2013年3月29日金曜日

毒食 Dokujiki 8



中空のデッサン Un croquis dans le ciel Vol.38
毒食8
Dokujiki 8
日時: 2013年3月28日(木)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.~
料金: 投げ銭+drink order
出演: 森 順治(alto sax, bass clarinet) 林谷祥宏(guitar)
田井中圭(guitar) 金子泰子(trombone) 
多田葉子(sax) 岡本希輔(contrabass)
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)


毒食8 演奏順
第一部
森 順治林谷祥宏 → 田井中圭 → 金子泰子 → 
多田葉子 → 岡本希輔
第二部
森 順治 → 多田葉子 → 金子泰子 → 田井中圭 → 
岡本希輔 → 林谷祥宏



♬♬♬




 昨年の夏、コントラバスの岡本希輔が吉祥寺ズミで主催する音楽シリーズ「中空のデッサン」の枠内で、サックスの森順治、トランペットの橋本英樹、ギターの林谷祥宏からなる「毒食」(どくじき)セッションがスタートした。しばらくの間は、この四頭体勢のままシリーズが進められていったのだが、毒食5(1225日)と毒食6(130日)の二回を林谷がインド旅行で欠場したのをきっかけにメンバー枠を拡大、毒食4(1129日)から毒食6(130日)まで、ピアニカを演奏する蒔田かな子の参加をみただけでなく、毒食5には、折よく来日中だったチェロのユーグ・ヴァンサンも特別参加した。ひとりの演奏家のソロを継続して聴くという会の趣旨を生かすため、参加者には、三回をワンクールとして演奏することが、基本条件として課されている。個々に生活の事情を抱えているという点では、演奏者はもちろんのこと、聴き手にも、シリーズを継続して聴くというのが、意外なことに、ソロ演奏というスタイルをうわまわる過酷な条件となるかもしれない。今年になって、毒食6から毒食8(328日)までは、サックスの多田葉子とトロンボーンの金子泰子が参加、偶然からか女性の参加がつづいている。また毒食7からは、スタートメンバーの橋本が諸事情で欠場中であり、毒食8からは、ギターの田井中圭が新たに参加した。

 三ヶ月の継続性を確保しながら、ホストとゲストの演奏家が、少しずつずれつつメンバー構成をし、ひとつのコンサート内でソロ演奏をバトンしていくというのは、思いつきからスタートしたものであれ、演奏の緊張感や新鮮さを保つ最適のスタイルとなっている。こうした<毒食>には、聴き手もおなじように参加すればいい。すなわち、聴き手の参加もまた、必然でも義務でもないけれども、だからといって、その場かぎりの気ままな娯楽というわけでもなく、できれば意識して継続的な聴取をすることが望ましい──<毒食>をそんな聴き方の提案として受け取ることができるだろう。このことは即興演奏を「自由な音楽」というときの「自由」のあり方を、異質なミュージシャンの共演によってではなく、現実的な公演スタイルそのものから規定するやり方になっていて興味深い。というのも、現代のような情報資本主義の時代には、良質な情報の獲得や、最適な情報の組合わせといった合理性が「自由」の前面に押し出されてくるため、教養であれ娯楽であれ、自己を離れてなされる聴取や継続した思考といったものが、成立しにくくなっているからだ。本来的にそれらは「自由」と無関係ではなく、むしろ「自由」のベースとなるものであるにもかかわらずである。

 毒食8の参加者は、森順治、林谷祥宏、田井中圭、金子泰子、多田葉子、岡本希輔で、この日は、森順治の司会で、第一部では、ミュージシャンが会場に到着した順が、そのまま演奏順になった。各自が10分~15分ほどでおこなうソロ演奏を二巡させたので、休憩時間も含めると、全体で三時間を越えるような長いコンサートとなった。二度のソロ演奏に変化を持たせるため、田井中は金属ボウルとおはじきを用意し、金子は元素周期表をボードに書きながら演奏し、多田はズミの書棚から故・大里俊晴の『ガセネタの荒野』を取り出して朗読しながら演奏するなどの工夫をしたが、そのなかでもっとも効果をあげたのが、窓の外にきれいな月が出ているからと、会場照明をできるだけ落として演奏した多田のアイディアだった。多田にならって、その次の岡本も薄暗闇のなかで演奏したのだが、そこからさらに、第二部は明るい照明を次第に暗くしていくという趣向が採用され、第二部のラストを務めた林谷のギターソロは、演奏者の顔も見えない真暗闇のなかでおこなわれることとなった。見ることは、感じることに直結しているため、聴くことも大きく左右せずにはおかない。ミュージシャンが考案したさまざまな工夫が、あくまでも知的なもの、意識的なものである一方、光の明暗はたんに感覚的なものでしかなく、しかしそうであるがゆえに、ダイレクトに身体に働きかけることになったと思われる。

 こうしたゲスト奏者たちとは対照的に、森順治、林谷祥宏、岡本希輔ら、毒食のホスト奏者たちは、二度のソロ演奏を楽器一本に集中して演奏した。これは演奏のなかに作曲的な要素を持ちこまなかったということである。両者の間にある(方法論上の)この相違は、おそらく重要な意味を持っているに違いない。森順治と岡本希輔の演奏は、いずれも無限のヴァリエーションを持つ日々の即興の今日の姿というようなものだった。<毒食>シリーズで積み重ねられてきたソロ演奏に、意識の「進化」を見たり、演奏の「戦略」を読んだり、あるいは世界の「豊かさ」を感じたりするのは、いずれも解釈の多様性であるわけだが、彼らがそうした解釈以前に示しているのは、即興がもはや特別なものとしては存在しない、生活と一体化した現実を生きている姿に他ならないだろう。そのなかにあって、通販で入手したというハーモニーのアコギを弾いた林谷祥宏は、少し前に杉本拓がしていたような「沈黙」の演奏を聴かせて異彩を放った。毒食の最初から、林谷は「実験音楽」と呼ばれるような性格の即興演奏をしていた。いうまでもなく、杉本の演奏は、即興批判を裏面に(隠し)持ったコンポジションの試みであるが、林谷の場合は、そうした「実験音楽」のアイディアを即興に応用してみているようである。聴取概念の変更をともなう音楽的試行が、ここでは一種の引用に様変わりしているというわけだ。判断の性急さをおそれず、林谷の演奏を現代即興地図のなかに位置づけるなら、おそらくカセットレコーダーの河野円や、ギターの(「演奏家・音楽家」ではない)康勝栄などと近い場所で、新たなサウンドの領域を開拓しようとしているのではないかと思われる。





