2015年1月29日木曜日

木村 由+蜂谷真紀+森重靖宗@明大前キッド3Fギャラリー



木村 由蜂谷真紀森重靖宗
日時: 2015年1月28日(水)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
3Fギャラリー
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m. 料金: ¥2,000
出演: 木村 由(dance)、蜂谷真紀(voice)、森重靖宗(cello)
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)



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 ベルリンを拠点に活動したFMPは、1960年代に花開いたドイツのフリーミュージックを同時代的にフォローする貴重なレーベルとして知られたが、レコード製作にあたっていくつかのポリシーを持っていた。そのひとつに、演奏家たちをグループ名ではなく個人名の並記で記すということがあり、ときには個人名の並記がそのままアルバム・タイトルになることさえあった。明大前キッド・アイラック・アート・ホールの3Fギャラリーで開かれた木村 由、蜂谷真紀、森重靖宗のトリオ・セッションが、やはり公演タイトルやグループ名を持たず個人名の並記で表記されたことは、個人を最優先するセッションが、かならずしもグループ表現に結びつくとはかぎらないということを、あらかじめ用意周到に示していた。フライヤー製作を担当したチェロの森重は、これまでダンサーとのデュオには積極的だったが、トリオの共演には批判的だった。その理由のひとつに、彼の即興スタイルにとって、デュオのフォーマットが最適であるということがあるだろうが、さらにもうひとつ、演奏家2+ダンサー1のトリオ編成になると、演奏家の間で音楽が先に成立してしまい、ダンスがつけたりのようになってしまうことが多いという過去の経験からだった。森重がこの晩のセッションに臨んだのは、その先を予感させるような条件があったからだろう。おそらくそれは、会場となったギャラリーの特殊な環境と、蜂谷真紀のヴォイスのパフォーマティヴな性格だったのではないだろうか。

 会場となったギャラリーは、5階まであるキッドのビルディングの3階と4階をぶち抜いた空間で、3階にある事務室の屋根が4階の床面となり、外階段とは別に、3階と4階を画廊内の内階段でつなぐ構造になっている。高い天井は深いエコーを帯びた響きを返して出来事の一体感を感じさせてくれるが、その反面、上下階にわかれてパフォーマンスがおこなわれた場合、3階と4階の床面に距離があることや、落下防止の鉄柵などが邪魔をして、出来事の全体を見ることができない。さらにダンサーにとっては──これはキッドにかぎらずどこの会場でも──上下階を結ぶ内階段が、そこでダンスを発生させるには扱いのむずかしい要素となっている。階段の幅の狭さ、落下の危険、動きに大きく影響する傾斜の感覚などが、自由な動きやイマジネーションを縛る要因になるからだ。駒込ラグロットを使った横滑ナナの『すなのおんな』(2012年)、中野テルプシコールに階段舞台を持ちこんだ田辺知美の『霜月金魚鉢』(2014年)など、階段を主人公にして、動きの不自由さを逆手にとった公演が成功している。本公演でも、癖のあるこの画廊の構造が、ひとつの場所にいながら別の階に立つという特別な関係のありようを3人にもたらすこととなった。

 いつもの即興セッションのやり方に従って、公演は二部にわけておこなわれた。前半は、3階の観客を見おろす位置で4階の鉄柵の前の椅子に座った森重が、背後に聴き手を従えてチェロを弾き、後半は、森重と反対に、多種多様な音具を並べたテーブルをはさんで4階の聴き手と相対した蜂谷が、くるくると回転するように動いて演奏、鉄柵をたたいて巨大な音具に変えたり、その外に身を乗り出して、階下の聴き手の上空に声を放ったりした。完全アコースティックの演奏は、音はすれども姿は見えずという環境にあって、空間に自由な響きを放って交感する演奏家の間を、ダンサーの木村が身体的につないでいくものとなった。このとき階段は、多くの場合に通路であり、演技の場とはならなかったように思う。たとえ共演者の演奏に細かな反応を返さなくても、音を放ってさえいれば、天井の高いホールが個々のサウンドを一体感のある響きにまとめてくれる闇鍋のような公演。このなかでは、音を合わせるところに生まれる快感より、たゆたう響きの心地よさに身をゆだねる快感がまさっていた。これは即興によってイマジネーションのジャンプを重ねていく蜂谷の世界より、森重の世界により近いあり方といえるだろう。

 前半は、オレンジ色の面をつけ、男性用の背広とダブダブのスボンを着用、後半は、赤い花飾りがついたカンカン帽をかぶり、顔は白粉でまだら塗り、赤い下駄をつっかけて踊った木村由は、この晩のパフォーマンスを、階段を登りきったあたりの長押に座るところからスタートした。階下の観客を睥睨するような位置にポツンと置かれた一体の人形。表情を消したその面は、黒いギャラリーの壁にオレンジの点を打ったようで、会場を一瞬にして異空間へと変貌させた。お面に黒々と開いた両眼から、外がどこまで見えていたのかはわからないが、4階の森重と3階の蜂谷をそれぞれに見ることのできる踊り出しのポイントは、トリオにおけるダンサーの位置を象徴していた。4階で黙々と演奏をつづける森重を尻目に3階の蜂谷に接近していった前半。ミュージシャンが立ち位置を交換した後半でも、4階の蜂谷に3階から迫っていくというように、木村は似たようなアプローチを反復した。特に後半では、木村が4階に昇ってくると、蜂谷が3階に降りるというチェイスや、木村が4階の鉄柵越しに下駄や靴下を投げ落とす場面もあった。会場の笑いを誘うユーモラスな場面だったが、傍若無人にも見える一連のアクションは、一面において、演奏家の音と拮抗する強度のある音を出すことにつながっており、音楽演奏ではないものの、身体や意識を開放することが即興演奏と別にあるものではないことを示すものだった。

 すでに面識はあったものの、木村と蜂谷はこの晩が初共演。ダンスと音楽という見かけの対立を越え、このふたりの即興には、動きや響きのモチーフを発展させていくこと以上に、身体から衝動的なものを解き放つためのジャンプに賭けるという共通点がある。ある瞬間にすべての梯子がはずされ、時間や空間の連続性に亀裂が入るというような出来事を、パフォーマンスのなかで求めている。この結果、森重のチェロ演奏が、地を這うように濃密な時間を持続していく点に特徴があるのと対照的に、女性ふたりのパフォーマンスは、イマジネーションの飛躍を競うようなものとなった。この時点で、演奏家の間で音楽が先に成立してしまうため、ダンスがつけたりにしかならないという問題は解消されていた。感覚や身体を開くためのイマジネーションのスタイルとジャンルの境界線がずれていることが、いい意味での裏切りにつながったといえるだろう。前半のセッションで、ふたりの演奏家の間をつなぐようだった木村のダンスは、後半で、よりはっきりと蜂谷を追いまわす展開となり、最後には、本公演のスタート地点だった階段脇の長押に彼女を追いつめ、ふたりの顔がこれ以上なく接近したところで終わりを迎えた。蜂谷だからこそ可能になった展開を、木村がうまく収めた幕切れといえるだろう。




*写真提供[3階フロアからの写真]: 長久保涼子   

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2015年1月22日木曜日

勅使川原三郎ソロ『道化』(Update Dance No.17)



Saburo Teshigawara / KARAS|Update Dance No.17
勅使川原三郎道化
日時: 2015年1月16日(金)~21日(水)
会場: 東京/荻窪「カラス・アパラタス B2ホール」
(東京都杉並区荻窪5-11-15)
開演: 3:00p.m.(18日)
開演: 8:00p.m.(16日、17日、19日、20日、21日)
(受付は30分前、客席開場は開演時間の10分前)
料金/予約: ¥2,000、当日: ¥2,500
学生[予約当日とも]: ¥1,500(要学生証)
出演: 勅使川原三郎(dance)
予約・問合せ: TEL.03-6276-9136(カラス・アパラタス)

