2015年3月22日日曜日

黒沢美香: 薔薇の人 vol.17「deep」vol.4


怠惰にかけては勤勉な黒沢美香のソロダンス
薔薇の人 vol.17: deep
[最終公演]
日時: 2015年3月20日(金)&21日(土)
[昼の部]開場: 1:40p.m.、開演: 2:00p.m.
[夜の部]開場: 7:30p.m.、開演: 7:30p.m.
会場: 横浜市/大倉山記念館「集会室」&「ホール」
(神奈川県横浜市港北区大倉山二丁目10番1号)
料金/前売: ¥3,000、当日: ¥3,500
昼夜はしご券: ¥4,500(要予約)
リピーター割引: ¥2,500(要予約)
(複数回の公演をご覧になる場合には、2回目以降割引になります)
振付・出演: 黒沢美香
演奏: 椎 啓、越川T.(昼公演)
演出協力: 小林ともえ、首くくり栲象
Public Acoustic: 椎 啓 照明: 木檜朱実
現場監督: 河内 崇 制作: 平岡久美
主催: 薔薇ノ人クラブ

*観劇日: 3月20日/昼夜公演とも



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 踊ろう!と燃えたらダンスは逃げてだからといって冷めて踏めば弾き飛ばされ、門の中に入れない。どう測りどう踏むとダンスに逢えるのか。だったら反対にダンスではないとはどういうことか。この境界線を怖ろしい気持ちで渡るのが「薔薇の人」の勤めで儚くて余計で遠回りな道を選んでいる。この度はナイト&デイだ。昼間は密やかに会議室で、夜は開け放ったホールにて踊る、原始的で古臭いこころみです。そして夏・秋・冬・厳冬にくり返し同じ部屋に立つこと。そして昼も夜も異常であること。
(黒沢美香、フライヤー文面)  



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 早春の大倉山記念館でおこなわれた黒沢美香のソロダンス<薔薇の人 vol.17>『deep』は、昨年の夏から、秋、冬と3シーズンにわたり、マチネは集会室で、ソワレはホールでという昼夜別々のパフォーマンスを2デイズにわたって公演するという同一スタイルで継続されてきたシリーズの最終回にあたる。公演スタイルに合わせ、両方を観ると割安になる「昼夜はしご券」が用意され、多くの観客が利用している。昼と夜の間にはホールでのリハーサルがあり、待ち時間が4時間もあるので、人によってはいったん自宅に戻り、昼寝して会場に出直して来られるほど余裕があるのだが、多くの観客が大倉山記念館の周辺で過ごすのは、おそらくそこに「山に籠る」感覚があるからではないかと思われる。山のうえにある記念館まで足を運んでくることのうちに、自覚するしないに関わらず、観客の身体が変成意識状態に入る過程が組みこまれているようなのである。あるいは、このような公演スタイルの裏に、私たちが、長い時間をかけて身につけてきた非日常を迎えるための民族的、伝統的スタイルが隠れているといったらいいだろうか。山に残った参加者たちは、友人と商店街で食事をとるために駅前まで降りたり、そのまま待合室で仮眠をとったりと、思い思いに余白の時間を過ごすことになる。個々人の自由にまかされているためつい見落としてしまうが、おそらくはこのような時間のありようを経験することもまた、薔薇の人『deep』を観ることの一部になっているようだ。

 ふたつの公演が作り出す余白の時間帯、高台から眼下に広がる街を見下ろすことのできる昼から、森が闇に深々と包まれる夜へと記念館周辺の様相が一変していくなか、大倉山にお籠りする人々には、黒沢美香のダンスが投げかけた謎からつかのま解放されながら、いましがた目撃した出来事のことを考えたり、ぼんやりと感じたりする時間が与えられる。第2集会室でのマチネ公演。公演のたびごとに、寸分の狂いもなく、おなじ振付の非ダンス/ダンスが再演=反復される可能性もあったが、最終公演では、椎啓、越川T.というマージナル・コンソートの演奏家が、開場時から集会室内に立ったことで大きな変化がもたらされた。会場内に仁王立ちする男については、なんのアナウンスもなく、演奏家とわからなければ、思いこみの激しい黒沢ファンが、迷惑なふるまいにおよんでいるのと区別がつかない。ふたりの男は、開演と同時に小物楽器をかすかに鳴らしはじめた。演奏に使われる小物楽器は、窓枠を置き台にしてたくさん用意され、プレイヤーは楽器を持ち替えるたびに立ち位置を変えながら演奏、このためややあって会場に入ってきた黒沢のダンスも、これまでの公演とは違う、まったく別の条件で踊られることとなった。出される音はすべて、音楽的な意味を帯びない空気のふるえや風のそよぎのようなものだったのだが、その音のありよう自体が、ダンスがはじまる前に、この公演のコンセプトを素描・説明してしまっていた。さらに、もっとよくないことは、立ち位置によって、演奏家とダンサーが作る三点で空間が閉じてしまい、動きの予測不可能性を縮減する結果となったことである。これは謎をひとつ消したというほどの大きな変化だった。