※毒食(どくじき):1900(明治33)年2月17日、衆議院で演説した
田中正造が、「目に見えない毒」に汚染された水や作物を飲み食い
することをいいあらわしたもの。[フライヤー文面から]



【関連記事|毒食】
毒食 Dokujiki」(2012-08-30)
毒食 Dokujiki 2」(2012-10-02)

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2013年3月27日水曜日

【CD】ヒグチケイコ: 花弁のように儚い



ヒグチケイコ
『花弁のように儚い』
Keiko Higuchi: Ephemeral as Petals
Utech Records|URCD-035|CD
曲目: 1. Sister (5:35)、2. Another Man / ただの男 (4:32)
3. How Deep is The Ocean (8:01)、4. The Impossible (4:44)
5. My Funny Valentine (4:25)、6. みだれ髪 (6:27)
7. 窒息しそうな夜 / Too Much to Say Goodbye (2:46)
演奏: ヒグチケイコ(piano, vocals)
Cristiano Luciani(drums, cymbals, synthesizer on track 1)
川口雅巳(guitar on tracks 2 and 6)HIKO(drums on tracks 2 and 4)
録音: 2012年(「Sister」のみ 2010年/2011年)
絵画: 宮西計三 写真: 森重靖宗
デザイン: Keith Utech
発売: 2013年3月23日



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不可能性に手をさしのべる、愛が
下のほうを走りまわるとき、私たちの皮膚のした、
いたるところを、根茎のように。
ふたりは影のようなものかもしれない。
感じてほしい。
彼らはすでにそこにいる。
それこそが儚くも忘れさられる理由なのだ。


 『ラブホテル』(2008年)以来5年ぶりとなるヒグチケイコのソロアルバム第二弾『花弁のように儚い』が、アメリカのユーテック・レコードからリリースされた。ほとんどが東京で録音されたものだが、冒頭の「Sister」のみ、欧州ツアーの際にローマで収録(20101029日「La Jetee」でのライヴ)された演奏に、共演者であるクリスチアーノ・ルツィアーニがポストプロダクトを加えた楽曲となっている。この他にも、『ラブホテル』発売の年の暮れに荻窪ベルベットサンでおこなわれた発売記念ライヴが、DVD-R(the second) LOVE HOTEL』としてリリースされており、ヒグチのこの時期のパフォーマンスを映像によって知ることができるが、こちらが内容的にCDと近似していることをふまえると、新曲を揃えた新譜『花弁のように儚い』こそが「第二弾」と呼ぶにふさわしいアルバムといえるだろう。新作では、ギターの川口雅巳やドラムのHIKOが楽曲に参加して花を添えている。みずからの声をループしながら歌うヒグチのスタイルはいまも変わっていないが、さらに多彩なゲスト奏者を迎えた本盤では、ループの使用がみずからの内面を深くえぐっていた前作とは、また違った側面にスポットをあてる作品集になった。

 楽曲によってはかろうじてという場合もあるが、それでも原曲の形をなにがしかとどめながら、そこにまったく別の感情を乗せていくヒグチケイコの歌とピアノが、ライヴごと即興的に演奏されていくように、川口雅巳やHIKOの演奏もまた、楽曲の味つけのようなものとしてではなく、即興的に、いわばもうひとつのヴォイスとして演奏に参加している。原曲を彩っていた感情は、ヒグチの声によって新たな色と形を与えられることで、「My Funny Valentine」のようなスタンダード曲や「みだれ髪」のような歌謡曲が、それまで予想すらしていなかったもうひとつの感情を宿しはじめる。その声のさまは、パセティックでありながらどこかデモーニッシュ、泣きながら歌っている魔女のようで、その歌を聴いた誰もがディアマンダ・ガラスを連想するように、呪術的な色彩にあふれたものとなっている。「呪術的」というのはおだやかではないが、もちろんこれは、誰彼を呪うという意味ではない。周知のように、通常の歌では、声は歌詞やメロディーを正確にトレースしていく(解釈していく)が、ヒグチの声は、それらをはみ出してしまうような(圧倒的な)身体性を獲得しようとしているということなのである。その結果、彼女ならではの声の身体性が言葉に働きかけて、まるで歌のなかから内臓をつかみ出してくるかのように、新たな感情を呼び起こすこととなる。本盤に収められているのは、歌という収まりのいいものではなく、「花弁のように儚い」ものをめぐる、声と言葉の闘争というべきものである。



※冒頭の詩文は、ジャケット内にある英語詩の拙訳です。   
本盤は、ヒグチケイコのライヴでの手売りや    
下記のレーベルサイトの通販などで入手可能。   

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2013年3月26日火曜日

【CD】藤井郷子MA-DO: Time Stands Still



藤井郷子MA-DO
SATOKO FUJII MA-DO
『Time Stands Still』
Not Two|MW897-2|CD
曲目: 1. Fortitude (9:30)、2. North Wind And The Sun (10:32)
3. Time Flies (6:58)、4. Rolling Around (2:55)
5. Set The Clock Back (5:21)、6. Broken Time (9:41)
7. Time Stands Still (7:31)
演奏: 田村夏樹(trumpet)、藤井郷子(piano, composition)
是安則克(bass)、堀越 彰(drums)
録音: 2011年6月22日
場所: ニューヨーク
発売: 2013年3月31日



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 一昨年、ベーシスト是安則克(1954126-2011923日)が56歳の若さで他界した。多くの音楽仲間がその死を惜しみ、彼を追悼するアルバムがすでに何枚もリリースされているが、先に個人レーベル<Libra>から、田村夏樹の率いるガトーリブレ第5弾『Forever』(2011914日録音)がリリースされたのに引きつづき、今度は、藤井郷子がリーダーを務める “Ma-Do” の第3弾『Time Stands Still』(2011622日録音)が、ポーランドのレーベル<Not Two>からリリースされる運びとなった。コンビを組んで活動している田村夏樹と藤井郷子であるが、リーダーを交代してそれぞれの音楽性を前面に出したグループのどちらにも参加していた是安則克が、彼らとどれほど深い音楽的な関わりを持っていたかは想像にかたくない。ふたりはいま東京とベルリンの双方に拠点を持ち、日本とドイツを往復しながら演奏活動をしているが、日本よりもヨーロッパのほうが仕事が多いという事情から、現在では、ベルリン滞在が長くなっているとのことであった。早くには高瀬アキが、引きつづいては千野秀一が、そして最近ではリブラ・コンビがベルリンに拠点を移しつつあるところから、彼の地が国際的にミュージシャンの集まる都市であることや、日本では一過性のブームだった感のある音響的試行が、いまも持続しているといったニュースも飛びこんできている。

