2012年5月31日木曜日

長沢 哲: Fragments vol.8 with カノミ



長沢 哲Fragments  vol.8
with カノミ
日時: 2012年5月20日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 長沢 哲(ds, perc) カノミ(g, as, fl, recorder, sounds)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)


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 江古田フライング・ティーポットで定期開催されている打楽器奏者・長沢哲の「Fragments」シリーズ第8回のライヴが、多楽器奏者のカノミを迎えておこなわれた。タイトルの「Fragments」(破片)は、3.11以降の日本人に広く体験されている社会的な崩壊感覚を、福島県出身の長沢哲が彼自身の内部にあるものとして受けとめ、みずからの音楽活動を、現在ただいま破片の散乱状態としてある場所からふたたび起こしていくために、それらの破片を拾い集め、つなぎあわせることで、そこからなにか未来に希望をもてるようなものが新しく生まれてくることを願ってつけられたものである。長沢のライフワークになっているソロ演奏がひとつ、旧知の音楽仲間はもちろんのこと、新たなアンサンブルの可能性を開くことのできる演奏家を招いておこなう共演がひとつという、ふたつの要素を組みあわせている。ゲスト奏者の演奏、長沢の打楽ソロとつづき、最後に全員参加で即興セッションをおこなうライヴ構成は一貫して変わらない。端的に言うなら、3.11以後の社会的な崩壊感覚は、原発事故以後にもたらされた地域コミュニティーの崩壊を、ダイレクトに反映したものであろう。ソロによってみずからの音楽のありようを再確認するとともに、即興セッションを通して様々な人を結び、ネットワークを作ることが、こうした崩壊感覚を押し返していくための大きな力になるということを、長沢は直感的につかまえているのだと思う。

 ゲスト奏者の「カノミ」は、多楽器奏者の保坂純がソロで演奏するときのプロジェクト名である。活動歴としては、ピロシキ・アンサンブルという演劇的パフォーマンス・ユニットでの活動のほうが長い。そのせいなのだろうか、この日のカノミのソロ演奏も、あらじめサウンド・モンタージュされた音の流れを背景に、アルトサックス、ギター、リコーダーという具合に、場面ごとに楽器をスイッチしながら、演奏を対応させていくコンポジション的なものであった。波の音や人の声などの環境音、メロトロンのサウンドやノイズなどの響きを、ブリジット・フォンテーヌの「ラジオのように」のような、名曲中の名曲のメロディーとライヴで組みあわせる方法は、様々な音楽に通じているDJのようだった。テープ・モンタージュの進化形と言うこともできるが、カノミの場合、パフォーマンスの全体から、最終的に、印象的なひとつの風景が立ちあがってくるのが大きな特徴といえるだろうか。こうした背景を知ってみると、数ヶ月前(3月5日)に、ギターの吉本裕美子が阿佐ヶ谷「ネクストサンデー」でおこなった即興セッションに参加したとき、楽器を順番にスイッチしながら演奏していたのが、現在のカノミのパフォーマンス・スタイルなのだということがわかる。この晩のパフォーマンスでは、用意したフルートを本番で使うことを忘れたということなので、背景音とライヴな即興演奏は、必ずしも厳密に対応しているものではないらしい。偶然に描き出されるサウンドスケープのなかに、カノミ的なるものが刻印されているのである。

 かたや長沢哲の打楽ソロは、キットドラムの全体を使ってフル演奏されるものではなく、ドラムの一部分を、あたかもそれぞれに特色のある一地方のように分割して特徴のあるリズム・パターンを作り出し、ドラム王国の各地域を次々に経めぐっていきながら、同時に、いくつもの場面を連結していくというものだった。長沢のいう破片を拾いあげていくような感覚、サウンドを新たに結びあわせていくものとしてのドラミングという発想が、こうした演奏スタイルに反映されている。即興演奏の全体は、演奏がトーキングドラムのように静かに語りかけてくるものであるためか、どんなに大きな音の演奏になったとしても、ささやくような、ひっそりとした雰囲気におおわれている。語りかけるようなメロタムの連打、潮騒のように波打つシンバルの響き、ゆっくりとした、また急激なテンポのアンサンブル、響きの余韻を聴く点描的ドラミングなどなど。それでも少しずつ打楽は演奏の強度をあげていき、静かだったリズムによる語りは、自信に満ち、確乎とした足どりを示すようになっていく。クライマックスの沸騰点を持つことはないが、いったん密になったリズムは、あるポイントを境にして、ふたたびゆっくりと地上に足をおろしてゆく。語りに起承転結がつけられているという点で、長沢の打楽ソロは、ひとつの物語を語っているといえるだろう。個人的には、スイスの打楽奏者フリッツ・ハウザーを連想させられた。

 最後の即興セッションに、カノミがサウンド・モンタージュを使ったのは斬新だった。カノミが選択するサウンドは、決して演奏の前面にしゃしゃり出てくる性格のものではないが、海に赤い絵の具をぶちまけたような、いたく感覚を刺激してくるところがある。イメージの喚起力が強烈なのだ。その一方で、フルート、アルトサックス、ギターなどをスイッチしていくカノミの演奏は、あくまでもサウンドの提示に終始していて、共演者との対話力に秀でた即興とはいえなかった。古いタイプのフリージャズ演奏といったらいいだろうか。そのなかでドラムとの相性がよかったのは、サウンドコラージュによるエレクトロニクス演奏と、アルトサックスによるジャズ演奏だったと思う。長沢哲のドラミングは、即興セッションのときも、最後の場面でパルスを出して共演者に合わせてはいたが、基本的には、打楽ソロのときとおなじ語りの音楽でありつづけていたように思う。フリー・インプロヴィゼーション的なランゲージの音楽と、ニュージャズの間を自由に往来する演奏を聴かせたという意味で、即興演奏の諸相を心得た演奏家といえるだろう。

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江古田フライング・ティーポット
 
 