 先行して演奏をはじめたふたりのプレイヤーの立ち位置が、ダンサーの動けるスペースや動線をあらかじめ決定してしまうことで、黒沢ならではのダンスらしくない動きが生み出す謎は消失した。この点についてもう少し述べてみよう。集会室のなかで進行していたふたりの演奏を、開け放された扉の外の廊下に立って聴いていた黒沢は、室内の観客に自分の姿が見えるように少しずつ扉のそばに移動しつつ、演奏の切れ目を待って扉を抜けてきた。<扉の外をうかがう><扉を閉める><鍵をかける>という、これまでそうしてきたような一連の動作を保留して、部屋の奥に進もうとしては引き返すという足先の動きをくりかえしていたが、ややあって扉まで戻り、一連の動作をすませた。部屋の中央に置かれた小さなバンビの人形を大きく迂回するように、部屋の周囲に座る観客の足先をかすめて歩くという動線も放棄され、ときおり身体を深く沈めながら、ふたりの演奏家との距離をはかりつつ、大きく足踏みをするような、歩行するような感じで動きをつないでいった。これは、動きが即興的にならざるをえない条件を、新たに引き受けたということだろう。三人の立ち位置が三角形を形成すると空間が閉じる。かたや、立ち位置が一列に近くなったり、部屋のサイズまで大きく開くような場合には、関係や空間に曖昧さが戻ってきた。しかしそれは偶然の産物らしく、そのことに無頓着な動きは、三者が相対して立つときの空間の固定化を多く招いていた。

 日没に近い夕方から夜にかけて、大倉山自然公園は、山籠もりの非日常性と、金曜日の平日、ベビーカーを引くママ友、老夫婦、恋人どうしなど、近隣の住人が散歩に通ってくる日常性とが交錯するところに、時空間の重層性を感じさせる特殊な場を形作っていた。拍手を受けることもなく演奏家が退場し、つづいてダンサーが退場し、はっきりとした終演の幕を降ろすことなく『deep』のマチネ公演は終わった。このあと、観客であることからつかのま解放され、大倉山の場所と時間を体験することが、じつは終わったと思った作品の一部だと考えるのは、黒沢美香のソロダンスが、ダンスと非ダンスの境界線を探索する作業だと公言されていることによる。「どう測りどう踏むとダンスに逢えるのか。」「反対にダンスではないとはどういうことか。この境界線を怖ろしい気持ちで渡るのが『薔薇の人』の勤めで」「儚くて余計で遠回りな道を選んでいる。」ダンスはどこからはじまるのか?  踊る身体のどこに、日常性と非日常性の境界線があるのだろうか?  そもそも、そんなものなどあると仮定していいのだろうか? そのようなコンプレックスした問いを抱える身体の試みを、ひとりの観客として観劇したあと、次には、それと気づかずに自分の身体をもって内側から生きることになるのが、おそらくはこのふたつの公演の間に開けた余白の時間帯なのである。開け放されたままの集会室の扉は、「さあ、今度は、あなたが踊る番ですよ」といっていたはずだ。

 ホールに移動しての夜公演は、シリーズを通して、カラフルなタイツ姿に身を包んでの踊りらしからざる踊り。容易にダンスしてしまうことを回避する戦略をとると同時に、日常的な動作の引用というような、ありきたりの手法に陥ることも回避した曖昧な動きの連続だった。日常性と非日常性の中間領域に踏みとどまり、ダンスの記憶を喚起してくるような身ぶりを退けて裸になった身体の内側から、あらためて動きの到来を待つようなアクロバティックな行為だったと思う。それでもそれは「ダンス」と呼ぶ他なく、ダンスの歴史における──原始的で古臭い?──問いに応答しつつ、黒沢ならではのスタイルでたっぷりとだし汁をきかせた濃厚な夜のムードにあふれたパフォーマンスだった。昼公演に出演した椎啓が、入口付近の定位置に座って演奏。開場と開演が同じというのも『deep』にはふさわしく、観客が薄暗いホールに入ったときには、ステージに対面したダンサーが、入場者に背中を見せて仁王立ちしていた。公演のなかほどで、一段高くなったステージに腹這いになってあがる場面があったのだが、片足をステージの縁につけたままの黒沢は、クロールの姿勢から滑りこみセーフの姿勢へと態勢を入れ替えながら、身体を上手から下手へ滑らせていった。下手からふたたびアリーナに降りると、今度は、観客に背を向け、腹部をステージの縁につけて、下手から上手へと小刻みに横歩きしていく。本気なのか冗談なのか、観客を途方に暮れさせる場面だが、ステージの縁を使うダンスというのもまた、空間の新たな発見というべきなのだろうか。