 田村夏樹のガトーリブレが、「淡々と。盛り上がらなくていい。切ない。少し不思議」という音楽コンセプトでメンバーを人選し、アコーディオンなどの構成楽器を選択しているのにくらべ、藤井郷子の “Ma-Do” は、彼女がリーダーとなった他のグループ同様、そこに集まる個性的な演奏家たちが、複雑に書かれた彼女の作品を、作曲家の予想を越えて(裏切って)どんなふうに音楽化してみせるのかという点に、想像力のすべてがかけられている。グループに作品を提供する藤井には、そこでおこなわれた即興演奏を全面的に受け入れる用意があるようだが、即興演奏の背景をなしている音楽性についていうなら、ガトーリブレ” の目指しているのがオーラルな音楽(あるいは音楽のアウラの追究)であるのと対照的に、“Ma-Do” が目指しているのはエクリチュールの音楽(あるいは、最終的に楽譜や音盤に書きこまれる書記音楽)ではないかと思う。こうしてみると、本盤でも聴くことのできる息や声を多用する田村の演奏スタイルは、保守的なジャズファンの予想を裏切るための戦略というよりは、オーラル性を全身に帯びたサウンドだからだということがわかる。前衛と伝統を架橋した20世紀ジャズは、おそらくこの両方の要素があって世界的に広がり、発展していったものといえるのだろうが、それがリブラ・コンビにそのまま体現されているのを聴くのは、いまさらながらではあるが、とても興味深い。

 カルテット “Ma-Do” は、200710月に結成されて以来、何度となく海外公演をおこなっているが、本盤に収録されたのは、20116月に組まれた合衆国ツアーの最中におこなわれたニューヨーク録音で、是安にとっては、最晩年の演奏のひとつということになる。追悼文として書かれた藤井のライナーには、録音当時の “Ma-Do” 事情やレコーディングのエピソードなどが記されている。グループの屋台骨をがっちりと支える是安の演奏は、各所でフィーチャーされるソロ演奏で、サウンドに対する神経の細やかさや、音に深く沈みこんでいくときの哀しげな(あるいはセンチメンタルな)表情をのぞかせている。アルバムの冒頭に、アグレッシヴな是安のソロからスタートする「Fortitude」を置く一方、末尾には、情感にあふれたアルコ伴奏が藤井のソロにぴったりと寄り添う印象的なタイトル曲「Time Stands Still」を配した本盤は、ベーシストを追悼する構成をとりながら、演奏がたるんだり停滞したりする部分のない、まさに上り調子にあったカルテットの演奏を収めたものである。音楽的な意味でも、人生の一時期をともに過ごした友の記憶を刻みつけるという意味でも、まさしく、「時間よとまれ」と呼びかけたくなる白熱した瞬間を、永遠にとどめた作品といえるだろう。

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2013年3月24日日曜日

【CD】康 勝栄+弘中 聡: state, state, state



康 勝栄 弘中 聡
Katsuyoshi Kou / Satoshi Hironaka
『state, state, state』
Ftarri|ftarri-995|CD
曲目: 1. State (15:24)、2. sTate (27:25)
3. stAte (4:23)、4. staTe (9:55)
演奏: 康 勝栄(guitar)、弘中 聡(drums)
録音: 2012年7月9日
場所: 東京/八丁堀「七針」
発売: 2012年12月9日



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 ギタリストの(あるいは「演奏家・音楽家」ではない)康勝栄とドラマーの弘中聡が、東京八丁堀にある古びた雑居ビルの地階にある小スポット七針(ななはり)で収録したソロとデュオの即興演奏。七針の公演データに記載がないので、おそらく非公開でおこなわれたものと思われる。その場か後日かは不明ながら、オーバーダビングや録音機器の操作によって、四曲のうちの三曲にポストプロダクトが加えられており、編集作業の内容や編集意図などが、アルバムに同封された康勝栄のライナーに簡潔に記されている。一定のテンポを変えることなく、ドンドコドンドコと鳴りつづけるドラムと、楽器のハウリングや、接触不良になったつまみをゴソゴソといじっているような電気的なノイズを出すギターのコンビネーションが、強烈な違和感を感じさせることなく、むしろ親和的なありようで、それぞれのレイヤー内を動いていく演奏は、音響以降の即興シーンにおけるプレイヤーの関係性においては、すでに典型的といえるようなものになっている。本盤においては、すべてがノイズに還元されてしまうのではなく、ドラムはドラムとして演奏されているので、デュオが共有している場所は、空間的なものではなく時間的なもの──すなわち、音楽的なもの──になっている。

 フリージャズ華やかなりしころ、即興演奏がシュルレアリスムの自動筆記にたとえられたことがあった。即興演奏は、意識の底に隠された(あるいは「抑圧された」)広大な無意識の領域に身体を解き放つものといわれたのだが、現在の地点から考えれば、これは形を変えた、現代の「自然に還れ」宣言だったのではないかと思われる。おそらくはそうした発想が根底にあって、即興演奏の録音には、できるだけ人工的な手を加えないことがよしとされた。作曲(家)のヒエラルキーに異議申し立てする即興が、演奏の過程を生きることに存在意味を見いだしていたという点で、この主張は、あながち的外れでもなかったように思われるが、そうした演奏の記録自体が、LPの両面を使って長時間の録音を可能にした音響技術の発展に負っていたことを考えれば、そこに出現する自然(無意識的なもの)は、つねにすでに人工(意識的なもの)にまみれていたといえるのではないかと思う。重層的なメディア環境の時代に、それらを衣装のように脱ぎ捨ててみせる純粋な身体がありうるのかという問題は、もはや一種のロマンティシズムと思われているかもしれない。少なくとも、本盤の即興演奏は、そうした自然さ” に待ったをかけている。

 アルバムの冒頭に収録された「State」で、オーバーダビングを使ったり、ドラミングに機械的な心不全を起こさせたりしながら、ノイズであれ楽音であれ、音をどこまでも自然に聴きたいと欲求する私たちの身体に、これが録音媒体であることを意識させつづけるしかけをほどこしたデュオは、それぞれのソロ演奏をはさみ、アルバムの末尾には、なにも手を加えないデュオの即興演奏を置いている。一曲をダウンロードで聴く現代の聴き手が、この順番でアルバムを聴くかどうかは保証のかぎりではないが、『state, state, state』のこの曲順は、本盤の要になっているといえるだろう。というのも、この順番で聴くことによって、私たちは通常の即興演奏を、いつもとは別の意識状態(state)のなかで聴くことになるからである。「手を加えていない」ということがどういうことかを、手を加えた演奏を聴くことによって、初めて知ることになるからである。意識されているか否かはともかく、おそらくはすべての即興演奏が、もともとはこうした(メディア体験の)側面を持っている。さらにいうなら、即興演奏とは、こうしたメディア体験とともに誕生した音楽だということにすらなるかもしれない。こうして本盤は、いくつかの「state」を発見の装置にしているが、それだけにとどまらず、出来事の一回性を生きる即興演奏のCD化は、演奏そのものを反復的聴取にもたらす。認識の構図の変換のあと、この反復聴取から、康勝栄と弘中聡の演奏があらためて姿をあらわすことになるだろう。

