2013年2月19日火曜日

池上秀夫+喜多尾 浩代@喫茶茶会記4



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.4 with 喜多尾 浩代
日時: 2013年2月18日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 喜多尾 浩代(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 喜多尾浩代の無伴奏ソロ公演『Edge of Nougat』を、昨年と今年と、二度にわたって観劇している池上秀夫は、彼自身が主宰するダンスとの即興セッション「おどるからだ かなでるからだ」に彼女を迎えるにあたり、「身体事」(しんたいごと)と名づけられた喜多尾の感覚探究が、パフォーマンスのなかでどんな身体を立ちあげてくるか、あらかじめ承知していたはずである。コントラバスという巨大な楽器(的身体)が生み出すサウンドに照準を定め、その多様性をコントロールしうるほどに聴取を細分化していくことで、洗練されたサウンド・インプロヴィゼーションを身につけつつある池上のソロ演奏と、喜多尾のダンス・ミニマリズムにおいて展開される細かな身体の動きは、活動領域は違っても、おそらく池上がいま共演しているどんな演奏家よりも深いアンサンブルを編みあげることのできる組合わせだろう。さらにいうなら、コントラバス・ソロにおいては、一時間のパフォーマンスにおいて、なにかしら構成しなくてはならないという意識がどうしても働くため、サウンドへの集中が途切れる瞬間がいくつも訪れるのだが、「おどるからだ」セッションでは、おなじ場所に喜多尾浩代のダンスがあることで、意識的な構成をその場の身体的な交感に開放することができるため、サウンドへの集中はより徹底したものとなるようであった。

 私たちの身体感覚が持っている多層性を平板化してしまうことのないよう、モダンであれ舞踏であれ、歴史的に積みあげられてきたダンスの形をあらかじめ排しながら、身体感覚を活性化するエネルギーの流れを聴きとるところから第一歩を開始するというのが、身体事といえるだろうか。そこでは、歩く、立ちどまるといった基本動作をのぞけば、微動する身体の各部分が、風にそよぐ葦原のように、細かな波動となって身体全体におよんでいった先に、結果としてあらわれる動きの形(痕跡)がダンスとして結実する。こうしたエネルギーの流れは、即興演奏においてサウンドがフレーズを構成していった先に、結果としてあらわれる演奏の形とよく似ていて、動きが場を活性化して空間構成するというよりも、むしろひとつの時間構成として感じとれるものであり、その意味で、すぐれて音楽的な立ちあらわれ方をするものといえるだろう。喫茶茶会記でおこなわれるダンス公演では、会場に設置されている椅子、アップライトピアノ、縦格子になった背後の壁、ステージ下手に飾られた大きな鉄のハンドルなどがパフォーマンスの道具になることがよくあるが、喜多尾はそうした家具類にいっさい触れず、壁に向かったときも、指を触れるか触れないかという浮遊状態に保ちながら、まるで彼女自身が形のないひとつのエネルギー体であるかのようにして踊った。

 パフォーマンスの中盤から後半にさしかかるあたり、立ち位置によって変化するコントラバスの響きを受けとめながら、演奏する池上のうしろを壁づたいに一往復した喜多尾は、ステージ中央に戻ったあたりで二種類の音を出した。最初のひとつは、口のなかでカタカタと鳴る、声というよりも動物が出す警告音のようなサウンド、もうひとつは、観客席近くで腰を落とし、前屈みになったまま床に爪を立て、水泳のクロールのように腕を開いて何度かしてみせた、床を掻く動作である。いずれも突如として出現した意味を欠いた雑音であり、ダンスとも、コントラバスの演奏とも無関係にそこにある、余白のような音だった。そのたちあらわれはほとんど一瞬で、聴き手の意識がそれを出来事としてとらえ、一種の演奏として身体になじませてしまう前に、あるいは、コントラバスの弦ノイズといっしょに音楽化してしまう前に、なにも書きこまれることのない余白のままで消えていった。こうしたサウンドとくらべると、池上の生み出す弦ノイズは、はるかに重量のあるもの(つまりよく考えられたもの)であり、高く掲げた帆いっぱいに、サウンド・インプロヴィゼーションという「音楽」をはらんで航海中の船であることが、つぶさに見えてくる。喜多尾が身体事でとらえようとしている感覚のエネルギーは、この余白のサウンドのように、おそらく(なにかがそこに書きこまれる前に)瞬間瞬間に拡散していってしまう、とらえようのない気流の流れのようなものなのではないだろうか。

 喜多尾のダンスは、身体内を風のように吹き抜けるエネルギーに耳を傾けると同時に、パフォーマンス環境にも自らを開いている。そのときも、彼女に流れこんでくるサウンドとの間でエネルギーの回路が閉じてしまうことのないよう、出入り口の開閉に工夫がほどこされていた。「おどるからだ」セッションでこのことが感じられたのは、楽器の近くで(あるいは周囲で)パフォーマンスしたセット後半の時間帯だった。コントラバス・サウンドの音を受け入れつつ、その音のエネルギーを身体的な動きの方向に流していくのであるが、それが閉じた「反応」回路を形成しないよう、身体のなかに少しの時間だけ滞留させ、あらわれを少し遅らせながら、毛細血管を思わせる複数の流れに細分化したうえで、外へと解き放っていくのである。下の部分に小さな穴がたくさん開いている大きな皮袋に、次々と水が注ぎこまれていく場面を想像してもらうと、理解がしやすいかもしれない。池上の演奏は、太い一本の回路を通してやってくる。喜多尾の身体は、それにまったく別の形を与えながら応答していくのである。この時間的なズレを敏感に感じとった池上も、最後の場面では、音を出さずに、かすかに弓だけ動かしながら、身体事と即興演奏の帳尻を合わせていた。喜多尾浩代と池上秀夫のデュオは、ダンスによってサウンドが視覚化される、希有なパフォーマンスだったといえるだろう。





【次回】池上秀夫:おどるからだ かなでるからだ vol.5 with 鶴山欣也   
2013年3月18日(月)8:00p.m.開演~   
会場: 喫茶茶会記   




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