2012年10月30日火曜日

ノブナガケン・ソロ@阿佐ヶ谷ヴィオロン



ノブナガケン
NOBUNAGA Ken
Improvised Performance Solo
日時: 2012年10月29日(月)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: ノブナガケン(bamboos, frame drum, rattles, cymbals)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)



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 少し前、阿佐ヶ谷のイエロービジョンで開かれた「a shadowで、ダンサーの木村由と共演したノブナガケンのパフォーマンスについて、次のように書いたことがある。「聴こえるか聴こえないかの音量で、S音を強調したかすかなヴォイス」は、「リズムを出すことのない彼のフレームドラムやラトル類のように、意味のない、あらゆる感情を欠いたサウンド」で、「それ自体が白紙であること、空白であることによって、なにかの訪れを迎えるための『なにもない空間』を構成する。」ノブナガケンの演奏はすぐれてインスタレーション的なものだが、それだけにとどまらず、さらに「一種の儀式的なふるまいによって、ひとつの(なにものかの出現を迎える)場を開く。重要なのは、そのようにして開かれた場に、彼自身は姿をあらわさないということだろう。」こうしたノブナガケンの身の置きようは、徹底して聴く人、あるいは出来事の解釈者として、彼を様々なパフォーマンスにおける理想的な伴走者(伴奏者)にしているが、もし彼のしていることが、サウンドアートの類いではなく即興演奏だとしたら、行為のなかで<私>のありどころを表明することが、きっとどこかでなされているはずである。そんなおり、阿佐ヶ谷ヴィオロンでひさしぶりのソロ公演があると聞かされた。

 「即興を基本としつつも構成のある作品的なものをやる」と予告にあった「構成」とは、あらかじめ決められた楽器の種類を、即興の枠組みにするというものだった。おなじ「コンポジション」でも、音符を譜面にならべるような「作曲」ではなく、楽器の配置をもって演奏にしばりをかけるのである。誰彼の共演者ではなく、ギターという楽器が自分の音楽的な衝動の源泉であるとデレク・ベイリーも発言したことがあり、こうした考えに立った即興演奏はけっして珍しいものではない。また、楽器からオリジナルな声を引き出す作業を重視しているタイプの演奏家は日本に多く、方法やスタイルは違っても、風巻隆や灰野敬二なども、リズムの支配から打楽器を解放するような即興演奏をしている。(1)30cmほどの二本の竹筒[15分]、(2)フレームドラム[15分]、(3)束になったラトルと鈴、そして声[12分]、(4)種類の異なる三枚のシンバル(床置き)[15分]というのが、ノブナガケンのソロにおける楽器構成だった。演奏者の背後には背もたれつきのスツールが用意され、フレームドラム以外の演奏は、すべて座ったままでおこなわれた。特に異例だったのが最後の演奏で、床に敷いた黒い風呂敷のうえに三枚のシンバルをならべたノブナガは、椅子に腰かけたまま前に半身を乗り出し、とても演奏しやすいとはいえない姿勢のまま、スティックやマレットを使って演奏していた。

 二本の竹筒を打ちあわせ、擦りあわせする演奏はこれまで見たことがなかったが、あとで確認すると、今回が初めての演奏とのこと。不均衡なリズムにはテンポもビートもなく、思いがけず出る音をコントロールしながら、竹筒を打ちあわせる場所を少しずつ変えていき、サウンドのバラエティを探っていくというような演奏だった。気持ちを整えるためか、演奏の最初に、彼がよく使っているS音のヴォイスをかすかに響かせていた。二番目はノブナガケンのトレードマークになっているフレームドラムの演奏。座ったままでスタートしたが、中間部分のほとんどは立って演奏された。太鼓面を手のひらで擦る音と指先でたたく音とをランダムにアンサンブルしながらの演奏。ここまででライヴの前半が終了、なにがしかのスタイルがある音楽を演奏するのでもなく、楽器を演奏する演奏者みずからが示されるのでもない、楽器の声を聴くためのパフォーマンスがつづいていた。後半に入って最初のセットは、木の実を束ねたラトルを膝のうえにおいて両手でもみながら、あるいは裸足で足もとの鈴を鳴らしながら、うめき声のようにも、また読経のようにも聴こえるヴォイスをするというものだった。このセットが他のものより音楽的に聴こえたのは、おそらくヴォイスの使い方が違っていたからで、この演奏でだけ、荒い息づかいをともなって反復される呼吸のバイオリズムが、ノブナガの膝のうえでカチャカチャと鳴るラトル類の断片的なサウンドを下支えしていた。

 最後は、床に置かれた三枚のシンバルを椅子に腰かけたまま打楽するパフォーマンス。これもまた、微妙な音色の違いをもった金属の響きを、ランダムにアンサンブルするものだった。前述したように、即興演奏を制限するコンポジションは、演奏される楽器の順序によって構成された。またパフォーマンスする身体に対しては、椅子に座る・座らないを含め、用意された楽器の構造が制限を与えていたが、ひとつひとつのセットの内側に入ってしまうと、パフォーマンスに制限を加える要素はなにもない(ように見える)。そのために聴き手は、鳴っている楽器そのものと対面するような錯覚を覚える。「開かれた場に、彼自身は姿をあらわさない」という印象は、このようにしてもたらされるのではないかと思う。風巻隆や灰野敬二の場合、サウンドに対するパフォーマーの欲求はより鮮明だが、かたやノブナガケンの演奏は、もっとずっと禁欲的なあり方をしている。パフォーマーの<私>というものを、いくつもの輪の重なりで表現するとしたら、ノブナガケンがノブナガケンであるゆえんは、彼の即興演奏が、もっとも内周にある輪を一周するマイクロ・ミュージックである点にあると思う。その意味では、ノブナガと対極にいる灰野敬二などは、もっとも外周にある輪を一周する演奏家といえるだろう。そうした真逆のありようにもかかわらず、即興演奏を標榜する両者のパフォーマンスにおいて、リズムに対する態度や、サウンドそのものを立ちあがらせようとする姿勢には、驚くほど似通ったところがある。このあたりに彼らの演奏の謎を解く鍵があるかもしれない。



   【関連記事|ノブナガケン】
    「木村 由 with ノブナガケン: a shadow」(2012-10-06)
    「橋上幻想──橋月」(2012-07-30)
    「Bears' Factory Annex vol.5」(2012-02-27)

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2012年10月29日月曜日

森重靖宗+山崎阿弥+立岩潤三@祖師ケ谷大蔵カフェ・ムリウイ



森重靖宗山崎阿弥立岩潤三
日時: 2012年10月27日(土)
会場: 東京/祖師ケ谷大蔵「カフェ・ムリウイ Cafe Muriwui」
(東京都世田谷区祖師谷4-1-22-3F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
料金: 投げ銭
出演: 森重靖宗(cello)
山崎阿弥(voice) 立岩潤三(percussion)
問合せ: TEL.03-5429-2033(カフェ・ムリウイ)