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2013年3月23日土曜日

【CD】Filip - Nakamura - Neumann - Palacky: messier objects



Klaus Filip / 中村としまる
Andrea Neumann / Ivan Palacky
『messier objects』
Ftarri|meenna-999|CD
曲目: 1. M1 Crab Nebula (40:06)、2. M20 Trifid Nebula (16:39)
演奏: クラウス・フィリップ (ppooll)
中村としまる (no-input mixing board)
アンドレア・ノイマン (inside piano, mixing board)
イヴァン・パラツキー
 (amplified Dopleta 180 knitting machine, photovoltaic panels)
録音: 2011年10月4日、5日
場所: チェコ/プラハ「Babel Festival」
オーストリア/ウィーン「Amann Studios」
デザイン: tanabemse
発売: 2012年12月9日



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 『メシエ天体』という風変わりなタイトルを持つ本盤は、オリジナルの音楽ソフト「ppooll」(アナグラムされているが、かつて「lloopp」という表記がされていたことから、もともとはループをもじった名前であることがわかる)を使ってラップトップ演奏するオーストリアのクラウス・フィリップ、ピアノを解体して内枠を取り出した「インサイドピアノ」を演奏するドイツのアンドレア・ノイマン、「Dopleta 180」という手編み機をアンプ接続して演奏するチェコのイヴァン・パラツキー、そして外部入力のないエレクトロニクス回路「ノーインプット・ミキシングボード」を演奏する日本の中村としまるによるカルテットが、201110月にヨーロッパ公演した際の演奏を収録したものである。サウンド・インプロヴィゼーションでは、サックスのような伝統的な楽器を伝統的に演奏しながら、耳になじんだ即興演奏の方法を逸脱していくアプローチや、それとは逆に、伝統的な演奏方法を意識的に迂回するアプローチ、さらには楽器を創作したり楽器でないものを演奏に用いたりすることも非常にしばしばなされている。ここに集まった即興演奏の辺境を生きるプレイヤーたちに共通するのは、しかしながら、現在の演奏へといたるそうした出自ではなく、サウンドを空間的に配置する際のローテク度ではないかと思われる。

 メシエ天体とは、天文学者シャルル・メシエが作成した星雲・星団・銀河のカタログに掲載されている天体のことをいい、個々の天体は、作成者の頭文字をとって、「M1」(かに星雲)「M20」(三裂星雲)というように表記される。本盤でも、40分のライヴ演奏に「M1」のタイトルが、16分のスタジオ演奏に「M20」のタイトルがつけられている。即興的な対話のないカルテットの演奏は、サウンドに流動性をもたらすリズムの河も、ループのような自動反復も採用することなく、まさにひとつひとつ孤独に輝くノイズの星々が、宇宙に星雲や星団を形作るようなあり方で、この時間、この場所で鳴らされただけの関係性を結んだものである。それでも多種多様なノイズ=サウンドの密集は、星々の配置が(地球上に縛られた私たちの目に)ひとつの星座を描き出すように、意図されたものではない天体のハーモニーを奏でているように聴こえる。アンドレア・ノイマンが弾いている(らしい)リズミカルな鉄弦の響きや、中村としまるが放出する(らしい)ホワイトノイズの電子流などが、ときおり音楽的な記憶をかきたてるが、それも長続きすることはない。曲想もここではサウンドの一側面になっているとみるべきだろう。

 音が突然に途切れ、演奏に空白状態が訪れることがあっても、「messier objects」の世界が自壊することはない。彼らの演奏に「楽曲」の終わりはなく、もはや「沈黙」を提示する必要もなく、空間的に構成されていく世界を自然に生きていればいいからである。その意味では、タイトルに宇宙的なイメージがあっても、実のところ、それは街角の交差点で私たちが体験するような、ごく日常的なサウンドのありようなのかもしれない。フェスティバル会場になったプラハのアルカ劇場が大きかったためだろう、宇宙的な広がりを持つ演奏となった「M1」に対して、ウィーンでスタジオ録音された「M20」では、スタジオの密閉性のせいか、あるいは観客がいなかったせいか、より肌理のつまった狭いスペースに、ライヴより一段と克明な音像を注意深くはめこんでいくような演奏となっている。「M20」の演奏は、静寂に彩られたというより、むしろ低体温の音楽と呼ぶべきものだろう。演奏が終わるころ、辛抱しかねたように、なにか金属的なものを引っ掻くような大きな物音が発せられるが、それがクライマックスを構成するというわけでもなく、体温の低さは最初と変わらないまま、セッションは終演を迎える。

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2013年3月22日金曜日

【CD】山内 桂+中村としまる: 浴湯人



山内 桂 中村としまる
Katsura Yamauchi/Toshimaru Nakamura
『浴湯人 Yokutojin
Ftarri|ftarri-994|CD
曲目: 1. (30:21)
演奏: 山内 桂(alto saxophone)
中村としまる(no-input mixing board)
録音: 2012年4月7日
場所: 大分県別府「プラットホーム01」でのライヴ録音
アートワーク: 杉本 拓
デザイン: 杉本 拓、八木菜々子
発売: 2012年12月9日



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 南仏に住むミシェル・ドネダが、ソプラノ・サックスを片手に、ひとり自宅の裏山を散策し、文字通り、自然と語らうなかからつかみだしてきた気息の演奏のひそみに倣うようにして、サルモサックスこと山内桂は、自然のなかで川釣りを楽しむ環境に故郷の原風景を見いだし、まるでサケが急流をさかのぼっていくような、静かで強靭なサックスのラインを独自に編み出すとともに、彼自身の即興演奏を、フレージングによる対話から音響をインスタレーションするようなスタイルへと移行させた。音響的なアプローチを一過性のブームとするのではなく、いわば自身の背中に刺青するようにして背負い、共演者が誰であれ、頑固なまでにその方法論とスタイルを貫くことで、孤高の歩みをたどることになった。これは音楽である以上に思想というべきものであろう。おなじサックス奏者である広瀬淳二の音響アプローチが、凝縮され、白熱化した瞬間的なサウンドのありようを生命とするのとは対照的に、静かに息づくバイオリズムのなかのホバーリングをめざす山内の演奏は、本質的には、生態系のなかに置くことのできるようなクールな音楽になっている。山内の地域主義は、大分県別府での共演にちなんだ「浴湯人」という本盤のタイトルにも、さりげなく示されているだろう。