 最後に指摘しておきたいことがもうひとつある。それは、黒沢美香のダンスの謎が、伝統的な「鑑賞」を可能にするため、ダンサーと観客の間に(文化的、制度的に)形成されてきた距離を破壊することによってもたらされているという点である。極小スペースの公演において、ダンサーの身体が観客の間近に来ることは珍しいことではないが、ここまでみてきたように、『deep』の昼公演で、広い集会場を使っているにも関わらず、わざわざ観客が投げ出した足とクロスするように直進していくこととか、座席が対面して並べられ、中央に広いアリーナ空間を確保したチャペルの夜公演でも、ダンサーの身体が観客の視界をおおってしまうほど近くに、あるいは、伸びてくる足が身体に触れるのではないかと観客を身構えさせるほど近くに接近するというのは、客いじりというのとは別の、なにかもっと積極的な行為というべきだろう。これはおそらく、ダンスを成立させる踊る身体と観客(の視線)との距離に関係していて、黒沢は、身体と身体が接近するとき、どのポイントで視覚が触覚に反転するかを測量しているのではないかと想像する。「素の身体」とは誰でも口にすることであり、むしろ安易な概念というべきだろうが、それを演劇的にではなく、実際に舞台に出現させるため、黒沢は、様々なダンスのパラメーターを試練にさらしつづけているのではないだろうか。



 【関連記事|黒沢美香:薔薇の人 vol.17: deep】
 「黒沢美香: 薔薇の人 vol.17「deep」」(2014-10-24)

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2015年3月7日土曜日

博美ソロ舞踏公演『夜の底』


博美 ソロ舞踏公演
夜の底
日時: 2015年3月6日(金)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
学生: ¥1,800(要・学生証提示)
作・演出・出演: 博美(舞踏)
照明: 越川裕子(有限会社スペクトル)
音響: 武智圭佑 楽曲提供[一部]: 小平智恵
舞台監督: 宮尾健治
宣伝美術: 高橋 亮(Stand Inc.)
写真撮影: 小野塚誠 映像撮影: 坂田洋一
協力: 夕湖、榎木ふく
企画・制作: ぽとり果



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 夜の底にいること。海の底のような、水の底のような、そびえ立つ夜の全体積から圧力を受けて鼓膜が悲鳴をあげるような場所、物質的存在として形をとった夜を身体で受けとめながらその底にいること。身体の無意識をさらけ出すとき、底なしの深淵を断崖から見おろすのではなく、つねにすでにそこにある深淵の奥から視線の届かない地上を仰ぎ見ること。その態勢をとること。「夜の底」のタイトルは、舞踏公演がしばしば採用するような現実にありえない、想像すらできない不可能性のイメージを提示するものではなく、これからダンスが踊られる空間がどのようなものであるかを告げていて、象徴的でもあれば具体的でもある。タイトルはふたつの言葉からなっている。ひとつは、そこが光に満ちあふれる昼の世界ではなく夜の世界であること、もうひとつは、ダンスのなかで上を見る仕草が何度となく反復されたように、日常的な地上の世界を引き退き、なにかむきだしのものが出現してくる場に身を横たえるということ。博美のダンスには、舞踏でおなじみのシュルレアリスティックなイメージと、ある種の無機質性、あるいは非人間的なるものが混在したまま、未整理の状態で出現してくる。両者をふたつの要素として切り分けることはできない。これは踊りの質感につながる身体の物質性とは別のものである。

 博美のダンスに魅了されたのは、六本木ストライプハウス3階ギャラリーで、小林嵯峨がウニカ・チュルンを踊った『素描の舞踏』週間の関連企画のなかでだった。201436日、当時はまだ小林嵯峨が主宰する “NOSURI” のメンバーだった博美は、榎木ふく『愛と死』とともに短いソロ作品『gynoidの血』を踊った。公演場所は、壁際の椅子に詰めこまれた観客が演者の目前にまで迫る極小のギャラリー空間。ダイナミックな動きで空間を構築していくダンスが不可能な条件のなかで、博美は、袖下に長い飾りのついた胸から上だけの黒い上着を、シュミーズのようなシルク地の衣裳と合わせるという “ガイノイド”(人間の女性に似せて作られたヒューマノイドを意味するのいでたちで、ブルーのライトに照らされ、皮膚に金属的な感触を帯びさせながら、公演の前半、台のうえで上半身だけを動かすエロチックなダンスを見せた。出産しないロボットに女性という性が存在するのは、それ自体が謎に満ちた設定だが、19世紀のロマン主義に先駆けたフランケンシュタインの怪物以来のテーマになっている。後半は台のうえから降りて踊る構成だったが、『gynoidの血』の前半を彩った足を使わないダンスが、かえって空間的な広さをイメージさせたのが記憶に残る。