*観劇日: 1月20日(火)



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 経済的なリスクを軽減したアトリエ公演の利点を生かし、実験的な試みもふんだんに盛りこまれる荻窪カラス・アパラタスの名物シリーズ「アップデイトダンス」の第17弾に、勅使川原三郎の新作ソロ公演『道化』が登場した。想像力の自由さによって拡大していったダンス表現の原点を確認すべく、みずからの身体を手元に引き寄せ、内側から静かに動きを追うことで内省を深めながら、過去と未来を展望させるような空間や時間のなかに身体を置く作業。表現の自由を極端に制限するようなルールを自らに課して作品を作ることは、そうした原点の確認であることはもちろん、これまで歩いたことのない道を開き、意識していなかった身体のレヴェルにまで下降していくことでもある。世紀の変わり目の即興演奏において「リダクショニズム」と呼ばれたこの方法を、新作の『道化』に見ることは、さほど的外れではないだろう。表情の変化をのぞけば、そこに見られたのは、パントマイムの断片と立ち位置の変化という、極めて限定されたダンスらしからぬ動きだったからである。映画的にいうなら、激しい速度で変化しつづける顔の表情に観客の視線をつなぎとめるため、他のいっさいの動きを闇のなかに置くクローズアップの手法として技術的に解釈できるだろうが、そこに勅使川原の血肉となっている前衛主義を見ないではいられない。

 体つきをひとまわり大きく見せる黒い背広の上下と黒靴を着用し、顔と坊主頭と、袖から突き出た両手を厚く白塗りした勅使川原は、膝を曲げることなく、足をゆっくりと前に出して人造人間のように歩行しながら、ステージ上に円を描いたり、観客席まで直進してきたりする間、ただ表情だけを激しく動かしつづけた。怒ったり笑ったり、嘲ったり呆然自失したり、渋面を作ったり思いに沈みこんだりと、なにがそうさせるのかわからないまま、瞬間的に表情を変えつづける顔は、けっして演技といったものではなく、顔という身体の場でおこなうダンスに他ならない。厚く白塗りをしているため、強い照明の光を反射して輝くその顔は、露出オーバーで撮影された映像のようで、ギクシャクと人造人間のように歩行する姿ともども、戦前のドイツ表現主義映画に出てくる怪人を思わせた。よちよちと踏み出す足がふと止まったとき、身体が心なしか前後に傾いでいたり、ぶらさがっただけのような手が迷惑そうに動いたりするところから、ダンサーが細部に意識を集中して踊っていることがわかる。かすかなふるえや注意しないとわからない背骨のわずかな傾斜、こうした身体の細部にフォーカスする意識のありようは、すぐれて舞踏的なものだろう。

 一方では、身体の寡黙ぶりを際立たせようとするのか、照明や音楽の動きは饒舌なうえにも饒舌で、やすみなく動きまわり、「道化」に四方八方から集中砲火を浴びせつづけた。きらびやかに闇の世界を照らしだすステージライトは、遠くにサーカスの祝祭性をこだまさせたものであり、タイトルのイメージをふくらませるニーノ・ロータの映画音楽は、カットアップとモンタージュを加えられ、執拗な反復のなかで次第に意味を喪失しはじめ、中間部では電子的なノイズに場所を譲った。ギクシャクとしたダンサーの動きが空間に満ちた時点で、おそらく動きをリセットするためだろう、場面は暗転し、上手の壁に照らし出される長方形の光の戸口のなかに、まるで壁に立てかけられた人形のように立つ道化の姿が浮かびあがると、そこから再度の歩行が開始される。動きには、ほんの少し違う要素が加えられ、手を棒のようにあげて歩いたり、上半身をマイムふうに動かす動作をはさみこんだりした。リセットによって区切られた時間を場面転換とみることもできる。想像をたくましくすれば、そこには、はるか昔に引退してしまった華やかなサーカスの世界を思い出す場面だとか、突然、死を待つ現実に突き落とされる場面、あるいは混濁をはじめた意識に、過去のイメージがいびつにゆがみはじめる場面などが見えてくる。

 しかしながら、フェリーニの映画を彩るニーノ・ロータの音楽、きらびやかに闇の世界を照らしだすステージライトなどを合算したところで、もし「道化」というタイトルがなかったなら、不自由な身体をもてあまし、歩くにも人造人間のようにギクシャクしてしまう白塗りのダンサーが道化だとは、誰も気づかないだろう。タイトルを物語の枠組にして見てみれば、老いさらばえて、身体の自由もきかなくなり、見向きもされなくなった老人が、サーカスの時代に道化として華やかに活躍していた記憶を心にたぎらせながら、過去を思いかえすほどに、これまでの悪行や不徳の記憶にさいなまれ、目前に迫った死に恐れおののくといった人物風景が見えてくる。さらにいうなら、「道化師」ではなく「道化」というタイトルの採用には、作品が演劇的な場面をダンス化したという以上に、ここまで長い年月を踊ってきた勅使川原三郎その人の自画像であることが暗示されている。老いた道化を描写するのではなく、この男こそが道化なのだと宣言するようなダンス。特に、ステージを観客席まで直進してきて、舞台の下に降りた、というより落ちたところで、観客席の暗がりから舞台を見返すとき、誰もいなくなった舞台に照明が入る場面は、世界的に活躍するこのダンサーの、いまの心情を映し出すもののように感じられた。




 【関連記事|勅使川原三郎|Update Dance Series】
  「佐東利穂子ソロ『ハリー』(Update Dance No.15)」(2014-12-28)

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2015年1月20日火曜日

現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13|Part 5


ダンスがみたい! 新人シリーズ13
日暮里d-倉庫
日時: 2015年1月5日(月)~18日(日)
会場: 東京/日暮里「d-倉庫」
(東京都荒川区東日暮里6-19-7)
料金: 前売/当日: ¥2,300、学生: ¥2,000
通し券[10枚限定]: ¥6,800、学生: ¥5,800
主催: 「ダンスがみたい!」実行委員会 共催: d-倉庫
舞台監督: 田中新一、佐藤一茂
照明: 安達直美、久津美太地、金原知輝
音響: 相川 貴、許 斐祐
映像: workom 宣伝美術: 林 慶一
協力: 相良ゆみ、山口ゆりあ、高松章子、仲本瑛乃、楡井華津稀、OM-2
記録: 田中英世(写真)、船橋貞信(映像)、前澤秀登(写真)
監修: 真壁茂夫 制作: 林 慶一、金原知輝



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第八夜: 1月18日(日)
29. 横田 恵『さわやかガーデン』
30. 加藤かりん李真由子『(タイトル未定)
31. 後藤かおり安藤暁子『hako』
32. スピロ平太『肛門のメドゥーサ』