 本盤の共演者である中村としまるは、周知のように、数多いるエレクトロニクス奏者のひとりというにとどまらず、サイン波の Sachiko M ともども、20世紀末に音響的試行からサウンド・インプロヴィゼーションへと向かった「即興演奏のパラダイムシフト」において、国際的なインパクトを与えることになった演奏者である。中村の演奏に対する海外の高い評価を、日本にいて想像することはむずかしいかもしれないが、彼も Sachiko M も、ヨーロッパでは音響的アポリア(問題)の中心において論じられている。外部入力を使わないという意味の「ノーインプット・ミキシングボード」の電子回路を構築する際、中村は演奏に習熟してしまうことで、電子回路が容易にコントロール可能になってしまわないよう、演奏のたびに、新たな要素を加えるなどの工夫をしているという。電子回路の他者性を確保することで、サウンドの他者性を担保し、あわせて予想のつかない出来事の到来に演奏を開くという態度の徹底が目指されているのであろう。本盤に収録された、水しぶきをあげて滝壺にたたきつけられる大量の水のようなホワイトノイズの奔流が、はたしてこうした予測不能性が生んだものかどうか詳らかにはしないが、泰然自若として静態的な山内の演奏を、大きく破るものだったことはたしかである。

 デュオの演奏は、二部構成のライヴの第二部を収録したものとなっている。山内の静かな気息の演奏(楽器が鳴らないようにしながら、サックス管に吹きこまれる息を強調する特殊奏法)からスタートし、後発した中村の電子音との間で干渉波を生みながら、高次倍音を生むサックスの単線ラインを経由し、やがてすべてを押し流すホワイトノイズの奔流がふたりを襲う場面へといたる。マイクで音量増幅された山内のサルモサックスは、まさしく激流をさかのぼるサケのように、全身をふりしぼってきりもみ状態になりながら、音響アプローチの看板をかなぐり捨て、エヴァン・パーカーや阿部薫を連想させるハイテンション・サウンドにまで、一気にサックス演奏の記憶を遡行していく。その後、演奏は凪の状態に入り、山内の静態的な演奏に寄り添う形でサウンドの交換がされていく。高次倍音を火花のように飛び散らせながら、金属を溶接するようなリズムで演奏されるエレクトロニクスノイズが印象的だ。演奏の後半、再びホワイトノイズの奔流による第二ラウンドがスタートするのだが、ふたりはふたりともに第一ラウンドと同じことをしようとはしない。緊迫感あふれる30分のデュオ・インプロヴィゼーションが、まるで途切れたように終わる最後の瞬間まで、聴き手の耳は釘づけになることだろう。

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2013年3月21日木曜日

【CD】河野 円: inside-out, outside-in




河野 円
Madoka Kouno
『inside-out, outside-in』
Hitorri|hitorri-998|CD
曲目: 1. in (24:54)、2. out (22:20)
演奏: 河野 円(tape recorders, mixer, speakers, digital tuners)
録音: 2013年1月6日、Ftarri水道橋店での公開録音
発売: 2013年3月31日



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 楽器のように手元で自由に扱えるハンディサイズの小型カセットレコーダーを使用する河野円(こうの・まどか)は、カセットテープを装塡せず、レコーダーの内臓マイクを利用して、聴き手と演奏者がいるライヴハウスのような環境内に、フィードバックを利用したサウンドの回路をオリジナルに構築することで、音を聴く(日常的な)耳の位相を異化してみせたり、耳を多様な聴取のあり方に開いてみせたりするパフォーマンスを展開している。フィードバック回路が生成するサウンドを、身体にとって耐えがたいものとしてではなく、美的な(といっていいのだろう)経験にもたらすため、カセット機器を微妙に動かして一定のコントロールを加えるところに、手の痕跡といっていいような演奏性(あるいは即興性)が立ちあらわれるが、それらはむしろフィードバック回路が、増幅するフィードバック音そのものによって破壊されてしまわないようにするためのものと思われ、結果として得られる音像の美的な効果にかかわらず、パフォーマンスの過程では、演奏の内容を問題にするというより、演奏を成立させる構造的なもの、すなわち、つねにすでに場を構成する要素そのものに働きかけている。この意味では、彼女の演奏をサウンドアートと呼んでもいいように思われる。

 他の共演者を置かず、レコーダーをスピーカーに直接つなげておこなわれた本盤のパフォーマンスは、楽器を使わずに自己言及性を生きているという意味で、ソロ演奏の構造だけを抽出したようなパフォーマンスになっている。フィードバックという点では、大友良英のギターソロを連想させもするが、河野円の独自性は、おそらくパフォーマンスに先立って環境そのものを再構成する点にあるだろう。本番では、それが「in」(レコーダーとスピーカーが作る回路に観客を in する)と「out」(レコーダーとスピーカーが作る回路から観客を out する)の楽曲構成にあらわれている。観客(あるいは観客席)が、フィードバック回路の内部にある場合と、外部にある場合が想定されているのであろう。実際のパフォーマンスを経験していないので、全身的に経験されたサウンドの違いがどうあらわれたのかを、ここで言うことができないのだが、収録されたふたつの演奏を聴くかぎりでも、その違いは明らかなように思われる。端的にいうなら、フィードバックするサウンドのスピードが、「in」よりも「out」が圧倒的に速いだけでなく、音の立ちあがりやエッジの鋭さが、より明快なものになっているからだ。言うまでもなく、これは観客席を「out」にするために近づけたレコーダーとスピーカーの距離の相違によるものである。

 あらためて表現者とフィードバック回路の関係についていうなら、河野円は、自己表現のためにサウンド配置する(即興的にコンポジションする)のではなく、本盤のようなソロアルバムにおいてもなお、サウンドが自生してくる環境を創造し、維持するような性格のパフォーマンスをしている。再度、大友良英を引きあいに出せば、彼の場合、最終形態としての「without records」では、演奏者そのものが姿を消すことになるのだが、河野円の場合は、フィードバック回路を聴き手に経験させるための演奏性を捨てることなく、その場に居つづけることで、音楽演奏が生んだプレイヤー概念とは別のプレイヤーのあり方を提示しているともいえるだろう。というのも、演奏者の姿を消すことが、かならずしもそのありようを変えることにはつながらず、より巨大な表現者として出来事に回帰してくるケースを考えておかなくてはならないからである。河野円のパフォーマンスにおいては、すでに表現者とは別の演奏者がいる。サウンドアートのようなジャンルを持ち出す前に、一度じっくりと彼女の戦略的な演奏を読み解いていくべきなのかもしれない。