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 小田急線・祖師ケ谷大蔵駅の北口を出て商店街をまっすぐいくと、二階建てのビルの屋上に、たくさんの観葉植物で飾られたオープンテラスのあるカフェ・ムリウイがある。このカフェを訪れる訪問客は、いったん階段でビルの二階に登ってから、さらに建物の裏手に外づけされた鉄製の非常階段を使って屋上のテラスに出なくてはならない。外づけの非常階段は、視界をさえぎるよしずが周囲に張りめぐらされているので、いっこうに非常階段らしくなく、よしずに囲まれた洞窟を電球をたよりに登っていくような感覚が、そこはかとない冒険心をかき立てる。カフェのある屋上まで、進路が間違っていないことを示す看板が、二階の通路のつきあたりと非常階段の踊り場にかけられている。テラスにアレンジされた屋上の奥にオープンエアーな南国風のカフェがあり、この場所で投げ銭ライヴがよくおこなわれている。一年前、チェロ奏者の mori-shige が、ユーグ・ヴァンサンやジャンニ・ジェッビアと活動休止コンサートをおこなったのもこの場所だった。本名に戻って活動再開した森重靖宗が、なじみのこの場所に帰ってきて、ヴォイスの山崎阿美やインド・アラブ系のパーカッショニスト立岩潤三と、初顔あわせのセッションにのぞんだ。

 あらためていうなら、ノイズの濁りを絶妙にブレンドした弦楽サウンドに思い入れ、快楽的かつ瞑想的、ときにエロチックな感覚さえ触発する森重靖宗のチェロ演奏は、音響的な実験とともに、即興演奏がドラスティックな変貌をみせたサウンド・インプロヴィゼーションの時代に登場してきた新たな個性である。作曲音楽のアンチテーゼでもあった即興演奏のなかにも、現代音楽のような重厚なヨーロッパの伝統を感じさせる硬質でアブストラクトなサウンドが流れこんでいるが、それを「無音」によって自己否定するのでもなく、邦楽器であれ民族楽器であれ、トラディショナルな楽器の使用によって相対化するのでもなく、さらにはケージ流のノイズ指向に一般化するのでもなく、いわば西欧的なものの美しき誤用によって、これまでにない別のものにシフトするというスタイルが、森重ほどうまくいっているケースはないのではないかと思う。もちろん、そうした客観的な評価抜きでも、彼の快楽的なサウンドは、その深々としたバイブレーションでじゅうぶんに人々を酔わせることができる。音の形ではなく、感覚そのものに焦点があたっていることが、彼の即興演奏を現代的なものにしている。そのような森重のチェロが、妖精のように軽々と野山をかけ歩く山崎阿弥のヴォイスや、インド・アラブ系の楽器を使い、細分化されたリズムで共演者の演奏に密着する立岩潤三のパーカッションと出会ったライヴでは、たぐいまれなリラクゼーション音楽が出現することとなった。

 第一部の冒頭、ソロでスタートした山崎阿美は、小鳥のさえずりや猿らしき獣の声に、メロディをもったヴォーカリーズをアンサンブルしながら、森のなかを思わせる情景を声でスケッチしてみせた。軽々としたイマジネーションによる無国籍で無重力の世界。そこに音色を小刻みに変化させるかすれたような森重の弦楽が侵入してくる。荒々しいサウンドを帯びはじめる山崎のヴォイス。さらに立岩のシェイカーやラトル類が加わると、山崎はいったん歌うことをやめ、演奏は爪弾かれるチェロのメロディと打楽器のデュオへと移行していった。おおまかな道筋は決まっていたかもしれないが、すべては淀みのない自然な流れのなかでおこなわれていた。アルコ弾奏のオブリガートをともなって、タブラ演奏をはじめた立岩の心地よいリズムに乗って、山崎がヴォーカリーズでソロをとりはじめると、今度は森重が演奏をいったんやめ、立岩と山崎のデュオになった。こうしたデュオの交換からトリオ・インプロヴィゼーションに移行していくなかで、山崎はじつにいろいろな声のサウンドを使い、ときにサーランギーのようにも響く森重のチェロと立岩のタブラがからみあう豊かな流れに、多彩な彩りを添えていた。最後の場面は、ノイズをくゆらせるだけのチェロの演奏がリードをとったが、流れるような自然さをもった演奏の展開は、これが初共演かと思われるほどの心地よさだった。

 第二部の冒頭では趣向があった。メンバー全員が山崎をはさんでステージ前にならび立ち、まるで漫才トリオのような声あそびのセッションをしたのである。森重の歌のうまさは承知しているが、インド・アラブ音楽を修めた立岩も口唱歌には堪能で、三人がサウンド尻取りのようなことをしながら、演奏からはわからないユーモラスな側面を爆発させたコーナーだった。第二部の最後でも、足もとに置かれたふたつのグラスをとりあげた山崎は、ヴォーカル・マイクのところまで持ちあげて打ちあわせたり、一方のグラスの水を、もう一方の空のグラスに注いでさわやかな音をさせたりして、印象的な幕切れを作っていた。それがなんのてらいもなく、まるでいま思いついたちょっとした悪戯みたいにしてなされることが、山崎のパフォーマンスを無国籍で無重力のものに感じさせ、また彼女自身を、軽々と空を飛んで、どこにでもあらわれる妖精のような存在にイメージさせる秘密が隠されているようだ。森重靖宗のチェロに「無重力」を感じることはないだろうが、三者三様のサウンドが持っている個性的な浮遊感が絶妙なアンサンブルを見せて、これまで聴いたことがないような一枚のサウンド・タペストリーを織りあげた一晩だった。





   【関連記事|mori-shige|森重靖宗】
    「森重靖宗(mori-shige)の活動再開コンサート」(2012-10-09)
    「mori-shigeの休業宣言ライヴ」(2011-10-10)
    「mori-shige&パール・アレキサンダー」(2011-10-04)

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2012年10月27日土曜日

【CD】300 BASSES: SEI RITORNELLI




300 BASSES
Alfredo Costa Monteiro - Jonas Kocher - Luca Venitucci
SEI RITORNELLI
Potlatch|P 212|Digipack CD
曲目: 1. Fuoco Fatuo (10:35)、2. Abbandonado (7:42)
3. Gira Bile (4:46)、4. Mala Garne (10:08)
5. Maledetto (7:54)、6. Fantasma (7:04)
演奏: Alfredo Costa Monteiro (accordion, objects)
Jonas Kocher (accordion)
Luca Venitucci (accordion, objects)
録音: 2011年11月23日-25日
場所: L'Arc Romainmôtier, Switzerland
デザイン: Octobre