 横田恵(よこた・けい)『さわやかガーデン』は、ダンサー自身の誕生から母親を看取った経験までを描き出したレクイエムだった。録音日を告げる母親の生前の声といっしょに収録された赤ん坊の泣声にはじまる物語は、背後の壁に投影された空の映像のなかに入っていくダンスという、天に舞いあがる母の魂を、生きている彼女がトレースするクライマックスにつながっていく。タイトルはおそらく母親が守り通した家庭像なのだろう。亡き母への思慕にあふれた美しい作品だった。加藤かりん/李真由子のコンビは、おなかの出る短い上着と丈の長いスカートを着用、中間部でアラブ音楽を使うポピュラーな構成で、美しくシンクロするデュエットを踊った。これと対照的だったのが、コンテンポラリーダンスの後藤かおりと日本舞踊の安藤暁子という異色コンビによる作品『hako』である。どんなに近寄っても相手が見えず、それぞれが別の動線=動きの位相をたどっていくという、歌舞伎の「だんまり」をモデルにしたらしい関係の描き方が斬新だった。個々のソロを展開するなかで、安藤がコミカルに芸能的な語りをしてみせる思い切った場面もあり、それぞれの異質さを保持するというよりむしろ強調してみせながら、どうしたら新しい関係性を舞台上で結ぶことができるのかに焦点のあてられた作品だったと思う。何度か訪れる出会いの場面は、衝撃的な遭遇として演出されていた。

 スピロ平太の『肛門のメドゥーサ』は、『エクソダス フロム 肛門』『肛門+人間』につづく肛門三部作の完結編とのこと。観客を飽きさせない入念に作られた構成と、露悪さと奇抜さの連続がすべてといったパフォーマンスで、新人シリーズでは例外的な存在であることを誇示した。口と肛門を等価なものとしてイメージするのは、発生学的には正しい理解で、感覚的には抵抗があるにせよ、形態学的にはドーナツと同じようなものということになっている。なにやら風変わりな装置を身にまとったスピロ平太は、ステージに煙幕が吐き出されるなか、楽屋口からぼんやりと登場した。よく見ると、かぶりものの肛門から白塗りをした顔がのぞいていて、その脇に突き出した二本の脚に手が通され、みずからの股間には、ダッチワイフのような女の頭をぶらさげている。ステージ中央に敷かれた茣蓙にこの装置で仰臥すると、頭と尻が反転して見えてくるという趣向。上手奥で打楽器をたたくごとうはるかが、ラジカセのスイッチを入れ、スピーカーから「アベマリア」が流れ出すと、それを合図にして、背中にヴァイオリンの作り物を貼りつけた加藤知子が、観客席から舞台に飛びこんでくる。スピロ平太は彼女を逆さに抱え、お尻を顔のあたりに置くいささか下品な姿勢をとると、作り物の弓で背中を弾きはじめるというベタなコントなのだが、これが何度か反復されているうち、あまりのバカバカしさに笑いがこみあげてくる。予想外の展開に会場は引いたり沸いたりした。


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【付記】119日(月)日暮里d-倉庫にて「ダンスがみたい!新人シリーズ13」の講評会・授与式が開催された。審査委員は、岡見さえ(舞踊評論家)、志賀信夫(舞踊評論家)、藤原央登(『シアターアーツ』編集長)の3人。受賞作品は、新人賞が黒須育海『二つの皿』、オーディエンス賞が杉田亜紀『無印』だった。初日から最終日まで、カレンダーを繰るようにエントリー作品を追っていきながら、休憩もとらずに2時間以上、その場でダンスのワンシーンを思い出し、経過を描写することもしながら、途中で発言の順番を入れ替え、3人の審査委員が共同でほぼすべてのエントリー作品について触れ、なにがしかの感想や意見を述べるという大変な講評会であった。冒頭の総評で、今回は全体的に似たような作品傾向が見られたこと、審査委員の意見を二分するような問題作がなかったこと、男性のダンサーが多かったことなどが述べられ、受賞作品には、「動物がうごめいているような生々しさとはかなさ」(藤原)、「普遍的な欲望の形」「ささやかな日常性」(岡見)などの言葉が寄せられた。審査委員が、口々に、男性5人が一列になって女性1人に迫る『二つの皿』の一場面を評価していたのが印象的だった。



 【現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13】
  1. 前書き|第一夜: 1月5日(月)
  2. 第二夜: 1月6日(火)|第三夜: 1月7日(水)
  3. 第四夜: 1月13日(火)|第五夜: 1月14日(水)
  4. 第六夜: 1月16日(金)|第七夜: 1月17日(土)
  5. 第八夜: 1月18日(日)|【付記】講評会&授与式

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現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13|Part 4


ダンスがみたい! 新人シリーズ13
日暮里d-倉庫
日時: 2015年1月5日(月)~18日(日)
会場: 東京/日暮里「d-倉庫」
(東京都荒川区東日暮里6-19-7)
料金: 前売/当日: ¥2,300、学生: ¥2,000
通し券[10枚限定]: ¥6,800、学生: ¥5,800
主催: 「ダンスがみたい!」実行委員会 共催: d-倉庫
舞台監督: 田中新一、佐藤一茂
照明: 安達直美、久津美太地、金原知輝
音響: 相川 貴、許 斐祐
映像: workom 宣伝美術: 林 慶一
協力: 相良ゆみ、山口ゆりあ、高松章子、仲本瑛乃、楡井華津稀、OM-2
記録: 田中英世(写真)、船橋貞信(映像)、前澤秀登(写真)
監修: 真壁茂夫 制作: 林 慶一、金原知輝



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第六夜: 1月16日(金)
21. ブラバニ牟田のどか、新居さくら(タイトル未定)
22. 尾花藍子『とけるころ』
23. ASMR石丸麻子、滝野原南生、渡部里菜、井口知織
 『ゲームのような』
24. C×C久保佳絵、藤井咲恵『君と僕』

 主人と奴隷のテーマを下敷きにしながら、影を奪いあったり、劇団四季の『キャッツ』を思わせるレオタード姿にバレエのトウシューズを履くという組みあわせで二匹の猫のからみを演じたり、真紅の衣裳でキャバレー風のステップを踏むなど、コント仕立ての場面をつなげて変身の欲望を思うぞんぶん行使したブラバニ。かたや、尾花藍子が振付・演出を担当した『とけるころ』は、動きをスケッチしたような作品で、白い正方形の敷物の周囲を、飯塚友浩、白井愛咲のふたりが出会うことなく回るところからスタート、途中で手をつなぐ和解の場面が入り、シンプルな身ぶりを反復しながらそれぞれの動線を取る場面で終結した。タイトルの「とけるころ」は、性別や身体の距離感は違っても、C×C『君と僕』に通じる関係の親密さが扱われたことを暗示する。おそろいのコギャル衣裳で、器械体操のようなダンスを展開したASMRの作品『ゲームのような』は、「ダメよ~ダメダメ」でブレイクした日本エレキテル連合のダンス(東京ゲゲゲイとの共作)のようで、ダンサーがひとりずつ死んでいく漫画チックな展開ともども、現代的テイストにあふれたものだった。

 C×Cの『君と僕』は、暗転から赤い照明が入る公演の冒頭、黒タイツに全身を包んだ久保佳絵と藤井咲恵が、どう見てもひとりのダンサーが身体を丸めて床のうえにうずくまっているようにしか見えない肉の塊からスタートした。コンタクトによる新しい動きの形という発想を越え、触れることそのものに焦点をあてたダンスはこのコンビだけだった。しばらくすると、床のうえで身体がゆっくりと回転をはじめ、ふたつの身体が絡みあったものであることが観客にもわかってくる。抱きあうことの喜びという、心の底では誰もがもっている欲求が、エロチシズムの体裁をとって語られた場面。このあと立ちあがったふたりは、ありがちの対立的な関係を踊りはじめてしまうのだが、最後にまた触覚を際立たせるこの場面へと戻ってくる。終演後、冒頭の場面にショックを受けたらしい女性の観客が、「ダンスじゃなかったら、ホモセクシャルだ」と発言しているのを耳にした。触れることそのものに対する拒否反応、あるいは怖れ。こうした感情があることを知ると、土方巽が演出した『禁色』も、舞踏の世界でこそ「歴史」になっているが、メインストリームの世界では、いまなお公序良俗を乱すものとして存在するのかもしれない。