★河野円CD発売記念コンサート   
3月23日(土)開場:7:30p.m.、開演:8:00p.m.   
出演: 河野 円、sei(from ju sei)、中村ゆい   
会場: Ftarri水道橋店   

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2013年3月20日水曜日

風巻 隆: ソロ・パカッション in 銀座 Steps Gallery



風巻 隆: ソロ・パカッション
KAZAMAKI Takashi: SOLO PERCUSSION
日時: 2013年3月19日(火)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
会場: 東京/銀座「ステップスギャラリー Steps Gallery」
(東京都中央区銀座4-4-13 琉映ビル 5F)
料金/前売予約: ¥2,500、当日: ¥3,000(飲物付)
出演: 風巻 隆(perc)
予約・問合せ: TEL.03-6228-6195(Steps Gallery)



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 201110月、ネオン管の作品で知られる倉重光則の個展で幕開けしたステップスギャラリー(代表:吉岡まさみ)は、銀座四丁目にある琉映ビルの5階に居を構える、現代美術専門の小さな画廊である。エレベーター設備がなく、利用者が階段を徒歩で登らなくてはならないため、「ステップス」の名前がついたらしい。画廊の出発時、その誕生を祝して屋外のテラスに倉重の大きなネオン管作品が展示されたときには、管理上危険という理由で、四日間で撤去を求められたエピソードを持っている。白い壁に四方を囲まれた天井の低いこの画廊で、風巻隆の打楽ソロ公演が開催された。ところ変われば品変わるということで、この日の風巻は、ライトのかげんで白く、またクリーム色にも見える大きなマットを部屋の中央に広げ、そのうえに大小の打楽器やバケツのような日用品を並べていった。楽器が置かれる方向はまちまちで、聴き手も、このマットをぐるりと取り囲んで着席する。結果的にではあるが、誰も座らなかった画廊オフィス側の壁が、ステージ裏のような雰囲気になった。画廊オフィス側にはビルの窓があり、屋外テラスがあるということから、自然に選択されたこの方向感覚は、ほとんど生物的なものだったように思われる。

 周知のように、風巻の古巣である名大前キッドアイラックでは、強烈な打楽が天井の高い空間に反響して、ソロ演奏においても、大きなパカッション・ワールドが描き出されることになるが、演奏者がほとんど目の前にいる小さな画廊では、音の響きがダイレクトに聴き手に届くため、音は皮膚に直接ぶつかる粒のような感じ(実際に、はじけとぶ小物楽器が足もとに転がってきた)となり、風巻打楽の特徴をなす倍音も、その細部の変化までが際立つこととなった。休憩なしでおこなわれた一時間弱のパフォーマンスは、ひとつひとつの楽器と対面しながら、同時に出される異質なサウンドを即興的にアンサンブルさせていく「小品集」という、風巻パカッションではおなじみのものだった。小品集に番号を付しながら、演奏の経緯に触れてみることにしよう。(1)マット中央に立ち、両手に持ったマラカスを激しくふる。リズムを出すのではなく、マラカスのなかの穀類が楽器の内壁にあたる軽やかな音を聴く、風巻が常用する導入部の演奏である。準備体操の雰囲気なのだが、人の声が聴こえてきたという、演奏後の聴き手の感想が印象的だった。(2)今回の公演では、もっとも大きな楽器となったコギリをカウベルでたたく。コギリ専用の木製バチも用意されていたのだが、おそらくサウンドの複合性を狙ってだろう、演奏では頻繁に木製・鉄製のカウベルが使用される。

 (3)コギリと正反対の方向を向き、腰を落として前屈みになり、伏せたバケツのうえに裏返しに乗せたシンバルをスティックでたたく。バケツを利用するのはオリジナルだが、こうしたシンバルの利用は、いまでは数多くの打楽器奏者が採用している演奏方法である。(4)向きを少しだけ右側に移し、マット中央に座ると、足の間にはさんだ小型の太鼓を浮かせながらスティックでたたく。足で太鼓面の向きを変えたり、床から持ちあげたりして音色を変化させる。見たことのないスタイルの演奏だったが、内容的にはもっとも風巻らしいドラミングだった。そして(5)前もって「新楽器」と触れこみのあった “Naked Toy Piano” の演奏。お土産もののミニガムランとトイピアノを組みあわせた楽器だったが、オモチャをいたずらに演奏している感じで、想像していたより斬新な音が出ない。途中からマレットを二本右手に持ち、あいた左手にスティックを持ち、トイピアノを乗せた胴長バケツを、右手と同時にたたいて音を出す演奏に変えた。メロディアスな演奏。ここまでの演奏で、風巻が時計回りに「正面」方向を移動させながら演奏しているのがわかる。マット中央でマラカスをふるのを導入部に、コギリの演奏から時計回りにまわっていき、ふたたびコギリまで戻ってくるという順番(あるいは「物語」)になっているのである。

 “Naked Toy Piano” 以降は、バケツが大活躍する演奏となる。簡単に経過を記してみよう。(6)正座してバケツの底をふたつの木製ベルでたたいたりこすったりする。(7)バケツの底をこすりながら立ちあがり、胸前でバケツを縦に構えて木製ベルでこする。(8)再度マット上に正座し、今度はひとつの木製ベルを両手で持ちながらバケツの底をこする。(9)小型の太鼓を木製ベルとスティックの組あわせでたたく。(10)バケツのなかに道具や手拭いなどを入れ、ガラガラとかきまわしたり、ゆすってなかのものを飛び出させたりする。なかのものがなくなると、新しく小物の音具を入れる。最後に二本のフォークが残る。(11)バケツをガシャガシャいわせながら立ちあがり、右手にバチを持ってコギリをたたく。サウンド・コンビネーションの演奏。バケツをコギリに打ちつけたりもする。ここまでで演奏が一巡した。冒頭のマラカスを別にすると、一回転を10のシークエンスで構成したことになるだろう。この後は、冒頭のマラカスに対応するエピローグの部分となり、(12)胴長バケツを肩からかけて、左右にふりながら胴をマレットでたたくパフォーマティヴな演奏に移行した。