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 ポルトガル出身でパリに長く滞在したアルフレッド・コスタ・モンテイロ、スイスのジョナス・コッシャー、イタリアのルカ・ヴェニトゥッチという三人のアコーディオン奏者が、昨年の11月、ともにスイスのロマンモティエにある文化施設ラルクにレジデンスしたとき収録された演奏が、フランスのポトラッチ・レーベルからリリースされた。トラッド系の音楽を予想しやすいアコーディオン・トリオのフォーマットだが、その片鱗は微塵もなく、ジャバラから送り出される空気の音だとか、リズムもメロディもない楽器の一音を(ときには複音を)保ちつづけるだけのサウンド・インプロヴィゼーションが展開されている。本盤に先行する試みとして、ソプラノ・サックス奏者のトリオを集めたミッシェル・ドネダの『Placés dans l'air』(2003年)がおなじポトラッチからリリースされているが、和声はもちろんのこと、メロディやリズムを排除してサウンドの地肌をむき出しにするという方向性はまったく変わらない。ソプラノの息のサウンドに相当するジャバラの空気のサウンドというのは、もしかすると偶然ではないかもしれない。なかでモンテイロとヴェニトゥッチは金属系のサウンド、あるいは電子ノイズを出す小物楽器も演奏しており、いっこうにジャバラ楽器らしくないアコーディオンのアブストラクトな響きと絶妙な匙加減でブレンドされている。こうした即興の最新動向は、美術のアンフォルメルに相当する、音楽の皮剥き作業と呼べるようなものだろう。

 サウンドの地肌をむき出しにしようとするこれらの試みは、同時に、たくさんの衣類を着こんで(安心して)いた聴き手の音楽に対する感覚をも、裸にせずにはおかない。それにもかかわらず、彼らの演奏は即興演奏であり、けっしてコンセプチュアルな音楽実験でも実験音楽でもなく、あくまでも演奏者たちの感覚そのものをぶつけあうところに主眼がおかれている。「特殊奏法」という言い方そのものが、これらの演奏を辺境的なものと錯誤させてしまうが、(一音だけを使うというような)極端な制限を与えられた即興演奏が、その不自由さのなかで、対話的な環境を作り出すためにトリオを構成するというのは、即興演奏を次なるステップに進ませるための順当な方向性だろう。そこで試みられる対話のなかでは、サウンドどうしが感応しあうような、これまでにない新しいスタイルが発見されている。金属ノイズや電子ノイズを加えることも、たとえば、過去にインスタレーションをしていたモンテイロなどにとっては、自然な作業であると同時に、響きのバラエティーが確保されることで、音楽経験をより豊かなものにするための配慮につながっている。リダクショニズムのような制限的な演奏方法は、すでに新しい発見ではない。そこで見いだされたサウンドの地肌に、演奏者がいったいなにを感覚しているのかが、サウンド・インプロヴィゼーションによる対話のなかで浮き彫りにされているのである。

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2012年10月26日金曜日

【CD】Ensemble X



Ensemble X
ensemble X
Red Toucan|RT 9344|CD
曲目: 1. X113 (16:53)、2. X8 (19:52)
3. X112 (15:53)、4. X111 (13:07)
演奏: Martine Altenburger (cello)、Tiziana Bertoncini (vln)
Uli Böttcher (electronics)、Xavier Charles (cl)
Markus Eichenberger (cl)、Nicolas Desmarchelier (g)
Carl Ludwig Hübsch (tuba, ensemble initiator, catalyst)
Harald Kimmig (vln)、Dirk Marwedel (extended sax)
Matthias Muche (tb)、Nils Ostendorf (tp)
Ulrich Phillipp (b)、Christoph Schiller (spinet)
Angelika Sheridan (fl)、Olivier Toulemonde (objects)
Michael Vorfeld (perc)、Nate Wooley (tp)
山田衛子 Eiko Yamada (recorders)、Philip Zoubek (p)
録音: 2008年12月11日、2011年5月22日
エンジニア: Carl Ludwig Hübsch
場所: ドイツ・ケルン「フランス学院」、
ドイツ・ベルリン「エクスプロラトリウム」
デザイン: Marcel Boucher


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 現在はケルンを拠点に活動しているチューバ奏者カール・ルートヴィッヒ・ヒュプシュが、200812月、スイスのバーゼルで開催された「リトルバング即興シンポジウム」の開幕コンサートに、ラージ・アンサンブルでの公演を委嘱されたところからスタートした16人編成のアンサンブルXが、このとき地元ケルンで収録されたスタジオ録音と、20115月にベルリンで収録された演奏をまとめ、カナダのレーベル<Red Toucan>から初のアルバムをリリースした。ドイツ在住の山田衛子がリコーダーで参加している。個性的なソロ演奏の応酬が要となってきた伝統的な即興オーケストラのスタイルから距離を置き、メンバーがその場で生まれるサウンドの生態系を注意深く聴きあい、アンサンブル全体をまるでひとつの生命体のように息づかせることがテーマとなった集団即興で、ミクロなサウンドの動きにメンバーが即座に応じるという、隅々にまで張りつめた緊張感が、アルバムの全体を貫いている。グループのリーダーは存在せず、世話役のヒュプシュも「首謀者 initiator」「触媒役 catalyst」とクレジットされている。光をキラキラと反射しながら、山頂から降りてくる霧のように、あるいは真夏に沸き立つ入道雲のように、形なく動きつづける無数のサウンド断片が、まるで意志を持っているかのようにそれ自身を呼吸している。

 即興演奏の歴史をひもとけば、オーガニックに自生するサウンド群に焦点をあてたこうした即興アンサンブルは、1990年代からすでにあちこちで姿を見せるようになっていた。例えば、よく知られたところでは、ソ連の作曲家グバイドゥーリナがススリンなどと組んで即興演奏していたグループアストレイアの演奏などにも、それまでの西欧的な即興概念を超えるような、あるいは個の表現を相対化していくような契機がはらまれていた。はるか東方にあって、西欧的なるものを迂回していこうとするロシア独自の方向性は、モスクワに文化センタードムを設立したプロデューサー、ニコライ・ドミートリエフにも受け継がれた。その意味でいうなら、アンサンブルXの演奏は、新機軸を出したというより、このように地下水脈となって流れる脱西欧的なサウンド・インプロヴィゼーションの系譜に連なる流れといえるだろう。洗練された演奏能力、洗練された耳の存在は、サウンド断片の粒がみごとに揃うところにあらわれているが、それが現代音楽を連想させる硬質な感じを帯びてしまうのは、やはりヨーロッパの文化的な特性ということになるのだろうか。




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2012年10月24日水曜日

長沢 哲: Fragments vol.13 with 賃貸人格



長沢 哲: Fragments vol.13
with 賃貸人格
日時: 2012年10月21日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 長沢 哲(drums, percussion)
賃貸人格(theremin, voice, vocal, pianica)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)