2012年5月30日水曜日

Long Arms - New Moscow



ポスト・クリョーヒン・スタディーズ 2012
第2回:モスクワ最新動向
日時: 2012年5月19日(土)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開演: 5:00p.m.~
料金: 資料代 500円+ドリンク注文(¥700~)
出演: JAZZBRAT(鈴木正美、岡島豊樹)
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)


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 すでにロシア音楽ファンの間ではよく知られているように、吉祥寺サウンド・カフェ・ズミに場所を借りて、鈴木正美と岡島豊樹からなる<ジャズブラート>コンビが、セルゲイ・レートフやアレクセイ・アイギの来日公演なども含むロシア音楽(および芸術)関連の定期的な報告会を、「ポスト・クリョーヒン・スタディーズ」のタイトルで主催している。5月中旬、今年に入ってから二度目となる「モスクワ最新動向」が開催された。第一部では、この3月に当地を訪問した鈴木正美がビデオ映像によっておこなう帰朝報告を、また第二部では、岡島豊樹が文化センター “ドム” のオリジナル・レーベル “ロングアームズ” の最新作を中心にロシア音楽の最前線を紹介するという、二部構成の報告会であった。鈴木の帰朝報告は、モスクワ在住の関係者を訪問するパーソナルな体験談を多く出るものではなかったが、第二部の音盤紹介では、タイトルがことごとくデジパック包装になっていたロングアームズの最近作を通して、モスクワ・シーンの現在をうかがわせるところがあった。故ニコライ・ドミートリエフが発掘した才能たちが、いまもなお活動を発展させている一方、新たなミュージシャンも登場してきた。

 最初にフィーチャーされたのはマルチリード奏者のアレクセイ・クルグロフ。ウラジーミル・タラソフのブラッシュワークに伴奏されたクラリネットと、幅広い空間性を開くオレグ・ユダーノフのアフリカン・リズム風パーカッションに伴奏されたアルトサックスという、それぞれに自由度の高いジャズ演奏が紹介された。ロングアームズの新譜紹介に入っての第一弾は、ドミトリー・ラプシ(b)、オクサナ・グリゴリエーヴァ(ds)、アントン・ポノマレフ(as, brs)のトリオによる『BROM』のハードコア・フリージャズで度肝を抜かれる。一時期「スプラッター・ジャズ」という呼び方もされていたあのスタイルである。ビル・ラズウェルらのラスト・イグジットだとか、ジョン・ゾーンらのペイン・キラーという、演奏されるサウンドの密度を意識的に高くした濃縮音楽をもって、新たな感覚を開こうとした音楽の系譜に属するものといえるだろう。しかし、モスクワではどう評価されているのかわからないが、私たちの耳には、あの時代を回顧させてしまうデジャヴ感にあふれているという点で、奇妙な時代錯誤感にもとらえられる。同じ濃縮音楽が、ラスト・イグジットではフリージャズの記憶と連動させられ、ペイン・キラーでは、一種のゲーム感覚のなかに置きなおされていた。現代モスクワの音楽シーンをリードする感覚はどちらなのだろう。

 次にスポットをあてられた3組は、いずれもローカルな声の音楽。ピアノ弾き語りのダリア・オニシュク、レーベルのスタート時から活動しているセルゲイ・ジルコフとエレナ・セルゲーエヴァによる “NETE”(ニェチェと発音するのだろうか?)の「Christmas Song」「Loshcha」「There, by the rivers of Babylon」、そして誰が呼んだのか「ロシアのディアマンダ・ギャラス」として話題になっているという、憑きもの系の歌手/語り手ヴェーラ・サージナの「赤い光線の中へ」「青い霧」などである。しかしどれも、そんなに風変わりだったり、奇妙だったりする歌を歌っているわけではなく、こんなふうに世界が激動のなかにある時代には、トラッドに原点をもつ、ローカルな歌を聴くのが精神の安定にもいいよね、という印象を与えるものである。歌の地産地消。声の地産地消。出発当初の “NETE” は「アヴァン・フォーク」などと呼ばれたが、この演奏ではすっかり伝統的な世界に回帰して、かつての実験精神は影をひそめている。ここに紹介された歌手たちはみんな、内面に向けて歌を歌っている。トラッドの意味が、以前とは(ニコライ・ドミートリエフがこの領域に注目していた頃とは)別のものに変化しているのではないかと想像される。ヴェーラ・サージナについては、詳細な情報がわかっていないというが、聴いたかぎりでは、ロシアの女性パンクみたいでもあるし、ローファイといってもいいかもしれないし、御詠歌のようでもあるし、要するに、やっていることはよくわからないのだが、これまでに決して聴くことのなかったタイプのロシア歌手であることだけは確かである。


 すでに大家の雰囲気を漂わせはじめた作曲家ウラジーミル・マルトゥイノフの新作を聴き、クロノス・カルテットが演奏した「The Beatitude」によって作風のヴァリエーションを確認したあと、第二部の最後に、サンクトペテルブルクを拠点に活動するロシアン・インダストリアル・ノイズの雄ニック・スードニクの新譜『Depot of Genius Delusions』から「Ultralight Elements」が紹介された。なにかをたたく音、なにかを引っ掻く音、なにかをはじく音といったノイズ系のサウンド、テープで流されていると覚しき環境音、笛の響き、それらが多重録音で音場の隅から隅まで配置され、ちょっと聴いただけではおたがいになんの関係もないような具合に演奏されている。ノイズ・サウンドを何重にもかさねた音幕はぶ厚く、それに加えるに、コンピュータの普及により、エレクトロニクス大衆化の波をかぶった西側のノイズ・ミュージックにはない物質的な感覚、一種の「野生」と呼んでもいいような要素をサウンドに刻みこんでいる。日本の音楽シーンとあえて比較するなら、広瀬淳二の “セルフメイド・インストゥルメント” と同じ行き方なのだが、広瀬のほうは最近、少しずつ音響彫刻的な楽器のとらえ方へと移行し、ライヴ演奏ではハプニング風の展開を見せるようになってきている。いずれにせよ、この感覚のリアルから離れることがないのは、ノイズ音楽の古いスタイルだからというわけではなく、その逆に、スードニクの音楽がとても現代的なテーマをとらえているためと思われる。