 主人と奴隷/変身願望、関係の境界線をめぐるテーマ、身体的な接触と対立というように、味わいが大きく異なる作品ながら、ふたつの身体の間に生まれる関係ということでは、第六夜にエントリーした3作品には共通点があった。これらの作品に対したとき、ASMRの『ゲームのような』は、対幻想の閉じた関係を開くような身体を提示したといえるだろう。器械体操のような乾いた身ぶり、「個性」を抹消する超ミニのコギャル衣裳などは、男の凡庸なイマジネーションを引き寄せながら、同時に拒絶するという視線の宙づり状態をもたらすことで、女というイメージの外部へ逃走していくための装置だった。しかし作品はそこにとどまらず、椅子取りゲームやカルタの場面を借りた漫画チックな殺人ゲームが、4人から1人へとダンサーを減らしていく展開をみせ、身体は社会的な関係性のなかに描き出されることとなった。逆説的にいうなら、ゲームのような殺人、殺人のようなゲームによってしか関係を作ることのできない社会性を描き出したところに、現代的な感覚の横溢があったといえるだろう。最後に残った二人は、機械人形であることをやめ、「女性」に変身するのだが、それがゲームのあがりではなく、じつは最後の殺人ゲームをプレイする権利を獲得しただけでしかないという皮肉な結末も、最終的な判断を観客にゆだねて秀逸な作りだったと思う。


第七夜: 1月17日(土)
25. 坂田有妃子石原夏実、加藤 律、佐渡島明浩『1から 42』
26. 山田花乃『体』
27. Nect川島沙織、鈴木菜奈/二瓶野枝『おんなのさが(仮)
28. 杉田亜紀『無印』

 坂田有妃子が振付けたカルテット作品『1から 42』は、ダンサーの立ち位置を使って関係性の物語を紡ぎ出す一方、中間部では、2組の男女ペアをステージ上に配して出来事を同時多発的に展開するなど、「動きのオーケストレーション」と呼べるような力作をエントリーした。数々の名演があることから、超難曲と思われるラヴェルの『ボレロ』を踊った山田花乃(やまだ・かの)の『体』は、最後にディランの歌う『ミスター・タンブリンマン』に移行して終わった。『ボレロ』のクライマックスを回避した終わり方は、ダンス作品の全体像を構想できていないことのあらわれだったように思う。二瓶野枝が振付けた Nect の作品『おんなのさが(仮)』は、女性がよくするしぐさをサンプリングして三部構成の場面で描いたものだった。ASMR16日)の対極にあるような方法/戦略で女性性にアプローチしたのが印象的だった、杉田亜紀の『無印』は、無音のなかでステージセンターにじっと蹲踞する姿勢にはじまり、フランス語の台詞が入るジャズ演奏を流しての映画的な場面展開(特に、細かな暗転を使った視覚の切断/モンタージュは、勅使川原スタイルで面白かった)、「キャッチして」と言いながら楽屋口の外からステージにたくさんのテニスボールを投げこむなど、ダンスとしての意味をはずすような動きをつないでいく異色作だった。

 生活空間においてごく自然にやりとりされる女性のしぐさをサンプリングした『おんなのさが(仮)』は、あるあるネタでもなく、オリジナルな女性表現でもなく、対幻想のなかで再生産されつづける女のイメージに対する批判、パロディとして受け取るべきものと思われる。C×C(16日)が『君と僕』の冒頭で見せたような、身体どうしを密着させてからめあう場面が、本作の冒頭部分にも登場するが、触れることをテーマにしているわけではない振付は、あくまでもコンタクトの形式内にあった。この相違は重要である。というのも、冒頭のこの場面は、『おんなのさが(仮)』における女性的なしぐさや動きが、形式的に扱われるだろうことを雄弁に語っているからである。さらに重要なのは、女性のイメージの外部へ逃走していこうとするASMR『ゲームのような』(16日)と、女性のイメージの内側にとどまりながら、それを過激にしていくことで批判へともたらそうとする『おんなのさが(仮)』の方法/戦略が、あざやかな対照性を描き出していることである。どちらが正解というような話ではない。現代のダンスがどこに成立するかという本質的なテーマが、両者の戦略の相違を根底で支えているということである。


 坂田有妃子『1から 42』の冒頭場面。4人のダンサーがランダムに激しく動くなか、ほっそりと痩せた佐渡島明浩が、頭のてっぺんで他のダンサーに次々と触れていくと、触れられた者の動きは静まり、場面は全員で右脚を前に投げ出すトゥッティへと移行していく。あるいは、ひとりひとりが空中に一本指を立てて文字をなぞるしぐさ。たとえば、佐渡島が上半身を振り回しながら文字の形を描き出したり、加藤律が下手の壁に沿って歩きながら壁に文字を書きつけていったりと、おそらくはタイトルの数字の形をなぞっているのであろう身体が、同時多発的にステージ上に配置される。ふたつにわけられた男女ペア[坂田+加藤、石原+佐渡島]は、それぞれ別個の関係性を踊ることで、出来事の同時多発性をさらに複雑なものにした。ひとつの場面を提示するという演劇の尾骶骨を捨て、楽譜に見立てたステージに、本来が抽象的なものである身ぶりをダイレクトに配置していくという発想は、交響曲のようにコンポジションされた動きのオーケストレーションと呼べるものだった。(続)



 【現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13】
  1. 前書き|第一夜: 1月5日(月)
  2. 第二夜: 1月6日(火)|第三夜: 1月7日(水)
  3. 第四夜: 1月13日(火)|第五夜: 1月14日(水)
  4. 第六夜: 1月16日(金)|第七夜: 1月17日(土)
  5. 第八夜: 1月18日(日)|【付記】講評会&授与式

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現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13|Part 3


ダンスがみたい! 新人シリーズ13
日暮里d-倉庫
日時: 2015年1月5日(月)~18日(日)
会場: 東京/日暮里「d-倉庫」
(東京都荒川区東日暮里6-19-7)
料金: 前売/当日: ¥2,300、学生: ¥2,000
通し券[10枚限定]: ¥6,800、学生: ¥5,800
主催: 「ダンスがみたい!」実行委員会 共催: d-倉庫
舞台監督: 田中新一、佐藤一茂
照明: 安達直美、久津美太地、金原知輝
音響: 相川 貴、許 斐祐
映像: workom 宣伝美術: 林 慶一
協力: 相良ゆみ、山口ゆりあ、高松章子、仲本瑛乃、楡井華津稀、OM-2
記録: 田中英世(写真)、船橋貞信(映像)、前澤秀登(写真)
監修: 真壁茂夫 制作: 林 慶一、金原知輝



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第四夜: 1月13日(火)
13. 立石裕美『1960 イチキューロクマルドラマトゥルク: 川口隆夫
14. まさおか式政岡由衣子佐々木崇仁『死して屍拾う者なし』
15. KEKE『埒音(ラツオン)
16. 仙田麻菜『ドキュメント』