【賃貸人格|演奏曲】
「荒城の月」(instrumental)「白鳥のカバ」
「ハンガリー舞曲」「ロメオとジュリエット」
「愛しのワラ人形」「イエローぴーぽー」



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 打楽器の多彩なサウンドによって静謐な世界を描き出す長沢哲の美学と、ほとんど対極にいる演奏家が、第13回の<Fragments>公演にゲストとして迎えられた賃貸人格である。「賃貸人格」というのは、テルミンやマトリョミンを演奏する金子由加が、替え歌や自作の歌を「憑依的なテルミン弾き語り」で歌ったり、「明るく発狂した即興パフォーマンス」で活動するときに使っているアーチストネームだ。おそらく世俗の埒を踏み外すこのときばかりは、人格を賃貸に出すことにしていますという意味なのだろう。パフォーマンスそれ自体も、「多重人格」的な変容を重ねていく(ほとんど顔芸と区別がつかないのだが)ものとしておこなわれるが、時と場所によって、彼女は他にもいろいろな人格を憑依するようである。すなわち、いろいろな芸風を持っているようである。目の前の女性が百面相を作りながら絶叫したり、白目をむいて歌ったりすれば、身の置きどころがなくなってしまう聴き手がいても当然だろうが、テルミンと即興ヴォイスのコンビネーション、音響ガジェットの使用、フェイク歌謡などは、超歌唱” を標榜する巻上公一のもとで即興の手ほどきを受けた彼女の経歴を明かすものであり、けっしてエキセントリックなギミックなどではない。誤解してはならないと思う。2011年にピアノの三浦陽子が組んだ即興セッションで出会ったふたりは、今年の春に高円寺ペンギンハウスでデュオ演奏をしており、これが二度目の共演となる。

 例によって、賃貸人格ソロ、長沢哲ソロ、賃貸人格+長沢哲デュオという構成で進んだライヴで、最初にソロをした賃貸人格は、髪をキリッと気持ちよくうしろに束ね、最初に「荒城の月」をテルミン独奏で情緒豊かに奏でた。そこから一転して雲行きが怪しくなる。歌のなかに垣間見えるシャープで皮肉な批判精神を百面相でボロボロに崩しながら、調子はずれのテルミンをともない、サンサーンスの曲を使った「白鳥のカバ」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」(第5番)、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」など名曲を替え歌にし、十八番である自作の「愛しのワラ人形」や「イエローぴーぽー」などのナンセンス・ソングが歌われていく。黒のスラックスとハイネックのうえに、ピンク色のテルミンとおそろいのピンク色の薄手の上着をまとう衣装が美しかったが、かたや狂気とユーモアをテーマにした歌詞の数々は、抜くことのできない針のようなものをたくさん出していて、それが(他人を傷つけることがないように?)まず最初に彼女自身を突き刺すという自虐的なありようをしていた。ワラ人形に五寸針を刺すのに「ちょっとの間がまんして」と気をつかう「愛しのワラ人形」の分裂症的愛憎劇。狂人を拉致していく救急車があるという都市伝説をあつかった「イエローぴーぽー」では、町中を走りまわるたくさんの救急車が高速道路で渋滞するという悪夢が、あっけらかんと明るく歌われた。ナンセンス・ソングの形を借りた賃貸人格の歌は、現代の精神風景をえぐり出すようなリアリズムに支えられたものだと思う。

 賃貸人格のパフォーマンスを意識したのだろう、長沢哲のソロも、いつもの静かな展開を後半にまわし、前半を力強いドラミングで構成した。いつものように、打楽器のサウンドに耳を集中させるのではなく、連打されるトレモロ風の、あるいはトーキングドラム風のリズムをエネルギッシュに展開していくと、またたく間に時間が経過していった。こうしたドラミングを聴くと、長沢ならではの静謐な演奏というのは、凝縮された瞬間の連続によって構成されたものであることがわかる。奇妙な言い方になるが、音色への集中というのは、一瞬のうちに長い時間を経験させるようなものなのだろう。あるいは、逆に、そうした時間経験のありかたを、私たちは時間の「凝縮」と呼ぼうとしているのだろう。後半に入ると、長沢のキーサウンドになっている鉄琴からシズルシンバル(小さな鉄球が鎖状になった紐をシンバルのうえに垂らしてシズル効果をあげるタイプ)を強調する演奏へと進み、いつもの長沢打楽に戻ってソロをたたきおさめた。こうした対極にいるふたりが共演するデュオ演奏で、束ねていた髪をほどいた賃貸人格は、髪を振り乱して歌う巫女的なパフォーマーに変身し、テルミンの他にも、ドラムの音をさせる音響ガジェット、絶叫や「バルサンたいてー」という言葉も使ってのヴォイス・パフォーマンス、二種類のピアニカなどを次々にくり出して即興演奏にのぞんだ。

 長沢の静謐なドラミングの世界と、ものごとすべてをフェイクしていく賃貸人格の激突は、長沢の世界を破壊しないように、小さめの音で出されるキッチュな音響ガジェットの演奏にはじまり、泣くようなヴォイスからピアニカ演奏へ、さらにテルミン・サウンドへとゆっくり移っていった。賃貸人格の演奏パターンが変化するたびに、長沢もまた、場面をチェンジしていくようにリズムパターンを変化させ、彼女のパフォーマンスに音で背景を与えていく。あえてふたつの極を立てるのではなく、徹底して賃貸人格につきしたがう演奏をしていたのだが、テルミンになると、賃貸人格の演奏はいっきょに大きな自由度を獲得し、長沢のソロを前面に出したり、自分自身でソロをとったりを自在におこない、即興するテルミン奏者としての実力を遺憾なく発揮した。後半の部分では、坦々とつづく長沢のアフリカ的なリズムパターンに、賃貸人格がどこぞの山唄をフェイクしたヴォーカリーズを乗せるアンサンブルがつづいたが、最後の場面で落としどころを見つけたふたりは、テルミンに戻ってデュオ演奏の幕を閉じた。テルミンだけで公演を通すこともできるのだろうが、多重人格プレイのスイッチを入れるというところが、賃貸人格の賃貸人格たるゆえんになっているようである。真逆の美意識を持っているふたりだけに、デュオ演奏は緊迫した瞬間の連続だった。






   【関連記事|長沢 哲: Fragments】
    「長沢 哲: Fragments vol.12 with zma」(2012-10-01)
    「長沢 哲: Fragments of FUKUSHIMA」(2012-08-21)
    「長沢 哲: Fragments vol.9 with 吉本裕美子」(2012-06-25)
    「長沢 哲: Fragments vol.8 with カノミ」(2012-05-31)