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吉祥寺サウンド・カフェ・ズミ

2012年5月29日火曜日

Wormhole@黄金町 試聴室その2



Marcos Fernandes presents
Port of Call vol.8: Into the Wormhole
日時: 2012年5月26日(土)
会場: 横浜/黄金町「試聴室その2」
(神奈川県横浜市中区黄金町2丁目7番地先「黄金スタジオ内」)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥1,500+order、当日: ¥2,000+order
出演: 新井陽子(keyb) 狩俣道夫(sax, fl, vo)
田中悠美子(太棹三味線, vo) kawol(g, vo)
清水博志(perc) マルコス・フェルナンデス(perc)
予約・問合せ: TEL.045-251-3979[12時~22時](試聴室その2)


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 サウンドアート的な指向をもつ打楽器奏者マルコス・フェルナンデスが主宰する即興グループ「ワームホール(虫穴)」は、その時々に海外からのゲストを迎えるなど、流動的なメンバー構成によって維持されるアメーバ状の活動体である。風変わりなグループ名は、即興演奏の個人技よりも、むしろ国籍・人種の如何を問わず、多種多様な人々が即興演奏によって複雑に入り組んだ関係性を描き出していく地下茎の猥雑さ──かつてドゥルーズ=ガタリによって概念化された「リゾーム」モデル──を、即興演奏の関係性のヴィジョンとして重視した結果ではないかと想像される。ときにパラレルな演奏の状態が延々とつづくこともあるフリー・インプロヴィゼーションにおいて、参加する演奏者の人数は、少なければ少ないほどいいとされる。人数の多さは交通渋滞につながり、いたずらに他人の演奏に追従したり、演奏者が自分の演奏の方向性や意味を見失ってしまう危険性が大きいからである。ームホールの特徴は、セクステットという、即興演奏ではラージ・アンサンブルの部類に入るメンバー構成でパフォーマンスするために、大幅にリズムを取り入れていることにある。この意味から言うなら、つねにビートを出しているというわけではないが、グループを下支えするのはフェルナンデスと清水博志の打楽コンビで、そのうえにさまざまなサウンドが即興的にトッピングされていくという意味で、ピザのような演奏構成になっているのではないかと思われる。

 会場になった横浜黄金町の「試聴室その2」は、京浜急行の高架線下にずらりと並んだボックス状の建物のうち、157番と158番のボックスを使ってライヴスペースと軽食喫茶ラウンジを開設したものである。店の中央に高架線を支える大きなコンクリートの柱が立っているが、その四方を書棚で埋めて喫茶店の雰囲気を作っている。気になる音盤や書籍をカフェで自由に試聴したり読書したりできるスペースということである。大岡川に面して張り出し窓をもつ各ボックスは、反対側の商店街に面した建物内に、まるで廊下のように感じられる、屋根つき、縁側つき通路で連結されており、そこから各ボックスに出入りできるようになっている。「試聴室その2」にだけ大岡川沿いに出入口がある。黄金町と日ノ出町を結ぶこの高架線下は、じつは街娼が春をひさぐ青線地帯として知られたエリアで、10年ほど前に、そうした風俗営業の「スナック」に、橋梁補強工事の名目で追い出しがかかり(「横浜開港150周年」に向けた街のイメージアップが目的だったといわれている)、そのあとにこの賃貸ボックスが造られたという来歴をもっている。電車が通過するたびに天井から大きな轟音が響く。音楽にとってはかならずしも恵まれた条件とはいえないが、関係者にも少しずつ知られてきているようである。ステージは三人が乗るほどの広さしかなく、フェルナンデス、清水博志、狩俣道夫はステージ下で演奏した。「Port of Call」はフェルナンデスがこのスペースで毎月開いている公演シリーズのタイトルで、そのひとつとしてームホールの即興セッションがおこなわれたのである。

 マルコス・フェルナンデスが参加するフィールド・レコーディング奏者の集まり「Tokyo Phonographers Union」のライヴ・パフォーマンスを、この公演に先立つ5月3日に渋谷のBar Issheeで聴いたのだが、いたってゆるい関係性のうえに成り立つ即興演奏という点で、そこでも似たような印象をもった。「写真に撮影会という集まりがあるように、フィールド・レコーディングにも録音会のようなものがあり、このようなライヴもまた、その場にいる観客を巻きこみながら、そうした相互鑑賞、相互批評の場の延長線上にあるものとして機能しているのではないだろうか」という感想を書きとめたが、試聴室でおこなわれた集団即興にも、基本的には同じことが言えると思う。コンピュータによる即興的な演奏では、時間として流れることのないサウンドプールが出現したのだが、リズムを重要な要素とするームホールにおいて、演奏されるサウンドはひとところに滞留したままにはならず、なだらかな山や谷のラインを描き出しながら瞬時に流れていく。演奏者たちの異質さが音楽の停滞状態を生まないように、ふたりの打楽器奏者が媒質役をつとめている。交通整理のようなことをするわけではない。ときどきリズムで風通しをよくするのである。こうした関係性に対する嗜好というのは、ハマ育ちのフェルナンデスの楽天的な性格によるのだろうか、あるいは異質なるものの間を生き抜いてきた知恵によるのだろうか。

 アンサンブルは誰かがああ言えば誰かがこう言うという状態の連続で、ときどきソロが浮かびあがっては沈んでいく井戸端会議という感じなのだが、演奏の終着点が見えないままで、集団的にその場の方向性が選択され、新たに選ばれた方向にみんなで参加していくということの反復によって進展していった。それでも共演者の演奏にコメントする相互批評と呼べるような即興も聴かれた。ライヴの第二部で、テニスコーツの話題からギターのつま弾きでスタートしたkawolが、ふたたび同じテーマに戻って終わるという予定調和的な展開をしたのを、それではならじと狩俣道夫がヴォイスで破った場面などである。しかしこうした場面は例外的なものだったように思う。全体として見ると、メンバーの即興演奏は、対話のための言葉になっているというよりも、むしろ個性的な色彩をもった絵の具のような感じで、集団創造で即興的な絵画を描いていくという印象は、先述した「Tokyo Phonographers Union」のありかたに通じるものだった。そのなかにあって、狩俣は演奏の進行状態を読みながら、獲物を狙う鋭い鷹の目をもって、彼自身のソロを効果的に挟みこむことのできる場所をいつも探しているふうであった。kawolの演奏に対する対抗ヴォイスも、おそらくはこうしたことの一環としてあらわれたものであろう。