 4つの小道具を次々にステージに運びこむところからパフォーマンスをスタートした立石裕美は、頭に見立てた大きなボールを奥に置き、胴体に見立てた長い紙をその下に敷き、下手には災害の映像を映し出すパソコンを、また上手には投光器を置いて、なんとなくヒトカタに見えるような図柄を作った。そのうえで、頭に見立てた大きなボールのうえに背中を乗せたり、胴体に見立てた長い紙のうえに寝そべって身体の線をなぞったり、上手の投光器を中央に移動して、スタンドにかけて縦にした紙に自分の影を投影して形をなぞるなどのパフォーマンスをおこなった。身体の痕跡を残すためには、メディアの身体性が必要であることを可視化したかったのだろうか。まさおか式の『死して屍拾う者なし』は、政岡由衣子が小型レコーダーを左腕に装着するところからスタート、次々と会場に流れるヒットソングとは違う音楽をイヤホンで聴きながら、外音を無視して激しく踊った。政岡がほんとうに別の音楽を聴いて踊っているのかどうかは、最後までわからない。ステージ上にふたつずつあてられた四角と円形のスポット、そのなかで強い照明に照らされて踊る場面と、光の外側に出て走りまわる場面を交互において、空間の境界性を強調したKEKEの『埒音(ラツオン)』、そして最後の『ドキュメント』では、赤い布を頭から顔へとぐるぐる巻きにして登場した仙田麻菜が、ほどいた布を口から垂らしながら踊るなど、印象的なシーンを構成した。

 外音をいっさい出さず、ヘッドホンをしたパフォーマーが、聴こえてくる音楽をなぞって歌ったり踊ったりするのを一種の翻訳作業とみなし、いったいどんな原曲がこんなパフォーマンスに翻訳されたのか、パフォーマーの個性を楽しみながら、観客があれこれ想像するというアイディアはこれまでにもあった。まさおか式の『死して屍拾う者なし』が一頭地を抜いていたのは、なによりもヘッドホンをした政岡由衣子が、観客の視線を無視してみずからに沈潜し、動きを身体の奥底から湯水のように汲みあげてくるダイナミズムによるものだが、それと同時に、観客に外音で別の音楽を聴かせることで、ダンサーがイヤホンで聴いている音楽との間にずれを引き起こし、ダンサーに対しては音楽と身体を連動させることを、また観客に対しては音楽から身体を引き離すことを同時にしてみせるという巧妙な両面作戦をとった点にある。アートとは無関係に、あるいはアート以前に存在する、音に対するダンサーの身体的欲求をぞんぶんに満たしながら、音に合わせたダンスの予定調和を回避するというこの戦略は、目からウロコものであった。最後は、センタースポットのなかに立った政岡が、外音を消した無音状態のなか、激しい動きに何度もイヤホンを弾き飛ばしながら、静寂のなかの踊りを激しく踊りきった。音楽に対する身体の戦略は、石井則仁(7日)が採用した完全無音の対極をいくものだが、いずれも明確な態度表明がすばらしかった。


第五夜: 1月14日(水)
17. 小山晶嗣『うぶ毛~重さに赴く思い~』
18. 高橋和誠『寒撥』
19. 佐々木すーじん『ダンスがみたくない!新人シリーズ』
20. 黒須育海『二つの皿』

 小山晶嗣が『うぶ毛~重さに赴く思い~』で見せたチェック模様の車椅子とコンタクトしながらするダンスは、人間の車椅子化ではなく、車椅子の人間化と結びつき、ヒューマニズムに立脚するものだった。身体の一部分をクローズアップした映像を組みあわせた場面もあったが、本シリーズでの映像の使用は本作が初めてだった。作品の導入部分で、客席前に歩み出て変顔をしてみせた高橋和誠の『寒撥』は、先鋭的なエレクトロニカの音楽を使って近未来的な身体イメージの創造に挑戦したものであろう。舞踏に近似した身体の物質化が、別の仕方でおこなわれている。観客に作品の意図をいろいろと語りかけながら、くねくねとした独特の動きでダンス/非ダンスの境界領域を探索していった佐々木すーじんの『ダンスがみたくない!新人シリーズ』は、観客に公演意図を告げながらするという、ポストドラマ的な構想を問うような作品だった。黒須育海の『二つの皿』は、女性1人を含む6人編成の群舞を振付けた作品。男×女・男×男のデュエット、2人×3組の同時進行ダンス、男性5人×女性1人のアンサンブルといった多彩なコンビネーションで場面を展開していった。男性の身体運動が持つダイナミズムを生かした振付は重厚なものだったが、動きを知的に構成するせいか、コンテンポラリーダンスがすでにそういうものなのか、観客の視線を裏切る、とんでもない動きが突発的に出現することはなかった。観客を驚かせることのない身体に、ほんとうの意味で、他者の視線を巻きこんでいくことなどできるだろうか。


 エレクトロニカを採用した高橋和誠『寒撥』の独特なダンス構成は、音響の物質化に相当する身体の物質化を、彼なりの方法でテーマにしたところに生まれたものと思われる。身体の物質化は、山海塾の舞踏手である石井則仁(7日)が背面を「質量化」したように、なによりも舞踏が切り開くことになった領域といえるだろう。かたや、楽屋口から這い出した高橋が動きのなかに取り入れた仰臥する姿勢、立てない身体、人形ぶり/ロボットダンスなどは、語法として学習された記憶のなかの身体イメージというべきもので、「物質化」とは別のものだったように思われる。むしろ観念化する身体の非日常性に触れていることが、高橋のダンスの魅力ではないかと思われた。身体の物質化、すなわち「非人間的なもの」の境界領域にあるマイム、人形ぶり、ロボットダンス的な動きは、羽太結子(5日)の作品にも登場していた。羽太の場合、パントマイムや人形ぶりを「シルクの下着のエロチックな質感で包む」という「機械的なものと人間的なもの」との「ミックス」は、「表現のしようのない特異なもの」「サイボーグ・フェミニズム」の行使と感じられたのだが、同系統の語法が、『寒撥』において記憶のなかの身体イメージにしか感じられないということの間には、技法の巧拙の問題ではなく、ジェンダー問題が横たわっていると思われる。ともに「非人間的なもの」を経由する動きが、女性の身体においては、「女」に付与されたイメージの外側に出ることを意味する(既存の関係性からの解放)のに対し、男性の身体においては、エレクトロニカの近未来性と併置されることで、(高橋本人の意図はわからないものの)通俗的な舞踏のイメージが、すでにいまの感覚からずれていることを暴露してみせる結果になったのではないだろうか。(続)



 【現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13】
  1. 前書き|第一夜: 1月5日(月)
  2. 第二夜: 1月6日(火)|第三夜: 1月7日(水)
  3. 第四夜: 1月13日(火)|第五夜: 1月14日(水)
  4. 第六夜: 1月16日(金)|第七夜: 1月17日(土)
  5. 第八夜: 1月18日(日)|【付記】講評会&授与式

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現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13|Part 2


ダンスがみたい! 新人シリーズ13
日暮里d-倉庫
日時: 2015年1月5日(月)~18日(日)
会場: 東京/日暮里「d-倉庫」
(東京都荒川区東日暮里6-19-7)
料金: 前売/当日: ¥2,300、学生: ¥2,000
通し券[10枚限定]: ¥6,800、学生: ¥5,800
主催: 「ダンスがみたい!」実行委員会 共催: d-倉庫
舞台監督: 田中新一、佐藤一茂
照明: 安達直美、久津美太地、金原知輝
音響: 相川 貴、許 斐祐
映像: workom 宣伝美術: 林 慶一
協力: 相良ゆみ、山口ゆりあ、高松章子、仲本瑛乃、楡井華津稀、OM-2
記録: 田中英世(写真)、船橋貞信(映像)、前澤秀登(写真)
監修: 真壁茂夫 制作: 林 慶一、金原知輝