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2012年10月23日火曜日

【CD】長沢 哲: 凪に眠る 波に遊ぶ vol.7


長沢 哲 Solo Improvisation Live
凪に眠る 波に遊ぶ vol.7
Fe-T.NGSW|no serial number|CD-R
曲目: 1. 2005.7.20 ♯1 (4:02)、2. 2005.7.20 ♯2 (9:01)
3. 2005.7.20 ♯3 (5:57)、4. 2005.7.20 ♯4 (5:37)
5. 2005.7.20 ♯5 (5:58)、6. 2005.7.20 ♯6 (5:25)
7. 2005.7.20 ♯7 (9:49)
演奏: 長沢 哲(drums, percussion)solo
録音: 2005年7月20日
エンジニア: 飯島拓也
場所: 東京・荻窪「cafe gallery ひなぎく」
写真&デザイン: 長沢 暁

※アルバムは下記のサイトから購入が可能




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 2000年代の中盤、打楽の長沢哲が、かつて荻窪にあったカフェ・ギャラリーひなぎくで開いていたコンサート・シリーズ「凪に眠る 波に遊ぶ」のライヴ演奏をCD-Rでリリースしている。中央線荻窪駅の沿線にあったひなぎくは、裏窓から中央線の線路が見えるような環境にあり、本アルバムにも、静謐な打楽器のサウンドに重なって、減速しながら駅に滑りこんでくる電車の響きが聞こえてくる。それだけでなく、突然、扉を開けて入ってくるカフェの客や、身近で息をひそめている人のけはいなども収録されている。こうした日常的な音とともにある打楽サウンドは、2005720日のひなぎくの空気をまるごと封じこめた缶詰のように、長沢哲が生きたある時代をスナップしたものといえるだろう。数年にわたって継続されたひなぎくでのソロ公演であるが、本盤はベスト演奏集として製作されたものではなく、ある日あるとき、そこにあったすべての音がひとつの命を形作るようにして収録された、日付のある音楽なのである。

 「凪に眠る 波に遊ぶ」というタイトルに言いあらわされている、静かに息づく打楽のバイブレーションは、現在のソロ演奏にもまるごと引き継がれている。しかしそれだけでなく、この時代の長沢打楽を支えるもうひとつの大きな特徴は、ときにそうしたバイブレーションを断ち切って出現するサウンドそのものへのダイレクトな集中である。隙間の多い、多くの沈黙をうちにはらんだサウンド構成は、なによりもそうした響きを徹底して聴きたいと願う耳の欲望から生まれてきたものであることが、雄弁に物語られている。リズムは不均衡なものとなり、こういうサウンドをあらしめたいという欲望の絶対的な速度によって、生まれたての無垢な状態で楽器から引き出されてくる。長沢打楽の魅力のひとつは、こうしたサウンドとの根源的な関係を、聴き手にもういちど思い出させてくれるところにあるのではないだろうか。なかでも何度もくりかえしあらわれる鉄琴の響きは、小さな存在に対する彼の心よりの共感を示すとともに、ガムランに通じる幻想的な雰囲気が、アジア的なるものへの嗜好も反映していて、特別に印象深いものとなっている。

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2012年10月19日金曜日

豊住芳三郎・照内央晴 DUO




豊住芳三郎・照内央晴 DUO
日時: 2012年9月26日(水)
会場: 東京/入谷「なってるハウス」
(東京都台東区松が谷4-1-8 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 豊住芳三郎(drums, 胡弓) 照内央晴(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3847-2113(なってるハウス)



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 今年から活動をスタートさせ、すでに二度の東京公演をおこなった東京インプロヴァイザーズ・オーケストラに参加して、演奏家たちとの新たなネットワークを開いているピアニスト照内央晴は、21世紀の高度情報化社会に暮らしながら、あえてパソコンを持たないという意識的なライフスタイルの選択と、ひとたび楽器の前にすわれば、剛健なフリージャズをたたき出すワイルドさをひとつにした、野武士のような演奏家である。かたや日本のニュージャズ/フリージャズの草創期から活躍してきたドラマーの豊住芳三郎は、高木元輝や阿部薫などとの交流をはじめ、洋の東西を問わず、即興演奏史のいたるところに顔を出すキーパーソンで、すでに歴史の生き証人というべき重鎮となっているが、10年ほど前から新たに胡弓の演奏をはじめるなど、感覚の刷新を忘れずにいる。最近ではドラム演奏を捨て、胡弓だけでパフォーマンスすることもあるようである。ふたまわりも世代の違うこのふたりが出会い、剣豪勝負にのぞむデュオ・パフォーマンスが、入谷なってるハウスで開かれた。これまでにもデュオで演奏する機会はあり、これが何度目かの共演になるとのこと。スピード感のある展開で一丸になる場面と、足をとめて相手の出方をうかがう場面が交代であらわれる演奏は、伝統的なフリージャズのスタイルを現代において生きなおす演奏になっていた。

 共演者が思わずもらす片言隻句(フレーズ)を聴きのがすことなくとらえ、そこから即座に新しい演奏を展開していくふたりのインタープレイは、複雑にからまりあいながら、みるみるうちに生い茂っていく植物を目の前に見るようで、瞬間瞬間をおろそかにしない緊張感にあふれた時間を、一体になって作りあげていた。強烈なリズムとともに、自分の身体を相手の身体にぶつけていくような演奏のありようが、言語を断ち切る肉体の噴出といわれたフリージャズらしさに直結していくのだが、そうしたエネルギッシュな演奏によって音楽の一体感を確保しつつも、照内央晴のピアノは、パルスによる音の奔流をあえて断ち切り、まるでそこだけ静止したかのように感じられる単音のフレーズやコードをさしはさんでくる。私の記憶のなかの豊住芳三郎は、周囲がどんな方向に進もうとも、音量をしぼったり、用意された小物に移ったりして調子を合わせながら、ミニマルなリズムだけは終始一貫してキープしつづけるという、ハン・ベニンク流の饒舌な演奏をしていたが、照内央晴とのデュオでは、みずからもリズムの流れを断ち切り、そこにぽっかりとあいた空白地帯で、それまでとは別種の演奏をしていた。たとえば、開演前に飲んでいたコーヒーカップと皿を使っての演奏(衝撃を与えすぎて最後には割れてしまった)であり、あるいはメロディのない変則的な胡弓の演奏などである。

 コーヒーカップと皿のように、日用品を利用した意外性のある演奏は、フリージャズでしばしばお目にかかるところである。少し前に「毒食」セッションの森順治がビールの空缶をベルに投げこんでいたし、来日を重ねているシチリアのサックス奏者ジャンニ・ジェッビアが、コミカルな味をねらってゴム手袋を使うところを何度となく目撃したこともある。フリー・インプロヴィゼーションではまずないことなので、おそらくこれは伝統的にジャズマンならではの諧謔精神に由来するものなのだろう。太鼓のうえにのせたコーヒーカップと皿をすりあわせてカリカリいわせたり、食器どうしを触れあわせてカチャカチャいわせたり、スティックでソフトにたたいたりするのであるが、フリージャズのパルスが途切れた空白地帯を、なんでもありのアナーキーさや、即興演奏のナンセンスさを暴露するようなサウンドが埋めていくことになる。かたや共演者の照内はこうしたアイディアを採用することなく、ピアノ線を直接はじいたり、ピアノ線のうえに紙をおいて演奏したり、ピアノの鍵盤の下にあたる部分やピアノ線を保持する枠の部分をヒットするなど、おだやかな特殊奏法に限定してバリエーションを出していた。ピアノ演奏に関して、彼は比較的オーソドックスなプレイヤーといえるだろう。