 ひるがえって、すべてを自分の手で立ちあげた『夜の底』公演の冒頭、博美は、ステージ下手にある楽屋口前の椅子に左頬を見せて座り、天井からのスポットを浴びながら、宙に浮く姿勢で不安定に動きはじめるところからスタートした。黒い衣裳に身を包み、顔の上半分が黒いヴェールで覆い隠されている。まるで椅子のうえで拷問を受けているかのような、あるいは、罪状のわからない刑罰を受けているかのような姿勢のまま、ひとつの身体の誕生を象徴的に語る場面。白塗りというより顔面をかさぶたのようにおおった白粉は、生まれたばかりの赤ん坊の皮膚のよう。やがて椅子から降りた博美は、ダンサーの動きをリードしながら、ひとつ、またひとつと、森のなかの木もれ日のように床に落ちていくスポットをたどって、ゆっくりとした動物の四つ足歩行を開始する。夜の底で人知れずおこなわれる出来事は、謎に満ちたものでありながら、感覚の美につらぬかれ、エロチックな身体をそなえた生命体でもあれば、機械人形のように客体化される身体でもあるようなものを創造していた。ダンサーの両眼を隠す黒いヴェールは、シックな女性美を演出する小道具にも見えれば、これから銃殺刑に処せられる囚人の目隠しにも見え、さらに映画『プレデター』に登場する「人でもない獣でもない」生物の戦闘スーツを連想させもするという、二重、三重のイメージを重ねていた。

 後半になって、壁際に後退していったとき、ロボットめいた人形ぶりがほんの少しだけ登場する瞬間があった。しかし、そうしたはっきりとした身ぶりが示されなくても、女性という生命体が機械的なるものと合体したダブルイメージは、博美の身体表現に横溢している。これは一篇の物語へと構成しなおせるような論理的な身体というより、彼女のなかに堆積した身体イメージが重ね書きになってあらわれたものなのだろう。いったん暗転したあと、白いワンピース姿にブーツという奇抜ないでたちで再登場した博美は、ドタドタと足音高く会場を走りまわり、壁から壁へとステージを横切って場面を大きく転換した。やがてブーツを片足ずつ脱いで遠くに放り投げ、白いワンピースを脱ぐと、その下から、黒の短パンと、黒と緑のテープを身体に巻きつけて上半身を隠した衣裳があらわれた。最後は、強いスポットライトを受け、天井から花びらのように落ちてくる赤い羽を真下に立って受けながら、光のやってくる彼方に手を伸ばしていくという、舞踏でおなじみの場面で終幕。舞い落ちてくる赤い羽は、反転した白い粉雪を連想させ、意外にも、クライマックスの場面に和歌的な色彩を添えた。

 子宮/ゆりかごを象徴する椅子のうえで誕生した生命は、這いまわり、歩きまわり、走りまわり、ダンスのいたるところで上を向く仕草をくりかえしては、ここが「夜の底」であることを観客に思い出させ、最後の場面では、天井の穴から降り注ぐ地上の光を通して、ここではないどこかに、もうひとつ別の世界が存在していることに気づくという物語を描き出していた。ゆっくりと舞い落ちてくる赤い羽は、色の鮮やかさで視線を驚かせるとともに、向こう側の世界で起こっている惨劇も予感させるのだが、「夜の底」で誕生したばかりの生命には、そのことはまだじゅうぶんに知られておらず、博美は、漠然とした不安の影を遠いこだまとして聞きながら、光がやってくる上方の世界に無心に手をさしのべる。生命的なるものを構成するエロティシズムの身体とマシーンの身体『夜の底』で博美が体現したのは、いまはなきH.R.ギーガーのマン=マシーン・エロティシズムからグロテスクさを抜き去ったような身体イメージであり、同時に──詳細な説明は省くが──もはや男性の欲望から誕生したのではない、むしろ「独身者の機械」の系譜へと連結していくような、ピグマリオン伝説の新たな語りなおしであるといえるだろう。



写真提供: 小野塚誠   

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