 ここで予想外のアクシデントが起きて、演奏者をあわてさせることになる。演奏の途中で、バケツを肩にかけていたひもが切れたのだ。機敏に肩ひもをおさえたので、バケツが床に落下することはなかったが、なんとか演奏しながら胴長バケツをマットのうえに降ろすと、そのままグルグルと回転させつつ、あたりに散らばる小物類を蹴散らして、マットのうえを円を描きながら動かしていくという、演奏というか、パフォーマンスというか、不思議な行為におよんだ。さすがの風巻も焦ったとみえて、リズムが走ったり、調子が狂ったりしていたが、それでもとっさの機転をきかせて、そこまでの演奏を通して自分が描いた円を、今度はバケツにたどらせることになった。突破事故によって、準備されたエピローグは、本番の演奏を反復する回転運動へと、予期せぬ発展をしてしまったが、最後には、マット中央に胴長バケツを置いて終了した。出来事を「起こす」というのではなく「呼び寄せる」こと、こちらから「飛びこんでいく」のではなく「待つ」ということが、この日マットのうえに広げられた楽器群の構成から透けて見えてくる。突発事故の起きやすい楽器構成そのものが、風巻の音楽や生き方の根幹にあるものの表現になっているのである。

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2013年3月18日月曜日

長沢 哲: Fragments vol.18 with 鈴木美紀子



長沢 哲: Fragments vol.18
with 鈴木美紀子
日時: 2013年3月17日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+1drink order
出演: 長沢 哲(drums, percussion)
鈴木美紀子(guitar)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



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 ギタリストの鈴木美紀子を迎えて、長沢哲「Fragments」の第18回公演がおこなわれた。私にとって、鈴木美紀子の即興演奏を聴くのはこれが三度目となる。ひとつは、アコーディオン奏者 à qui avec Gabriel 主催の「ぬばたまの闇にまとう魂たちの饗宴」(201025日)に、吉本裕美子とギターデュオで参加したときの演奏で、もうひとつは、高原朝彦/池上秀夫が主催するシリーズ公演 Bears' Factory に迎えられてのトリオ演奏2012122日)である。前者は、完全即興ではなく、構成を考えて演奏されたもの、後者は、ベアーズの拠点になっている阿佐ヶ谷ヴィオロンが、店主の美意識を反映して、アコースティック限定という厳格なルールをもうけているため、エフェクター類の使用に極端に気をつかいながらの演奏だったところから、ソロ演奏のある「Fragments」のライヴが、私にとって、本格的に鈴木美紀子の即興を聴く初めての機会となった。「Fragments」のソロでなにをやるかは、ゲスト奏者に一任されているので、リーダーバンド “Go Everywhere” を持ち、ギター弾き語りもする鈴木には、歌を歌うという選択もあったはずだ。実際のところ、第13回の「Fragments」(20121021日)にゲスト出演したテルミンの賃貸人格は、破格の歌を歌ったのであるが、鈴木はエレキギターによるソロ演奏を選択した。

 鈴木の即興演奏を一般的にいうなら、即興的なロック・インストルメンタルというのがわかりやすいのではないかと思われる。彼女がフェンダーのジャズマスターを弾いているのは、出発当初の “Go Everywhere” がめざしたのが、ソニック・ユースの音楽だったからということのようだ。即興演奏の歴史をはずしても即興がなりたつのは、形式や方法を迂回したところでも、私たちには、演奏の根拠や出発点にすることのできる身体的な現実があるからである。音楽的リアリティの源泉としての身体感覚といったらいいだろうか。そこからほとんど無限のヴァリエーションが生まれてきているのが、現在の状況といえるだろう。鈴木美紀子のギター演奏を形作っているのは、ひとつに、それ自身がロックならではの方法論といえるような、日常的な感覚に変容をもたらすエレクトリック・サウンドと、そこから生まれてくる解放的なイメージ、もうひとつは、まさしく「機械のなかの幽霊」さながらに、サウンドのなかを漂う声の歌謡性からやってくるほのぼのとした情感のふたつである。クラッシュするサウンドの放出は、潮騒のような満ち引きをくりかえして、生命的なバイオリズムを構成する。サウンドのひとつひとつは断片的なものでありながら、彼女の演奏には、その断片性を大きく包みこむ宇宙的な感覚が存在するのである。

 三部構成の第一部で演奏された鈴木のソロは、エフェクターを多用して、ギターサウンドを全面展開していくようなものだった。最近のサウンド・インプロヴィゼーション指向に通じるとはいえ、鈴木の場合、ときおりのアルペジオ演奏に聴かれるようなコード進行を捨てることがないところから、音響の「物質性」にスポットがあてられるより、サウンドのただなかから、ある種の感情や物語性がかもしだされてくる点に特徴がある。深いエコーを帯びた宇宙的な響きに感情が乗った瞬間は、まるで夕陽に照らされた音の粒子がカラフルに色づいていくようで、夢幻的な世界が眼前にいっきょに広がる。キラキラとまたたく星屑をいっぱいに散りばめた天球を見上げているような、サウンドの可憐さとロマンチシズムは、緩慢な満ち引きをくりかえす潮騒のバイオリズムとともに、鈴木ならではの魅力となっている。こうした鈴木の演奏を受け、第二部で展開された長沢哲のソロは、点描的なサウンド・インスタレーションとして演奏されていった。響きのナチュラルさとミニマルなありようが、鈴木とは真逆でありながら、シンバルの連打は、遠くから押し寄せる潮騒の響きを、また可憐な鉄琴の響きは、夢見るようなロマンティシズムをこだまさせていた。

 たったひとつの音のうえにでも、ゆるぎなく立つことができるように脚力を鍛え、響きを磨きあげていく長沢哲の音楽と、芥子粒のような細かな響きが寄り集まって描き出される音世界の広がりのなかで、初めて呼吸をはじめる鈴木美紀子の音楽は、かなり質の違う身体的リアリティを生きているように思われ、即興演奏のデュオとして出会うことは、けっして簡単ではなかったように思われる。セッションの前半、様子の探りあいに終始していたふたりは、中盤になって、おたがいにたくさんのサウンドを出しあい、共演者との間をへだてているになんとか風穴をあけようと試み、そのなかでアグレッシヴなサウンドをぶつけあう対決の場面も聴かれた。即興演奏のなかで、共演者のバイオリズムを裸のままつかむというのは、なかなか修練のいることである。後半になって、演奏もいよいよ終盤にさしかかるころ、鈴木が奏ではじめたアルペジオ、コードプレイ、そして東洋的なメロディに長沢の打楽が寄り添ったとき、ふたりの間ではじめて感情の交換がおこなわれた。3.11後の崩壊感覚と、断片化した私たちの(音の)ありようをテーマにする「Fragments」にとって、鈴木美紀子のソロ・パフォーマンスが見せた宇宙的な広がりのある世界は、そのありよう自体が、「Fragments」の次の一歩を示唆しているのではないだろうか。