 最初に導入を考えたとき、先駆者である向井千惠に相談したという豊住の胡弓が、コーヒーカップと皿のような、関節外し的演奏の延長線上にあるものといえるのか、いささか判断がつけにくい。というのも、最初期ならいざ知らず、独学で修めたという胡弓のソロは、すでにちょっとした味つけの域をはみ出し、ドラム演奏と別のサウンド領域をはっきりと切り開くようになっていたからである。照内とのデュオで、マイク増幅なしで弾かれた胡弓は、キーキーという子ネズミの声のような異形のサウンドとして出現した。ポルタメントで激しく上下していくライン、ときおり鳴らされる不協和音、メロディらしきものの断片(あるいは痕跡)、弓が絃に引っかかったようにして起こる突然の停止、可聴域ギリギリでかすかに聴こえる高音のサウンド、こうしたものの連続がセットの前後半に登場し、それぞれ10分間ばかりつづくのである。セットの前半、しばし考えあぐねていた照内は、ピアノ本体を手のひらでヒットする演奏で応じ、後半は、ピアノ線のうえに紙を置いてビリビリとさわり” の音をさせながら、リリカルな和声をつけることで応じていた。新しい豊住芳三郎がそこにいる。豊住のファンが、胡弓の演奏を期待してやってくるとは思えないが、攻めて、攻めて、攻めつづけるドラミングで強い印象を残す豊住とはまったく別の豊住が、新たな異形のサウンドをたずさえて、いまもステージに立ちつづけているのである。



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2012年10月17日水曜日

池上秀夫+伊藤 匠+秦真紀子+吉本裕美子@現代HIGHTS



tamatoy project presents
Friday Night Session
日時: 2012年10月12日(金)
会場: 東京/池ノ上「現代 HIGHTS」
(東京都世田谷区北沢1-45-36)
出演: 池上秀夫(contrabass) 伊藤 匠(sax)
吉本裕美子(guitar) 秦真紀子(dance)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,800+order
問合せ: TEL.&FAX 03-3469-1659



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 池ノ上の北口に軒をならべる商店街のはずれで営業する「現代HIGHTS」は、半地下になった木造のレストラン兼ギャラリーなのだが、玄関口にCD販売コーナーを常設したり、持ちこみイベントによる金曜日の「Friday Night Session」を開催したりしている。吉本裕美子と秦真紀子が共同主宰する<tamatoy project>も、この場所でいくつかの即興セッションを開催してきた。現在では、2組のデュオ演奏をしたあと、全員でカルテット演奏をおこなうパターンに落ち着いているとのことである。この方法に従うと、最初に2組のデュオを考えれば、最後にカルテット演奏するメンバーは自動的に決定されることになる。ほとんど伝統的といっていい即興セッションの常套手段ではあるが、このことが、コントラバスの池上秀夫とサックスの伊藤匠をゲストに迎えた1012日のライヴでは、おなじ「即興演奏」といっても、ミュージシャンの音楽性に大きな開きがあったため、ほとんど異種格闘技に近い組合わせで演奏することになった。なにごともやってみなくてはわからないという意味で、この種のセッションには音楽実験の側面もあると思うが、演奏を合わせる、合わせないというベーシックな約束事さえ習慣化していないため、この晩のライヴは、いささか混乱含みの展開に終始したように思う。簡単にレポートするにはハードルの高いライヴだが、できるところまでやってみることにしよう。当日の演奏は、(1)伊藤匠+秦真紀子、(2)池上秀夫+吉本裕美子、(3)全員、の順番でおこなわれた。

 現代HIGHTSにはライヴ専用のステージがないため、演奏には奥の展示室があてられ、視界をさえぎる喫茶室の家具を脇にどけて、そこを客席にしていた。周知のように、演劇では、四角い額縁舞台の観客席側を「第四の壁」と呼ぶが、現代HIGHTSでは実際にある展示室のしきりをはずして客席側とつなげるため、観客はあちらの部屋の出来事をこちらで見ている感じで、感情移入がしづらくなっている。最初に秦真紀子とデュオをしたサックスの伊藤匠は、ふたつの部屋を区切る敷居のうえに椅子を置き、そこから移動しないばかりか、演奏する姿勢さえ変えずにじっとしたまま、キーをパタパタいわせる音、管に息を吹きこむだけの演奏、フレーズにならないサックス音、足もとのペットボトルを踏む音など、それがサックスでなくてもいいような音を使って、ポスト音響の地平を前提にした即興演奏をした。いうならば、音楽的でないものと思われているサウンドを意識的に使いながら、フレーズやサウンドを使う通常の即興演奏の外周を作り、そこから足を踏み外して内側に落ちてしまうことのないよう、注意深く歩いていくというような演奏になっていたのである。ステージ奥に置かれた椅子からスタートした秦真紀子は、終始一貫して、この演奏者との距離を測りかねているように見えた。というのも、共演者に近づいても、あるいは共演者から遠ざかっても、なんの変化も起こらないからである。それは伊藤が最初から彼女とは別のレイヤーを動いているからであり、彼の問題にしていたのがコミュニケーションそのものではなく、その構造だったからである。伊藤に接近した秦は、なみなみとビールのつがれた足もとのグラスを奪うと、彼に手渡しで戻すというような緊急手段に出たが、グラスを受け取った伊藤が飲み物に一口つけたのは、共演者に対する配慮というべきもので、ホッとさせる場面だった。

 伊藤匠の演奏スタイルがつねにこうしたものなのかどうかわからないのだが、少なくともこのパフォーマンスにおいて、彼が通常の即興セッションを回避しているとき、秦真紀子はいったいどうすればよかったのだろう。共演者などいないかのようにふるまい、ダンスだけのための空間配分をおこない、彼女自身の衝動だけに耳を傾け、ソロ・パフォーマンスを徹底すること。逆説的だが、おそらくそのときはじめて、秦のダンスは伊藤のサウンドに触れることになったのではないかと思う。ふたつのレイヤーがどこまでも交差することなく並行していくとき、そこでなにが起こるのか、おそらくはそうした(構造的な)問いを(共同で)形作ることになったに違いない。かたや、池上秀夫と吉本裕美子のデュオは、先行したデュオが接点を見いだせなかったのに対して、最初から最後まで、まさにふたつのレイヤーが並走する状態のなかでおこなわれた。吉本のギターアンプのコンディションが悪く、特に前半はノイズに悩まされながらの演奏だったが、デュオの関係は、それぞれの判断でソロらしきもの、タイミングを合わせる部分、演奏の着地点を探すアイコンタクトなどのコミュニケーションで間合いを詰めながら、ソロと伴奏でもなければ、ひとつの音楽構造やリズムやドローンを共有するものでなく、フレーズや音色による対話でも、固有の即興スタイルの競合でもなく、どこまでいっても交差することのないふたつの平面が、まるで双子のように、おたがいを照らし出しながら進行していくというものだった