  【関連記事|Marcos Fernandes】
   ■「Julie Rousse with Tokyo Phonographers Union」(2012-05-04)

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黄金町 試聴室その2




2012年5月28日月曜日

鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート:その9



鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート
ELECTRICAL PARATE: PART 9
日時: 2012年5月27日(日)
会場: 東京/大崎「l-e」
(東京都品川区豊町1-3-11 スノーベル豊町 B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order
出演: 木下和重(violin, electronics) 鈴木 學(electronics, 元野菜)
ゲスト:古池寿浩(trombone, electronics)
問合せ: TEL.050-3309-7742(大崎 l-e)
※電話はライブのある日の午後5時以降にお願いします。


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 木下和重と鈴木學によるエレクトリカル・パレートの第9弾は、デュオにとって共演歴の長いトロンボーンの古池寿浩を特別ゲストに迎えてのライヴ・パフォーマンスとなった。演奏者がひとり加わるだけで、スカスカだった音響機器の配置はぐっとにぎやかなものになったが、古池は経験の深いエレクトロニクス奏者というわけではなく、それどころか、ライヴがはじまっても、音響機器の取扱説明書を見ながら音を出しているような初心者の状態だったため、アンサンブルの厚みにさしたる変化はなかった。デュオのマンネリ化を打開するゲストの必要性と、エレクトロニクス演奏が高度に専門化したり、うるさ方の鑑賞に堪えるほど作品化したりすることを回避したいという欲求が、エレクトリカル・パレートの演奏を、いわばダブルバインド状態に置くなかで白羽の矢が立てられたのが、木下和重が意図するパフォーマンスの機微を心得ている古池寿浩だったということなのだろう。エレクトロニクス・デュオがもっている質感を、先に「野生のエレクトロニクス」というような言葉で呼んだことがあるが、生音であれ電子音であれ、響きをこの物質感のようなものから引きはがしてしまわないために、それこそケージ的な戦略を立てるというのが、木下ならではの音楽の手法となっている。これはもう感覚化された思想問題のようなものといえるだろう。主催者が決して解説することのないこの音楽センスは、ループライン・サークル(とここではあえて言わせていただくが)の共通感覚として分有されているものである。

 私たちはしばしば誤解しがちなのだが、これは音楽に対する理解の問題ではなく、あくまでも戦略の問題である。換言すれば、そこでどのようなエレクトロニクス音楽が演奏されたかということではなく、音楽の前提となる響きの生態において、どのような共通感覚が創造されているか(あるいは創造にしくじっているか)ということの問題といえるだろう。同じような演奏の反復によって、閉じていってしまう響きの地層に足をつけておくため、木下が採用しているのは、演奏を成立させている音楽構造そのものをいじるのではなく、音楽構造を脱臼させるような要素の採用──すなわち、どんなふうに変わるかは事前によくわからないものの、とにかくこれまでになかった出来事をひとつ演奏に足してみるという手法である。それは概して音楽の外部にある要素であることが多く、それだけに効果のほどは(おそらくやっている当人にも)よくわからない。そこに「私は変わったと感じた」という観客の証言が求められるゆえんであるが、それもまた主観(的感覚)の束にすぎない。そもそも新たにつけ加えられた要素を出来事として感じていない観客には、最初からなにも生じなかったことになる。この日のライヴでも、音響機器を乗せたテーブルの隅になにげなく置かれた金剛仏や恐竜を、誰がコンポジションとして感じただろうか。10人が10人とも、そこに無関係という関係しか見いださない。しかしおそらくこれは、木下にとって、古池寿浩をゲストに迎えるのと同じことなのではないかと思われる。

 効果のほどはわからない。実際に受けた印象からも、なにが変わったというほどのこともないような気がする。それでもかつてはそこになかった出来事がいまは存在しているのだから、私たちは意識の隅でそれを感じて、エレクトリカル・パレートの演奏をこれまでとは別のものとして経験しているはずである。ここで言葉によってなんとか示そうとしている変化は、聴き手の意識が意識化することのできない領域、すなわち無意識の領域で起こっているものであり、それは音楽鑑賞をはみ出す身体的なレベルを操作することによって生じている。意識化できない変化を意識化するためには、無意識をのぞきこむための特殊な偏光レンズをもつ必要がある。木下がなにげなくしていること。それは音楽的なことと(とりあえず)関係がないために、私たち(の意識)は無視してしまうが、そうした出来事からじわじわと滲み出してくる何事かを、わからないままに、けっして見逃がさないことだろう。おそらくはそれが変化の実質ということになる。エレクトロニクス音楽だのノイズ・ミュージックだのを聴こうとして訪れた音楽ファンにとって、これはかなりやっかいな作業ではある。私たちが実際に聴かされているものは、音楽であることは確かなのだが、なにかもっと別のものだからである。