【次回】長沢 哲: Fragments vol.19 with 須郷史人   
2013年4月21日(日)、開演: 7:30p.m.   
会場: 江古田フライング・ティーポット   

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2013年3月16日土曜日

石川 高+山崎阿弥+森重靖宗+立岩潤三: ペガスス



ペガスス
石川 高山崎阿弥森重靖宗立岩潤三
日時: 2013年3月15日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500(飲物付)
出演: 山崎阿弥(voice) 石川 高(笙、竿)
森重靖宗(cello) 立岩潤三(percussion)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 ヴォイスの山崎阿弥、チェロの森重靖宗、インド打楽の立岩潤三からなるトリオは、昨年10月に、祖師ヶ谷大蔵の「カフェ・ムリウイ」で初共演を果たしている。自然体で演奏された、身体の深い部分にまで届くリラクゼーション音楽は、これが初顔あわせとは思えないほどのアンサンブルを実現していた。ほぼ半年ぶりにおこなわれた喫茶茶会記の「ペガスス」公演は、このトリオに笙の石川高を加えた発展形のセッションといえるだろう。とはいいながら、第一部で石川と山崎のデュオを、第二部で森重と立岩が加わってカルテット演奏するという構成は、狙いも、音楽のありようもまったく異なるふたつのセッションを結合した印象だった。これはおそらく、石川との(演奏者としての)再会を構想した山崎が、ふたつの形の出会いをプログラムしたということなのだろう。笙はもちろん、この日は復元楽器の竿(う)も演奏した石川は、楽器演奏を通じた息のスペシャリストで、この意味において、山崎との共演はヴォイス・デュオと考えるべきものと思われる。第二部のカルテット演奏は、前半のデュオ演奏を踏まえながら、ロングトーンをベースに、大らかなサウンド世界を描く石川/森重コンビと、その反対に、断片的なサウンドで次々とイメージ切断をおこなっていく山崎/立岩コンビの対比を際立てるようなセッションがおこなわれた。

 石川高の息の音楽と山崎阿弥の即興ヴォイスは、あらためて述べるまでもなく、それぞれが、それぞれのありかたで強度を持つサウンドを作り出しながら、会場の中央に、二脚の椅子を相対してならべたようには相対しておらず、響きのやわらかさにおいて、繊細かつ微妙であるとともに、まるで階下に住む住民と階上に住む住人の違いのように、それぞれがよって立つステージの相違によって、別々の領域を動いていくように思われた。山崎のヴォイスは、オノマトペのように、意味のある言葉を発するわけではないにしても、やはりひとつの言語として行使され、精度の高い鮮明なヴォイスが単語のようにその場に置かれていく。その一方で、石川の息というのは、文字通りヴォイスを運ぶものとしてあり、すべての言語的なるものを支える実相をむき出しにするものである。即興の領域では、1990年代の中盤に、ソプラノ奏者のミッシェル・ドネダが、フレーズを捨て、サックス管に息を吹きこむだけの演奏をはじめたことを参照するとわかりやすいかもしれない。写真でいうなら、フィルムに写るあれこれの被写体を問題にするのではなく、映像を可能にする光そのものを問題にするということになるだろうか。これは、どちらがより声の本質に迫っているかというようなことではなく、ふたつの位相が揃うことで初めて知ることのできる重層的な経験のありようといえるだろう。

 そうであるがゆえに、ふたつの位相はどこまでも交差することがない。デュオ演奏の冒頭に出現した、喉をつめて出すかすれたような高い声は、吉田アミのハウリング・ヴォイスを思わせ、コロコロと転がす声は、まるで森のなかの動物のよう。瞬間的にメロディーがあらわれるかと思えば、なにごとかを呟く声調が意味不明なことを訴える。こうした数々の声をスイッチしていく山崎のヴォイスが、細くなり太くなりしながら、靄のようにあたりにたちこめる笙や竿の響きと並行して、次々にあらわれては消えていく。石川もまた、煙のような響きをただくゆらせるだけでなく、山崎の声のリズムや強度を意識しながらサウンドを変容させていく。彼女のヴォイスより少し遅れていたかと思うと、いつの間にか追いつき、ときには行く先を照らす光のようになって響きを移していく。声の位相のずれが、ずれたままで二枚の鏡となり、おたがいの姿を少し違う形で映し出しながら、追いつ追われつしていくさまは、二匹の蝶が、みずからのテリトリーを守りながら、春の陽の光に鱗粉を輝かせ、上になり下になりしながらダンスする姿を思わせ、あたかも胡蝶の夢を目前に見るかのようであった。これはまさに、ある種の並行世界を経験することに他ならない。

 第二部のカルテット演奏は、敷物のうえに座り、フレームドラムやタブラといった楽器はもちろんのこと、赤いホースや新聞紙まで使って演奏する立岩潤三が、おもに山崎のヴォイスと呼応する散文的なサウンドが一方にあり、チェロで官能的な弦楽を奏でる森重靖宗が、おもに石川の古代的な響きとアンサンブルする情感的なサウンドが一方にあるという具合で、いっきょに音色パレットを増した環境のなか、どちらのサイドにも傾斜してしまうことのない絶妙なバランスのなかで演奏が進行していった。即興ヴォイスではしばしば見られることだが、山崎のパフォーマンスには、音楽だけでなく演劇的な要素もあるようで、座っている椅子を動かして音を出したり、カラスの鳴き声や狼の遠吠えを場面構成に使ったり、セッションの最後の場面では、宮沢賢治の曲としてよく知られる「星めぐりのうた」を歌ったりした。巻上公一や蜂谷真紀を引きあいに出すまでもなく、このように雑多なものをネットワークしていくことができるのも、ヴォイスならではの特徴となっている。立岩潤三のインド打楽は、チェロや笙の響きをドローンにすることもできるし、リズムを口唱歌するように、山崎の声性に寄り添うこともできる境界的な位置に立っていた。彼がありきたりな形式に依拠したり、カルテットの仲介役を引き受けたりせず、つねにその境界線上にとどまって演奏していたのも、場を自由にすることにつながってみごとだった。





   【関連記事|山崎阿弥】
    「森重靖宗+山崎阿弥+立岩潤三@祖師ヶ谷大蔵カフェ・ムリウイ」(2012-10-29)

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