 最後のカルテット演奏は、2組のデュオ演奏のありようを解体して、新しい関係を再構築するまでにはいたらず、結果的にではあるが、この2組の関係のありようが、ひきつづいて演奏のなかに持ちこまれることになった。敷居の右側にせり出している壁のうしろに隠れ、ときおり客前にあらわれては、単音を鳴らすだけの演奏をした伊藤匠は、ここでもセッションの外側に出て、そこに別の構造をぶつけるような(作曲的)演奏をしていたし、池上秀夫と吉本裕美子はふたつのレイヤーの並行状態を(今度はややドローン気味に)持続させていたし、その両者の間を、「はないちもんめ」の遊びのように往来してダンスした秦真紀子は、壁の裏側に立つ寡黙な伊藤に(なんとかステージに引き出そうとしたのだろうか?)アプローチするような具合だったからである。即興演奏の概念や方法が細分化した八幡の薮知らず状態(これはかならずしも否定的なことではない)を見るにつけても、こうした即興セッションが、特別な事前準備のいらないローテクなコミュニケーションの方法だった時代は終わったように思う。そこにダンスや舞踏の身体表現が加わることで、状況はさらに濃密に、毛細血管の先端にいたるまで、混沌の度合いを高めつつある。あっさりと「応用問題の時代」ということもできるが、すべてが流動的なため、いったいどこを軸にして出来事を受けとめたらいいのかが、次第に不透明になりつつあるように思う。そうした錯綜する環境がストレスの多いものであることはたしかなのだが、それでも起こるべきことは起こるし、のぞまれる共演は実現するということであろう。



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2012年10月16日火曜日

木村 由: ひっそりかん



木村由無音独舞公演
ひっそりかん
日時: 2012年10月14日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アートホール」
5F展示ギャラリー
(東京都世田谷区松原2-43-11)
出演: 木村由(dance)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金: ¥1,000



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 即興演奏がサウンドの容れ物になる場所や環境に大きく左右されるのとおなじように、作品を作りあげるのではなく、身体をその場に投げ出すという即興性の高いダンスをするときのパフォーマーにとって、公演場所は重要な意味をもっている。それが出来事の半分を決定してしまうといってもいいほどだ。このところ演奏家との共同作業や即興セッションをしているダンサーの木村由が、明大前キッド・アイラック・アートホールの屋上に乗っている展示ギャラリーで、無音独舞公演「ひっそりかん」を開催した。誰がつけたのか、「無音独舞公演」というネーミングは、今年キッドで誕生日コンサートを再開した竹田賢一の「大正琴即興独弾」を連想させる。「独弾」と「独舞」。場所がおなじキッドだから、ということも理由になっているだろうが、木村は実際に今年の大正琴即興独弾にゲスト参加しており、おそらくはそのとき、ソロをする竹田の姿に強く感じるところがあったのだろう。とはいえ、木村由の無音独舞公演は、もちろんこれが初めてのことではない。彼女の公演歴をひもとけば、ダンス白州の水の舞台(2005年)や大倉山のちゃぶ台ダンス(2006年、2007年)など、演奏者がいない、音がないというよりも、自然のノイズ音にあふれる環境のなかでパフォーマンスした例はいくつも見つかる。

 サッシの扉から自然光がふんだんにふりそそぐキッドの最上階は、どうしても照明が必要になる屋内会場と違って、環境に開かれた性格をもっていた。エレベーターは四階までしか届かず、そこから屋上にある展示ギャラリーには、徒歩で外づけのコンクリート階段を登っていかなくてはならない。会場の外にあるバルコニーからは、眼下に井の頭線の明大前駅へとのびる街路を見渡すことができる。街路をはさんだ反対側には、力蔵ビルタワーパーキングの無趣味な壁が、見晴らしをさえぎっている。小雨模様の当日は、雨にふられながら展示ギャラリーに入るなど、観客もまた、環境に対する身体感覚を強く喚起される具合であった。照明の切られた会場は、しっかりと閉められたサッシの扉から入る淡い自然光に満たされ、ステージの下手側からダンサーにやってくる光線は、上手側に深い影を投げかける。木村の場合、ライトが入ったいつものダンス公演でも、壁にできる影は重要な役割を果たしているが、彼女をフェルメールの絵に描かれた女たちのように見せていた自然光の影には、それ以上に重要な意味があったと思う。というのも、音もない、ライティングもない、能面もない、ちゃぶ台や昭和モードあふれる衣装もないというように、イメージをふくらませるためにつかまることのできるようなものをすべて排してのぞんだステージは、この自然光によって、左右非対称の意味場を形成したからである。むしろこのような光に満ちた場を全身で感じるため、あるいは観客に全身で感じさせるため、できるかぎりのものが削ぎ落されたかのような趣きがあった。

 少し言葉を足せば、「左右非対称の意味場」とは、自然光が作る影の存在によって、上手と下手が、あるいはダンサーの右手と左手が、バランスを崩し、左右対称の構造を失うということである。身体が上手を向くとき、彼女は影を胸元に抱えることになり、身体が光のやってくる下手を向くとき、影は彼女の背後に長く伸びることになる。窓のないコーナーの最奥部に立てば、影は彼女の全身を包み、床に座れば下半身を水のようにおおいつくす。こうした影のありようが、木村ならではの身ぶりに終始まとわりつくことで、反復のない、変わりつづけるからだの表情が形作られていく。人間の身体構造に従って、左右、上下、前後をインデックスしていった木村のパフォーマンスは、観客の視線に助けられながら、彼女自身の身体とたったひとりで向きあい、そのベーシックなありようをひとつひとつ確かめていくというような質素なものだった。以前に述べたことがあるが、確認すれば、ここでいう「インデックス」とは、「索引をつける」という辞書的意味ではなく、広義において、ダンスがまるで索引のようにそれ自身ではない何事かを指し示すことをいうものである。そのような身体の喚起力が、ある場合には、能面とともに亡霊的なるものを呼び出し、ある場合には、観客がそこで実際に目にしている窓や扉を、ここではない別の世界へと接続するのではないかと思われる。木村が私たちに見せるものは、自己表現しようとする身体がさまざまなシステムや記号をまといたがるのとは、根本的に別のありようをした身体のさまといえるだろう。