 ストップウォッチを使い、前後半それぞれ30分間おこなわれた第二部の終わり近く、不慣れな音響機器を操作するまどろっこしさから、古池寿浩はエレクトロニクス演奏を放棄し、グリーン色のトロンボーンを生演奏して、シンプルにして豊かなサウンド・アンサンブルを構成した。それにつられたのか、木下和重もヴァイオリン弦を弓の先端でカタカタとはじくノイズ演奏をしはじめると、木下の音楽戦略の対極にあって、盤石のエレクトロニクス演奏をする鈴木學もまた、音響機器の自動演奏に身をゆだねるのではなく、つまみ類に指を置いたまま、極めて操作性の高いノイズ演奏をすることになった。これは音響機器を楽器として扱ったということを意味するだろう。すでに指摘したように、エレクトロニクス演奏においては、電子音がそこに連続的にあらわれることを可能にする枠組みのループそのものが、大きな意味生成の場のひとつと考えられるのだが、そうした枠組みをはずれて、即興的なアンサンブルのなかで演奏が構成されたのである。これはまさしく古池効果というべきものだろう。テーブルのうえの金剛仏や恐竜はどうだったか? 鈴木學の出すハーシュ・ノイズが、まるで恐竜の声のように聞こえたかって? そんなことは微塵も思わなかったが、エレクトロニクス演奏がもっているアブストラクトなイメージを、視覚的に裏切っていたくらいのことはいえるのではないかと思う。


   【関連記事|エレクトリカル・パレート】
    ■「鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート:その8」(2012-04-22)

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大崎/戸越銀座 l-e
 




2012年5月26日土曜日

高岡大祐チューバSOLO



高岡大祐SOLO
日時: 2012年5月16日(水)
会場: 東京/渋谷「Bar Isshee」
(東京都渋谷区宇田川町33-13 楠原ビル4F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: 投げ銭+order
出演: 高岡大祐(tuba)
予約・問合せ: TEL.080-3289-6913(Bar Isshee)


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 精力的な活動をしているチューバ奏者・高岡大祐の演奏を、これまでまったく聴かなかったわけではない。ずっと以前、音響派あるいは音響的即興がさかんに議論されていたとき、彼がサックスの松本健一やトランペットの田村夏樹と結成していた即興トリオ “ダイバー” を聴いたことがある(2004年10月)し、アラン・シルヴァの日本版セレストリアル・コミュニケーション・オーケストラに関島岳郎とのダブル・チューバで参加(2008年8月)していた彼が、チューバからチューバならざるサウンドを生み出すソロ演奏で、観客の度肝を抜く場面に遭遇したりもした。それなりの印象はあったのである。ただ、そのころの私は、音響的即興の典型的なモデルに、ミッシェル・ドネダの息の演奏やジョン・ブッチャーのインヴィジブル・イヤーを想定していたため、ダイバー・トリオに中途半端な印象しか持つことができなかった。というのも、彼らの演奏はあまりに健全的で、いってみるならば自己肯定的、「即興のパラダイムシフト」を帰結するような、即興をもってする即興演奏の自殺といった暗い側面を、まったく感じることができなかったからである。それが間違っていたというようなことではなく、そのようにしかありえない日本の状況が、音響的即興との差異を逆に際立たせていたということなのだと思う。即興を批評する基準はもちろんのこと、音を聴きとる耳のあり方そのものが激しい地殻変動を起こしていた時期で、ブームとしての音響派はたしかに去っただろうが、たくさんの演奏家を巻きこみながら、運動そのものは水面下でいまも進行中だと思う。

 チューバという楽器は象のように美しい。群盲象をなでるというか、楽器の各部分がさまざまな風景を描き出す建築物のようで、たたずまいがとても魅力的なのである。こう感じるのは私だけかもしれないが、バルセロナに建つ未完の教会サグラダ・ファミリアを連想させる。セルパン(蛇)と呼ばれる同系統の古楽器があるように、一本の長い金属の管を、蛇がとぐろを巻くようにぐるぐる巻きにして抱えられるようにしたもので、演奏者には大きな肺活量と体力が求められる。チューバ管の長さ、つまりチューバの大きさにはさまざまな種類があるそうである。ピアノでもコントラバスでも、巨大な楽器にはプリペアドがしやすいが、高岡大祐のチューバ・ソロも、サーキュラー・ブリージングや声の併用、マウスピース抜きの演奏といった特殊奏法に加え、この巨大な楽器に(ときにはその場の思いつきで)さまざまなプリペアドを施しながら演奏が進行する。しかしそれは、多彩な演奏テクニックを並べるだけのクリシェに終わらないよう、ありとあらゆることをしてみるといった挑戦に類するもので、チューバという楽器を脱構築するため、この楽器らしからぬ演奏を開発するという戦略ではないし、音響のみによる演奏といった特殊な実験音楽をめざしたものでもない。

 特殊奏法のオンパレードにより、チューバらしからぬ奇怪なサウンドが次々につづいていくということからするなら、あらわれは音響的即興にとても近いものといえるのだが、アグレッシヴな高岡大祐の演奏スタイルがもたらす全体的な印象は、どうもそのようなものではない。大友良英のマニフェスト「音楽家はただ音を出す無力な存在でいるべき」であるとか、Sachiko M の演奏を「引き算の音楽」と呼ぶような、即興演奏の制度性をクールに問いなおす音響派美学からも限りなく遠ざかっている。少なくとも、いまはその片鱗すらない。理解の鍵は、おそらく彼が息によるチューバ・サウンドだけでなく、声を併用する(ときにはメロディーを歌ったりもする)ところにありそうである。それはインスタントに複音のハーモニーやフラッター・サウンドを得る方法にもなっているのだが、それだけではなく、演奏者の身体をこの楽器と全面的にかかわらせるための積極的なアプローチと思われるからである。身体における過剰なるものの突出を、高岡大祐は、フリージャズのようにではなく(フリージャズを迂回するために)、このような彼ならでは方法によって表現しているのではないだろうか。それは音響的即興の真逆をいくものといえるだろう。あるいは音響的即興の定義を別のものに変えることを意味するだろう。

