく昼のダンス、後半は、下手に置いてあった白い椅子を持ち出し、椅子に絡みながら下着だけになっておこなう夜のダンスで、タイトルの「メタモルフォーゼ」は、直接的には、異質なこのふたつの場面を、「変態」という生物学的なイメージでつないだものだろう。衣裳を脱ぐことが「脱皮」を象徴する。夜の場面で展開されたダンスは、これこれと表現しようのないキメラ的なもので、パントマイムからオートマトンの人形ぶりへ、人形ぶりから、ワンフレーズで瞬間的に提示されるダンス的な美しい動きを経由して、ふたたびパントマイムに移行するという動きのサイクルを、シルクの下着を連想させる衣裳のエロチックな質感で包むというものだった。機械的なものと人間的なものをミックスしたダンス。ASMR(16ともども、女性の身体表現におけるサイボーグ・フェミニズムの行使として受け取るべきではないかと思う。(続)



 【現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13】
  1. 前書き|第一夜: 1月5日(月)
  2. 第二夜: 1月6日(火)|第三夜: 1月7日(水)
  3. 第四夜: 1月13日(火)|第五夜: 1月14日(水)
  4. 第六夜: 1月16日(金)|第七夜: 1月17日(土)
  5. 第八夜: 1月18日(日)|【付記】講評会&授与式

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