♬♬♬





第二夜: 1月6日(火)
5. GRILLED BITCH CONTROL野口千明、中原百合香
 『INSIDER/OUTSIDER』
6. 藤井友美『顔』
7. 田路紅瑠美『(タイトル未定)
8. モモ加藤未来、横山幸代『春はごきげん』


 2組の女性デュエットは、最初に踊った『INSIDER/OUTSIDER』のグリルドビッチが、片方が赤いタイツをはくと片方が緑のタイツをはき、片方が白い衣裳で登場すると片方が黒い衣裳で登場するというように、つねに対立的な関係をダンス仕立てにしたのに対し、最後に踊った『春はごきげん』のモモは、赤いワンピースに白い上着を羽織るという巫女さんふうの衣裳をおそろいで着用、観客席に笑いかけるしぐさを反復しながら、ともに似たような動きをするという差異的な関係を踊った。藤井友美の『顔』は、脚立に登って楽屋口の屋根にクリップライトをとりつけるところからスタート、白色の光が舞台を冷たく照らし出すなか、長い髪で顔を隠しながら、じっと壁に吊りさがったり、激しく踊り狂ったり(無音の状態から、16ビートのファンクが入ってくる)するなど、特異な動きで構成された場面をつなげていくハードボイルドなダンスを見せた。女性ダンサー5人による田路紅瑠美の作品(タイトル未定)は、全員が一列に横並びしてステージ奥と客席前を往復するうち、ひとりが動きから遅れたり、ひとりが床に倒れたりして、少しずつ変化を加えていくというミニマルかつアブストラクトな内容だった。ダンスは途中から同時多発的なものへと転調。

 第二夜を観た段階で気づいたのは、新人シリーズが、第一義的には期待される新人の選出を目的としたものでも、32組の全体によって提示される身体の集団性にも、一夜ごとに組みあわされるエントリー作品の間にも、それを観た観客(の身体)を介して、固有の関係が生じるということだった。たとえば、2組の女性デュエットの間にあらわれる<対立vs.差異>の関係も、藤井友美と田路紅瑠美の間にある<ソロvs.群舞>の対立性も、ベストの一組を選択する意識のなかではおもてだってこない。これは4つのエントリー作品の組みあわせ次第で、解釈の枠組に変化がもたらされ、ひるがえって個々のパフォーマンスそのものの意味も変わって(見えて)くるということだろう。群舞に焦点をあてれば、大東京舞踊団(5日)がポップカルチャーをモデルにしていたのと対照的に、田路紅瑠美の作品は、現代音楽のように精密な形式性を備えていた。多彩な動きを複雑に組みあわせながら、動きが同時多発してくる場面でも、全体が筋の通ったものとして見えるという明確な方法をもっていた。群舞において、動きが独立して相互干渉しなかったのは、作品の抽象度にあると思われる。抽象画を構成する色や形を身体の動きに置きかえた作品と考えるとわかりやすいだろう。5人のうち2人ずつの組みあわせで動きを作ると、かならず1人あまるというメンバー構成も、一枚の抽象画のなかに静と動を共存させることにつながり、ひとつの空間に速度の相違を生んで、ダンスを豊かなものにしていた。

 グリルドビッチのような<対立>ではなく、C×C(16日)のような<触覚>でもなく、ブラバニ(16日)のような<シンクロ>でもなく、後藤かおり+安藤暁子(18日)のような<並走>でもない、どこまでもゆるい関係を結びながら、ふたりの巫女が、あちらに固まり、こちらで肩寄せあいながら、舞台のうえでさわさわと無心にさざめいているようなモモ(加藤未来、横山幸代)のダンスは、エントリーされたデュエットのなかでもひときわユニークなダンスを作りあげていた。固有の身体と身体がぶつかりあうハードな関係性を前提とするのではなく、似たような身体がささやかな違いを楽しんでいる様子を、ぎりぎりのゆるさで作品にしていく手腕。似て非なるふたつの身体の間にあるフラジャイルな空気感だとか、のるかそるかのぎりぎり感などが振付で焦点化されたわけではなかったが、そうした関係を織りあげていくダンサーの繊細な皮膚感覚を、リアルに感じとらせる作品になっていた。1980年代のアイドル・ユニット “Wink” が一世を風靡したのは、ザ・ピーナッツやこまどり姉妹など、旧来の女性デュオに見られた血の相似形が、ささやかな差異を遊ぶことの開放感に置き換えられたためと思われるが、それと似たような関係性がモモにあらわれていたように思う。


第三夜: 1月7日(水)
9. 石井則仁『AFTERGLOW』
10. 吉川千恵安藤真理『KARE-OHANA』
11. すこやかクラブ上本志保、向原 徹、その他
  『パナマの二郎さん、北へ』
12. 熊谷理沙『カサブタ』


 演出家としての手腕を遺憾なく発揮した石井則仁の『AFTERGLOW』は、ステージに一方的なまなざしを向ける観客を、闇や明滅する蛍光灯で観客席から引きずり出しながら、それ自体が別の生きもののように波打つ背面に直面させる驚愕の作品だった。背面のダンス自体は、土方巽の時代から伝統的な舞踏のテーマになってきたオーソドックスなものだが、それを提示するスタイルに石井ならではの独自性がある。言葉を受ける身体によってダンスする吉川千恵と、宛先なく言葉を発しつづける安藤真理(女優)という非対称な女性デュオの『KARE-OHANA』(映像:田中直美)では、一方通行の関係が解決をみないまま場面転換していく。やはり演出に力の入れられたすこやかクラブ[上本志保、向原 徹、その他]の『パナマの二郎さん、北へ』は、大東京舞踊団(5日)のように、メディア感覚を前提にした舞台作品で、テレビのバラエティ番組をダンス空間に持ちこんだようなもの。下ネタも含み、いささか露悪的な司会者の語りとダンスの組みあわせは、それぞれが別物のように感じられた。熊谷理沙『カサブタ』は、極端に裾の長いドレスでステージをゆっくりと対角線に歩き、梯子を中段まで昇りながら、変形した赤い提灯のようなオブジェを暗闇のなかでともすなどの場面があったあと、一転してはじけたように踊りはじめ、最後に、ほんの一瞬、出演者出入口の屋根のうえに立つ姿を見せたところで終幕。風景を描き出そうとするダンスだった。


 客電がはいったままの観客席、公演がはじまったのかどうかわからない状態のなか、まだ照明が入っていないステージにふらりと出てきた石井則仁は、舞台を一周、二周しながら、会場に誰が来ているのかを確かめるように、観客席へ視線を放つ。薄暗闇に白いシャツがぼんやりと浮きあがる。いつもはまなざされるだけのダンサーから放たれる視線は、劇場における視線の一方通行性を撹乱する。やがて客電が落ちると、上手と下手、ステージ奥の三方向におかれた蛍光灯が不規則な点滅をはじめる。蛍光灯の光は強烈で、逆光になってダンサーの姿は見えない。やはり蛍光灯を使った伊東篤宏のオプトロンが音楽を切り裂くのと同じように、強烈な光は劇場構造をズタズタに引き裂いていく。根源的に暴力的でしかありえないようなものの侵入。習慣化された観劇という関係の安定性を破壊された観客は、裸にされた視線をもって、真っ暗闇のステージの中央にスポットライトを浴びて出現するダンサーの背面に、まさしく投げ出される。巧みに照明を使ったクローズアップの手法だ。肋骨を波打たせる背面は、まるで身体から切り離されたようで、それだけが暗闇のなかに浮く巨大な昆虫となって、独特の質感を獲得していた。(続)