 前半後半ともに40分ほどのソロ演奏を、高岡大祐は、酸欠による昏倒もなしに、信じられないほどの肺活量で走り抜けた。ベルの方向を変えるためにチューバを持ちなおし、とぐろを巻いたチューバ管の一部をはずし、演奏中にピストンをゆるめ、また締めなおし(この日が初めての試みだったというが、ピストンをゆるめると息ができなくなり、無音のサーキュラー・ブリージングをするという奇妙な場面が出現した)、マウスピースをはずして息を直接楽器に吹きこみ、用意したフレームドラムを垂直に立ったベルのうえに乗せたり、ベルの周囲に斜めにあてたりしてサウンドを変化させ、さらにゴム紐で結んだ髪に挿してあった菜箸を抜き出すと、ベルのうえで震えているドラムの皮面にあててバリバリといわせたり、最後には、音程をチューニングする管の部分をゆっくりとスライドさせて、声との間でフラッター・サウンドを生み出すということまでした。ほんとうにありとあらゆることがなされ、これがソロ演奏では毎回異なるのだという。今日の演奏は昨日の演奏とは別のもので、おそらく明日の演奏とも別のものだろう。即興ヴォイスの領域は、「ヴォイス・パフォーマンス」という天鼓の造語によってスタートしたが、高岡大祐の演奏も、声つながりで「チューバ・パフォーマンス」と呼ぶべきものかもしれない。

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渋谷 Bar Isshee
 

2012年5月25日金曜日

パール・アレキサンダーのにじり口 with 勝井祐二



Pearl Alexander presents "Nijiriguchi"
パール・アレキサンダー:にじり口
with 勝井祐二
日時: 2012年5月20日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金/前売り: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: パール・アレキサンダー(contrabass)
勝井祐二(violin)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)


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 当初ゲストに予定されていた山本達久が、事故に遭って現在治療中のため、ピンチヒッターにヴァイオリンの勝井祐二を迎えたパール・アレキサンダーの第五回「にじり口」セッションがおこなわれた。いつものエレクトリック・ヴァイオリンを生楽器に持ち替えた勝井の登場は、本人にとってもスペシャルな条件での演奏となった。はっきりと表明されてはいないものの、主催者であるアレクサンダーの演奏に即してみれば、「にじり口」はフリー・インプロヴィゼーションのシリーズ公演である。エレクトロニクスや舞踏の領域へと越境していく現代のフリー・インプロヴィゼーションというのが、おそらくは本シリーズ公演の眼目で、即興によって切り開かれる場であると同時に、そこで即興が問いなおされることになるような場を、若い女性コントラバス奏者が担っている。楽器をエフェクター類に接続して、ディストーションやディレイやループをかけてサウンドを電気的に異化させたり多声化したりしながらパフォーマンスするという、通常のロック・コンヴェンションを離れ、ヴァイオリン一挺での演奏となったこの日のセッション。勝井にとっては、共演者がリズムやビートを出してくれるわけでもなく、簡単に対話もしてくれないという意味で、いつもと少し様子の違うライヴだったのではないだろうか。

 トラッドの色彩感覚をもったメロディーを次々に紡いでいく勝井祐二のヴァイオリンは、上半身をさかんに動かして、ダンサブルでもあればパフォーマティヴでもある高揚感のなかで演奏された。メロディーの歌い方そのものに、身体的な運動からくる躍動感がもたらされている。ヴァイオリンというよりはフィドル、インプロヴァイザーというよりはプリマーシュ(ジプシー楽団のリーダー兼ソロ・ヴァイオリニストのこと)と呼びたくなるような雰囲気を放っているのは、太田惠資や喜多直毅などには見られない彼ならではの個性だろう。彼の演奏はつねに共演者を求めている。オリジナルな即興スタイルをもって他のミュージシャンに対するというのではなく、むしろ共演者の演奏を聴きすぎるほどに聴き、共演者の伴奏をし、共演者に伴奏されるデュオの展開をイメージし、二本のラインが絡まりあいながら先導役を交代していくところにアンサンブルを成立させようとしているようであった。人前で生楽器を演奏する機会の少ない勝井だが、エレクトリックな要素がないぶん、この日はその饒舌さがさらに際立っていたかもしれない。

 かたや、中村としまる、鶴山欽也、カール・ストーンをゲストにした過去の「にじり口」セッションを聴いてきたところで、音楽の越境性に気を奪われていたため迂闊にも気がつかなかったが、パール・アレキサンダーの即興は、蜘蛛の糸のように放たれる勝井のメロディーに絡めとられることのない、弦楽ノイズから構成されている。おもてむきメロディーのように聴こえても、彼女の耳は、おそらく弦の複雑なノイズ成分に焦点を合わせている。さらに、おなじコントラバス奏者の池上秀夫も、アレクサンダーがメンバーになっているベース・アンサンブル「Gen311」のリーダー齋藤徹も、楽器が生み出すノイズの複雑さに全身を集中させるような演奏をするが、どちらのミュージシャンにおいても、ノイズによる演奏は重厚長大なものとなる。あるいは重厚長大なシチュエーションのなかにノイズが配列されることとなる。彼らとくらべると、アレキサンダーの演奏はずっと軽やかだ。これはたぶん、彼女がひとつのシークエンスに固執したり、ある響きをバリエーションをもって発展させたりしないからだろうが、それでもコントラバスから生み出されるノイズ・サウンドは、即興演奏においていささかもその意味あいを損ねていない。このところの彼女のめざましい進歩は、たくさんの経験によって即興に自信をつけたこと、自分の演奏に手ごたえを感じていること、さらなる音楽の冒険に意欲を燃やしていることなどからやってきているように思われる。

 合奏によって、ロックなりジャズなりを連想させるひとつの音楽構造を作ってしまうことは、できるだけ避けられていた(おそらくこれはアレキサンダー側の即興観によるものだろう)ように思う。ふたりの「にじり口」セッションは、アレクサンダーの演奏に、それこそフレーズごとに何度も何度もアプローチをくりかえす勝井の姿が印象的なものだったが、それだけではなく、重厚なノイズを軽やかにもち運ぶアレキサンダーのテンポのよさが、勝井のメロディーがもっている運動性とシンクロする場面も多々見られた。こうした場面のなかで特筆しておきたいのは、演奏家としてのそれぞれの資質を生かすことになった第二部の前半である。というのも、ふたりの弦楽オスティナートがパラレルに持続するなかで、アレキサンダーはノイジーな低音の弓奏で激しいアタックをみせ、勝井はポルタメントをかけながらの不協和な(微分音を使っていたかもしれない)和声でそれぞれ共演者の演奏に対し、摩訶不思議なハーモニー空間を描き出したからである。もちろんふたりともにこうした場面の到来を偶然のものとし、ここからさらに次の展開を図っていくというようなことはなかったのであるが。


   【関連記事|パール・アレキサンダーのにじり口】
    ■「パール・アレキサンダーのにじり口」(2012-01-21)
    ■「パール・アレキサンダーのにじり口 with 鶴山欽也」(2012-03-19)
    ■「パール・アレキサンダーのにじり口 with カール・ストーン」(2012-04-17)

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喫茶茶会記

2012年5月24日木曜日

焙煎bar ようこ:跋扈トリオ



焙煎bar ようこ
第2回:跋扈トリオ
田中悠美子石川 高新井陽子
日時: 2012年5月18日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(お茶菓子・飲物付)
出演: 田中悠美子(太棹三味線) 石川 高(笙)
新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)


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 チェロの入間川正美をゲスト奏者に迎え、この3月にスタートを切った新井陽子プロデュースによる茶会記コンサート・シリーズ<焙煎bar ようこ>の第二弾が、太棹三味線の田中悠美子と笙の石川高を迎えておこなわれた。どちらの伝統楽器も、ピアノのような西洋楽器の対極をいくものであるばかりでなく、ミッシェル・ドネダなどよりずっと以前から、オリジナルに息による即興性を探究してきた石川にしても、女義太夫の伝統的な語りから出発して、三味線と声による即興性を探究してきた田中にしても、洋の東西に足をかけながらそのどちらにも属さない演奏によって、単独者の道を切り開いてきた演奏家である。それぞれの楽器を離れて、彼らの即興演奏をイメージすることが不可能なのはもちろんのこと、息となり声となるようなその身体のありかたそのものが、この楽器を通して発見されてきたもののように思える。彼らにあっては、楽器は演奏をするための道具でありながら、それ以上のなにかになっている。今回のゲスト奏者ふたりとくらべると、ピアノの前に座る新井陽子は、ピアノ線やハンマーに直接アタックする内部奏法をするにしても、とてもオーソドックスな楽器との対し方をしているといえるだろう。ピアノが家具のように大きいということも原因のひとつになっているだろうか、楽器の道具性をはみ出すことがなかなかできないのである。

 それでもトリオの即興演奏においてサウンドの交感がおこなわれるとしたら、それはいったいなにによっているのだろう。「洋楽」に対して「邦楽」とひとくくりにされることの多いゲスト奏者ふたりの演奏に共通して感じるのは、楽器を身体化することによって、即興演奏を成立させる枠組そのものが(見え)なくなることである。笙の響きも三味線の響きも、いわば裸のままでそこに立っている。聴き手が(耳ではなく)指で響きに直接触れているというような印象。しかしそれは、ひところの音響派論が主張していたような、演奏する主体を離れた即物的サウンドの生成といったようなものではなく、演奏者の楽器に対する衝動が、音楽構造だとか表現スタイルだとかいった(よけいな)ものを仲介することなく、ダイレクトに響きと結ばれたところにもたらされるサウンド体験ということではないかと思われる。共演者との対話という、言語とよく比較される、私たちがよく知っている即興演奏の手前には、彼らの即興の独自性を意味する、息の衝動、あるいは声の衝動に支えられた、このサウンドの直接性があるのではないだろうか。おそらくはこれが、私たちがしばしば「原色の感情」という文学的な表現に翻訳し、ひとつのトータルな出来事として受け取っているものの正体といえるだろう。

 メカニカルな機能和声が組みこまれたピアノという楽器において、新井陽子はこのようなアプローチをとっていない。とることができない。壁に寄せたアップライトピアノの位置から、共演者の演奏を背中で受け止めていた新井は、ピアノの一音を際立たせる散らし書きをしたり、アブストラクトなメロディーを使ったり、霧のようなクラスターサウンドを一面に敷きつめたり、素早いフレーズで鍵盤のうえを疾走したり、ハンマーを押しつけピアノ線をはじく内部奏法をしたり、オルゴールのような音具を使用したりと、さまざまなことをしながら、深い谷底のうえに橋を架ける想像力のジャンプによって、演奏を成立させようとしていた。かたや、切れ目のないサーキュラー・ブリージングによって、ミニマルに内声を変化させながらゆっくりと移行していくクラスターサウンドというのが笙の演奏だが、おそらくはこの共演が単なるサウンド・ディスプレイに終わらないようにという配慮からだろう、石川高はフレーズらしく聴こえる演奏をして、ときに新井陽子に寄り添うような演奏をし、また息づかいを細分化して、ときに三味線から延々とノイズを出しつづける田中悠美子に寄り添う演奏をして、扇の要役を引き受ける場面もあった。

 緊迫した場面の連続だった前半のトリオ演奏からがらりと雰囲気を変えるようにして、後半の冒頭は、新井陽子+田中悠美子、田中悠美子+石川高、石川高+新井陽子という、三つのデュオ演奏がおこなわれた。これもまた興味深いものだった。ふたつのデュオ演奏において、田中悠美子は、義太夫の演目から引用した断片的なフレーズを自由に改変してパフォーマンスするという、彼女のセッションではお馴染みの演奏を聴かせたのだが、これに対する新井と石川の対応が対照的だった。新井は異質なピアノサウンドをぶつけるところからヨナ抜き音階での解決を用意し、石川は笙ならではの演奏をそのまま変えずに、サウンド(=息)の強度だけで共演者に対したからである。また新井と石川のデュオでは、ピアノに向かう前に、新井が複数のオルゴールを部屋のあちこちに置くという、サウンドインスタレーション的なこともした。ほんの少し環境を変えることで、聴き手の耳は、別の聴き方の準備をはじめるのである。そんなふうに意外な場面展開を工夫することによって耳の想像力をジャンプさせるところに、彼女の即興演奏の秘密が隠されているのかもしれない。最後はふたたびトリオ演奏。大きな弓を使って三味線から切れ目のないノイズを引き出す田中の演奏を中心にした静かな雰囲気からスタートし、おたがいのサウンドを激しくぶつけあうクライマックスで大団円を迎えた。なかなかに真剣勝負の一晩だった。