 【現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13】
  1. 前書き|第一夜: 1月5日(月)
  2. 第二夜: 1月6日(火)|第三夜: 1月7日(水)
  3. 第四夜: 1月13日(火)|第五夜: 1月14日(水)
  4. 第六夜: 1月16日(金)|第七夜: 1月17日(土)
  5. 第八夜: 1月18日(日)|【付記】講評会&授与式

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現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13|Part 1


ダンスがみたい! 新人シリーズ13
日暮里d-倉庫
日時: 2015年1月5日(月)~18日(日)
会場: 東京/日暮里「d-倉庫」
(東京都荒川区東日暮里6-19-7)
料金: 前売/当日: ¥2,300、学生: ¥2,000
通し券[10枚限定]: ¥6,800、学生: ¥5,800
主催: 「ダンスがみたい!」実行委員会 共催: d-倉庫
舞台監督: 田中新一、佐藤一茂
照明: 安達直美、久津美太地、金原知輝
音響: 相川 貴、許 斐祐
映像: workom 宣伝美術: 林 慶一
協力: 相良ゆみ、山口ゆりあ、高松章子、仲本瑛乃、楡井華津稀、OM-2
記録: 田中英世(写真)、船橋貞信(映像)、前澤秀登(写真)
監修: 真壁茂夫 制作: 林 慶一、金原知輝


♬♬♬





 ダンス作品における批評性について触れる場合、身体がかならずしも言葉をもたずにそのことをするという点に、演者も観者も、留意しなくてはならないように思う。身体は、むしろ意識よりも速く、批評の言葉を出し抜き、驚くべき複雑さをもって出来事を実践してしまうということ。パフォーマンスする身体に批評性を見いだすのは、他でもない、出来事をただ見るしかない観客の視線であり、語り、書く批評家の言葉である。ダンサーが批評性を意識して振付をし、解説文にもそのように書き、踊り出すような場合でさえ、現実にパフォーマンスする身体は、そうした言葉すら飲みこんでいく複雑怪奇な出来事に巻きこまれてそのことをすることになるだろう。それよりもなによりも、言ったこととやったことは別ではないか。身体は言わなかったこと、言わずにおこうとしたことまでも言ってしまい、やるはずでなかったことまでしてしまい、行く予定になかった場所にまで踏み出していく。あらためて即興という方法を採用しなくても、身体とはもともとそういうものだ。言葉には還元できない、身体ならではの批評性があらわれるのは、こうした場においてではないか。

 ひとつのパフォーマンスについての見解の相違は、好みの問題に収斂しがちだが、「ダンスがみたい! 新人シリーズ13」にエントリーされた全32作品を観るという特別な経験のもとでは、そこに統計的な意味合いが生じ、作品解釈の枠を超えて、演者や観者がそれぞれにもっている感覚の相違、あるいは感覚の布置の相違が浮びあがってくる。それは、これこれが見える/見えない、これこれが聴こえる/聴こえないという感覚のレベルはもちろん、たとえそのことが見えたり聴こえたりしていても、身体および身体表現にとって重要であると感じられる/感じられない、という価値観のレベルまで、具体的な形をとってあらわれてくることによるものである。また、ひとつの作品を、他のどの作品と、あるいは、もっと広範囲に、ダンス史に出現した過去のどの作品と関連づけるかで、解釈の枠組に変更が加えられ、見えてくるもの(「不可視の身体の可視化」と呼べるもの)がまったく違ってしまう。注意すべきは、作品解釈というのは、作品どうしを線で結ぶという、恣意的でもあれば必然的でもある身体的行為に支えられているということである。個々の身体の感覚、感じ方を通したこの連結が多様であればあるほど、当の作品が潜在的に抱えている多面性は現実的なものになるだろう。以下の長々しいレポートは、そのような身体地図の作成としておこなわれるものである。


第一夜: 1月5日(月)
1. 中村 理『花とフラワー』
2. いそいそとよこ、ヨーコ、ゆみたろー、大由鬼山『通り風』
3. 羽太結子『メタモルフォーゼ』
4. 大東京舞踊団『あけましておめでとうございます。
  今年も踊り死ぬ所存でございます。』


 いまや絶滅危惧種となった黒電話を抱えてステージに立ち、呼び鈴が鳴って受話器を取ると、電話口から流れはじめる音楽にのって踊るという奇抜なアイディアがコミカルだった『花とフラワー』の中村理。下手の壁際に置かれた椅子に泰然自若として腰をおろし、出番がくると、ダンサーを凝視しながら尺八を吹いた大由鬼山の印象が強く残ったいその『通り風』。尺八の採用には、ダンス空間を吹き抜ける風尺八というようなイメージ連鎖があるのかもしれないが、現実のダンスと演奏家の身体がかかわりを持たないため、それぞれが別ものとしてステージ上に出現、辻褄あわせに終始した感があった。ユニークな動きを坦々と連続していった羽太結子の『メタモルフォーゼ』は、ひとり黙々と振付作業を進めるダンサーの姿が、現代を生きる女性の孤独と変態女子ぶりを強く印象づけた。マイムや人形ぶりやモダンなどが混成した動きを、エロチックな衣裳で包んだ後半のダンスは、特筆すべきものだった。

 最後に登場した男性9人組の大東京舞踊団の『あけましておめでとうございます。今年も踊り死ぬ所存でございます。』は、全員が思い思いのフェイスメイクとボディペイントをほどこして、デスメタル、パンク、ヒカシューなどの曲で群舞する作品。過激にカリカチュアライズされたストリートダンスに、自分たちの姿を冷静に観察している眼と自虐性が透けて見える。身体の前面を使って絵を描いていくダンスは、劇場空間において「第四の壁」と呼ばれた観客席との間の見えない壁にブラウン管をはめこんだような感じで、作品自体も、空間性よりメディア性を強く印象づけるものだった。激しい運動によって吹き出す汗に、身体に描かれた模様は次第に薄くなっていき、汗にまみれた肌をタオルでぬぐうと、絵の具はまるまるはげ落ちて、踊る男たちが日常的に持ち運ぶ身体の地金がむきだしになる。意図されたものかどうかは不明だが、(テレビ的に)とんがった集団性の表出と個々の身体によって生きられている日常性を、二枚の皮膚の重なりあいによって同時に見せたことは、アンビバレントな生活を生きる彼らの感情を、まるごと舞台に乗せる結果につながった。


 羽太結子(はた・ゆうこ)が見せた動きの奇妙さは、そのまま現代を生きる女性の孤独ぶり、変態女子ぶりにつながっていた。オリジナルであろうとするまっとうな努力の積み重ねによって獲得されたであろうユニークな動きの連続は、変態する生物が持つ危機的な瞬間を胚胎して、どうしてそうなるの?という驚きで観客を引きずっていった。前半は、赤いスカートとグリーンの上着というカジュアルな衣裳で、がに股に開いた足の間から手をうしろに出してヒヨコ歩きするといった、特別な物語を想定させない動きをつないでいく昼のダンス、後半は、下手に置いてあった白い椅子を持ち出し、椅子に絡みながら下着だけになっておこなう夜のダンスで、タイトルの「メタモルフォーゼ」は、直接的には、異質なこのふたつの場面を、「変態」という生物学的なイメージでつないだものだろう。衣裳を脱ぐことが「脱皮」を象徴する。夜の場面で展開されたダンスは、これこれと表現しようのないキメラ的なもので、パントマイムからオートマトンの人形ぶりへ、人形ぶりから、ワンフレーズで瞬間的に提示されるダンス的な美しい動きを経由して、ふたたびパントマイムに移行するという動きのサイクルを、シルクの下着を連想させる衣裳のエロチックな質感で包むというものだった。機械的なものと人間的なものをミックスしたダンス。ASMR(16ともども、女性の身体表現におけるサイボーグ・フェミニズムの行使として受け取るべきではないかと思う。(続)



 【現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13】
  1. 前書き|第一夜: 1月5日(月)
  2. 第二夜: 1月6日(火)|第三夜: 1月7日(水)
  3. 第四夜: 1月13日(火)|第五夜: 1月14日(水)
  4. 第六夜: 1月16日(金)|第七夜: 1月17日(土)
  5. 第八夜: 1月18日(日)|【付記】講評会&授与式

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2015年1月2日金曜日

2015年の身体と即興、年頭雑感




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 ここ数年にわたり、特に意図したわけでもなく、面白いこと、楽しいことに共振する身体の自然なふるまいのままに、専門領域の外にも踏み出していき、その結果、即興演奏を中心にした音楽から、ダンスを中心にした身体表現へと批評対象が移行していくという個人的な事件に巻きこまれている。ダンスを本格的に観はじめて日が浅いだけでなく、必要に迫られて読書傾向が変わったり、言葉や感覚のありようが組み変わったりしていることから、音楽やダンスの時評めいた作業はできなくなっている。対象の動きを追うためには、こちらの身体が固定していなくてはならない──そのような批評的身体が実際に存在するかどうかは、あらためて考えるべき問題だが──のだろう。しかし、現在では、すべてが定点をもたず、演者も観者も、おたがいに動きあうなかでポジションが決まるのが常態となっている。こうした批評基準を立てることの困難さにこそ、現代の病理があると指摘するむきさえある。ともあれ、私の場合に限定していうなら、こうした環境を前提にしたとき、ダンスの出来を毀誉褒貶することより、音楽とダンスの間という曖昧な領域における批評の可能性を問うことのほうが、焦眉のテーマとなっている。具体的にいえば──このような言い方でどこまで通じるかわからないが──音楽とダンスの双方を含むことができるような身体地図を(言葉で)描き出すことが、当面の目標となっている。

 ふたつの領域に接する境界線の存在、あるいははっきりと名づけられない中間領域の存在を意識するようになったのは、即興ダンスを知ったことによる。即興演奏家とのセッションを本格化させはじめた木村由が、ここ数年の間に、彼女独自の即興スタイルを完成させていく過程をつぶさに見ながら、すでに「即興ダンス」を標榜していた先行者たち──亞弥、Margatica、野村あゆみといったダンサーの活動を知り、さらに、コントラバスの池上秀夫が主催したダンサーとのセッション・シリーズ「おどるからだ かなでるからだ」(201211月~201312月、喫茶茶会記)を通して、喜多尾浩代、菊地びよ、木野彩子、上村なおかなど、即興をひとつの方法として選択することもあるダンサーたちも視野に入ってきた。それぞれ「即興」が意味するところは千差万別と思われるが、管見に入ったかぎりの話としていえば、現在のところ、振付を拒絶し、即興のみを指向するダンサー、すなわち、即興という行為のなかで身体を見いだしていく「身体のインプロヴァイザー」と呼べるダンサーは、木村由しか見あたらない。大抵の場合、即興は技法であり、方法であり、コミュニケーション・ツールであって、身体が生まれてくる場所としては感じられていないように思われる。例えば、深谷正子も即興をするが、彼女の場合、「コレオグラファー/パフォーマー」と呼ぶのが適切と思われるのは、動きの構成において、コンセプトが重要な関わり方をしているからである(ちなみにこの呼び方は、「作曲」と「演奏」という制度に二分されることのない全身的な表現者のあり方を、かつて高橋悠治が「コンポーザー/パフォーマー」と命名したことの転用である)。

 ダンスにおいて、またダンスの外においても、身体のありようを根底からとらえ返そうとするとき、半世紀にわたって探究を積み重ね、多様性を獲得するにいたった舞踏の伝統が、身体表現の宝庫であることは言うまでもないだろう。多様な身体によって縦横に横断されている現在の舞踏が、ある種の危機感をもって、みずからのアイデンティティを再構築する必要性を感じている(らしい)ことは、私のようなものにも感じ取れるが、ここに異端と正系の論争を持ちこんでも、あまり生産的な議論にはならないように思われる。結局のところ、ひとりの踊り手にできることなど、自分が掘りかけた穴を、生涯をかけて、誠実に、愚直に、徹底して掘りつくすことくらいしかないからである。身体が抱えている広大な領域は、そうした作業にこたえてくれる唯一の土地かもしれない。舞踏を、ジャンルや、流派や、世代や、人や、生活や、思想などに還元してしまうのではなく、ダンスする身体のいたるところに出現する可能性をもった舞踏ファクターとしてとらえかえし、身体地図に描きこんで詳細にしていくこと。それはおそらく平面的な図柄に垂直のエネルギーを負荷し、言葉に領略しがたいものをもたらし、ものに光や影を与え、身体地図を立体的なものに肉づけしていくことなのではないかと思う。そのようにして身体が前面化されるとき、「舞踏」という言葉は、使う/使わないに関係なく、不要なものとなっているに違いない。

 付言すれば、ここで批評の宛先にしようとしている身体地図は、一般的なダンス地図とは別のものとして構想されている。ダンサーにかぎらず、演奏家のようなパフォーマーも広く視野に入れながら、<私>と身体の関係を内在的に探究している個々の作業を、ひとつひとつ、一体一体、連結していくところに見えてくるのが身体地図だとしたら、身体と身体の外在的な関係をすくいあげていくのがダンス地図といえるだろうか。わかりやすくいえば、前者を目に見えない身体、後者を目に見える身体と言い換えてもいい。芸術の本質を、感覚できないものを感覚できるようにすることという言い方があるように、ダンスもまた、見えない身体を見えるようにする(感覚できるようにする)ことと定義することができる。ダンサーは、踊るたびごとに、動きのただなかで、見える身体と関係を結びながら、同時に、この見えない身体に触れることになる。見えない身体は、見えるようになれば消失してしまうようなものではなく、ダンサーが踊るたびごとに出現する亡霊的なものといえるだろう。大野一雄の代表作である『ラ・アルヘンチーナ頌』において、女装をした大野の身体が触れようとするアルヘンチーナの身体が、両者のこの関係をよくあらわしている。この関係は、すべての踊る身体に立ちあらわれているものなのである。


 2014年夏に開催された「ダンスがみたい!16 新人シリーズ受賞者の「現在地」」(7月~8月、日暮里d-倉庫)や、<トヨタ コレオグラフィー アワード 2014>の最終審査(83日、世田谷パブリックシアター)に残った作品群からは、現在のダンス作品における振付の多様性を確認するとともに、そこで活躍しているダンサーが、どのようなことに関心をもって作品を制作しているかを総覧することができた。身体地図とダンス地図を重ねあわせ、現在私たちが立っている位置を測量していこうとするとき、こうしたスペクタクルや演劇にまたがるフィールドの存在を無視したり、言葉や演劇にはみ出していく身体を見失うことがないようにする必要がある。そのための包括的な受け皿として、おそらく「ポストドラマ演劇」の概念によって形作られている領域が有効だろう。というのも、そこでは感覚や感情などすぐれて身体的なものが、ドラマを構成する言葉に従属することなく、どこまでも抗争的な関係にあることが前提とされているからである。もちろん身体地図ポストドラマ演劇ではない。身体が記号的なものとつねに肌を接していることを、忘れないようにしておく必要があるということである。これからしばらくの間、身体の具体性に迫りながら、同時に、身体と身体を連結していく批評作業をすることになると思う。