     


  【関連記事|焙煎bar ようこ】

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2012年5月16日水曜日

原田 淳+入間川正美+竹田賢一@八丁堀 七針



原田 淳入間川正美竹田賢一
日時: 2012年5月13日(日)
会場: 東京/八丁堀「七針」
(東京都中央区新川2-7-1 オリエンタルビルB1F)
開場: 5:30p.m.,開演: 6:00p.m.
料金: ¥2,000
出演: 原田 淳(ds) 入間川正美(electric cello) 竹田賢一(大正琴、声)
問合せ: TEL.07-5082-7581(七針)


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 チェロ奏者の入間川正美が声かけをして集まった即興トリオのライヴが、八丁堀の七針で開かれた。個々にデュオ演奏はしているものの、本トリオでのライヴはこれが二回目で、初回公演は、昨年の11月19日に、レトロな赤坂のジャズスポット「橋の下」でもたれている。メンバーは、大正琴の竹田賢一とドラムの原田淳という、いずれも入間川とは長い交流のある旧知の演奏家のふたり。この晩の入間川は黒いZetaの電気チェロを使っていた。どうやら最近の共演ではそうしているらしいのだが、電気チェロの採用は、竹田の大正琴の能力を最大限に引き出すことを目論んだもので、彼自身のソロ演奏や、舞踏とのパフォーマンス、あるいは新井陽子とのデュオなどでは聴くことのできない、ひと味違う即興へのアプローチを見ることができた。このあたりの呼吸を竹田ものみこんでいるのか、大正琴の演奏もまた、エレクトロニクス・サウンドへと解体したり、スペース・ミュージックを思わせる深いエコーのかかった飛翔に身を委ねるというような展開によって、(これは私が知っているかぎりでの竹田賢一ということになるが)かつての彼のイメージを打ち壊すような場面展開をいくつもしてみせた。このふたりの間の共闘関係が、トリオの要になっているといえるだろう。

 ドラムの原田淳は、こうした共闘関係にあるエレクトリック・コンビを向こうにまわして、備えつけのドラムキットと持ちこみのシンバル類を使い、フリージャズのパルスのようなものではなく、ごく一般的なリズムを使って演奏した。ただそのリズムは、テンポやビートを出すためにあるのではなく、トーキングドラムさながらに、非対称のリズムによって共演者の演奏にコメントを入れるかのように、散発的に演奏されるものだった。おそらく原田は、あえてテンポを合わせないこと、ずらすことによって、共演者との間に意識的な距離をとりながら演奏しているのだと思う。それがトリオの枠組みを破壊することなく、その逆に、トリオが形作る音楽のトライアングルを広げるもの、寛げるものとして作用しているのは、やはり共演歴の長さからくる賜物なのだろうか。そのアンサンブルのありようの典型的なあらわれが、第一部の中盤に訪れた。電気的にエフェクトされたサウンドでミニマルなフレーズを刻み、チェロと大正琴がお互いを触発しあって演奏の速度をあげていく緊迫感のある場面で、原田はそうした流れに乗っていっしょに走り出すわけではなく、しかし同時に、まるで無視するというわけでもなく、音数が増え、また少なくなっていく小クライマックスになど関係ないというような顔をしながら、もう一段、強度をあげたサウンドを、散発的に散りばめていったのである。

 アフターアワーズの時間に、入間川は(A-MUSIKのような?)バンド名を考えたいと言ったが、そのことは、トリオの即興演奏がその場かぎりのセッションではないことを意味すると同時に、<原田 淳 - 入間川正美 - 竹田賢一>という、即興演奏の領域ではお馴染みの固有名詞を並列するスタイルとも異なる関係性を構築したいということの表明になっていた。私たちは、まるでロックバンドのようなグループ音楽であり、結社のような結びつきであるものをイメージしたらいいのだろうか。響きの細部が際立つアコースティックな環境でのチェロ演奏とはまったく違って、エレクトリック化された入間川の演奏は、サウンド的には、はるかに単調なものに聴こえる。それはここで目指されている音楽が、個人よりもグループ表現に重点を置いていることからくるのだろう。一方の竹田賢一は、トレモロによるメロディアスな大衆性と、エレクトリック化し、同時にノイズ化することによって異物となった大正琴のサウンドのなかに、日本的とも、アジア的とも、アラブ的ともいえるような汎ミュージックの世界性を構築しようとしている。即興演奏をこうした世界的なヴィジョンと再結合できるかどうかが、このトリオの鍵を握るように思われた。

 第二部の演奏には注文がついて、演奏の最初にアラビックなメロディをもつ竹田の「Sheep Year」を、また演奏の最後には、韓国の抵抗詩人・梁性佑の詩に竹田が12音階で曲をつけた「生きているうちに見られなかった夢を」を置いて、その間で即興演奏をするという構成がとられた。第一部が連続しておこなわれたのに対し、第二部は演奏の中頃でいったん音が消える瞬間があった。そこで最後の歌にいってもいいような場面で、もうひとつの即興セットが演奏され、ちょうどこの沈黙の間合いから、前後を折り返すような恰好で全体が構成されることとなった。薄氷を踏むようにして歌われる竹田賢一の歌は、歌の多くがそうであるような、なにがしかの共同体的な感情を代表するものでも、あるいはその逆に、誰も知らない極私的な感情を伝えようとするものでもなく、ましてや革命歌を批判的に再提示するものでもなければ、人々を革命的な事態に動員しようとするアジテーションでもない。それがもしなにかの働きを持つものだとしたら、これはA-MUSIKの音楽にも通じるものだが、先に述べたような、世界性へのインデックスというべきものなのではないかと思う。その歌の前に立った聴き手のなかに、なにかが問われたという切迫した感情を呼び起こす、そのような世界性へのインデックスとなるようなもの。

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