 蔵前のギャラリーキッサを会場にした公演「並行四辺系」でも、木村は窓を重要な要素としてダンスにとりこんでいた。<窓辺に立つ女>はパフォーマンスの最初と最後に登場し、暗闇に包まれた窓外を見つめることで、<いま・ここ>の外部にあるなにかをインデックスしていた。「ひっそりかん」の冒頭では、イスラエルの嘆きの壁に向かう人々のような壁に向かう女が登場したが、最後の瞬間に<窓辺に立つ女>が出現した。その直前、サッシの扉にそっと触れるダンサーは、冷気で冷たくなったガラスに手形を残しながら、簡単に触れられる窓そのものではなく、けっして触れることのできない光に触れようとしたように思う。この場をあらしめている光は、天上からふりそそぐ絶対的なものであり、けっしてこちらから触れることができない。それはただ向かうこと=インデックスすることができるだけのものなのである。宗教的なセンスをもった観客なら、サッシの扉は、そのまま宗教画の描かれたステンドグラスに感じられたことだろう。しかしながら、その直後に出現した<窓辺に立つ女>は、「並行四辺系」のケースとは異なり、自然光を乱反射して光の平面を作っていた磨りガラスの扉を開け放ったのである。扉の外には、どんよりとした雨天の空と、「危険ですのでこの上に物を置かないで下さい」という張り紙のあるテラス、向かいにある立体駐車場の壁が見えている。木村は雨を落とす天を仰ぎ、窓際に腰をおろすと、そのまま倒れこむ。ぶらぶらとする脚。やがて寝たままの姿勢でテラスに抜け出ると、そのまま扉を閉めてパフォーマンスは終了した。彼女の身体がインデックスしていた扉の外にはなにもない。あるいは、なにもないことさえ、彼女の身体はインデックスしようとした。触れようとした光もまた、無限の彼方に遠ざかってしまう。<いま・ここ>の外部とは、木村由の身体が喚起する想像力の形なのである。



   【関連記事|木村 由】
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    「竹田賢一: 大正琴即興独弾」(2012-08-14)
    「橋上幻想──橋月」(2012-07-30)
    「木村 由: 夏至」(2012-07-23)

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2012年10月12日金曜日

小山景子: 80年代ラディカルの系譜




江戸アケミ、そして篠田昌已
TALK & LISTENING
── 江戸アケミとじゃがたら特集 ──
日時: 2012年9月23日(日)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 4:30p.m.、開演: 5:00p.m.~(終了予定: 7:00p.m)
料金: ¥1,200(飲物付)
出演: 小山景子、竹内 翔
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)



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 若くして他界したミュージシャンも多く、すでに伝説として語られはじめた1980年代のインディーズシーンで、ラクリモーザのボーカリストとして、あるいはソロ歌手として音楽活動していた小山景子が、同時代の証言者として、いま現在の地点から「80年代ラディカルの系譜」を語るレコード鑑賞会「江戸アケミ、そして篠田昌已」が、吉祥寺のサウンド・カフェ・ズミで開催されている。第一回の「江戸アケミとじゃがたら特集」(923日)には、若い竹内翔が聞き役で参加した。「80年代のニューウェイヴ体験者にとって、あらゆることは私的な痛覚から始まっているはずだ」という文章ではじまる小山のレジュメは、のっぴきならないそれぞれの事情から早世せざるをえなかったふたりのミュージシャンをとりまく環境の過酷さを、おぼろげながらに語っている。そのような過酷さを生き延びた小山みずからも、逝ってしまった者に対してのいわれなき負い目を、心に刺さった針としていまも持ち運んでいるひとりのように思われる。個人的な体験談としてならいえることも、歴史を語るにはあまりに当事者であり過ぎるし、無惨な若々しさを捨てきれずに立ち往生してしまったというには、すでにあまりに時間がたちすぎている。憂鬱になるほど生煮え状態にあるのが私たちの季節といったらいいだろうか。1980年代を経験した当事者に、語るための準備はできているのだろうか。江戸アケミが、あるいは篠田昌已がいったい誰だったのかを、いまなら語ることができるのだろうか。

 そうした問題を脇に置くと、「江戸アケミ、そして篠田昌已」の第一回は、長らくじゃがたらを聴いてきたらしい音楽ファンを聴講者に迎え、資料を客観的に整理する作業を通して小山が作成した年譜に従い、バンド活動が開始された1979年からアケミが風呂場で変死した1988年の翌年まで、その年々を代表する一曲を「参考曲」として年代順に聴いていくレコード鑑賞を中心にした会となった。いまでは、メジャーな音楽番組で、じゃがたらが特集されること自体がないという。そうした意味では、江戸アケミや篠田昌已の活動を通して1980年代を再評価しようとするこの鑑賞会も、音盤に残された実際の音を介して記憶を伝承するという、吉祥寺ズミのコンセプトに通じるものかもしれない。こうした記憶の伝承に関する問題は、伝承させたい世代の人間が来店せずに、すでに事情通の音楽ファンがやってきてしまうという点にあるだろう。次回は、じゃがたらのホーンセクションとして参加していた篠田昌已が、江戸アケミの死を乗り越え、彼自身の病いからくる危機感をもってリーダーバンド結成に歩みはじめ、やがてコンポステラ結成へといたる過程が音盤でたどられるはずである。篠田昌已を、あるいは篠田昌已の音楽を、「80年代ラディカルの系譜」と呼べるかどうかはわからない。というのも、コンポステラやちんどんの活動などから見えてくるのは、むしろ「ラディカル」の意味をラディカルに組み替えようとする音楽戦略だからである。たとえそうしたやり方を、篠田自身が露骨に公言することはなかったにしても。次回のイベント開催が待たれるところである。



 【次回開催】
  第二回「篠田昌已(コンポステラ)特集」(11月25日)

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2012年10月10日水曜日

SALK Session@阿佐ヶ谷イエロービジョン




Special Session feat. SALK
ダニエル・ビュス - クミコ・オカムラ - 広瀬淳二 - 吉本裕美子
Daniel Buess - Kumiko Okamura - Junji Hirose - Yumiko Yoshimoto
日時: 2012年9月24日(火)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「イエロービジョン」
(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-2-2 阿佐谷北2丁目ビル B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,800+drink order
出演:ダニエル・ビュス(percussion, drums, noise, electronics)
広瀬淳二(tenor sax)吉本裕美子(guitar)
※クミコ・オカムラは体調不良で不参加。
予約・問合せ: TEL.03-6794-8814(Yellow Vision)



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 スイスのバーゼル市に在住するドラム/エレクトロニクス奏者ダニエル・ビュスと、ギターとヴォイスのクミコ・オカムラのふたりが、“SALK” を結成して来日ツアーをおこなう機会をとらえ、積極的な演奏活動を展開しているギタリストの吉本裕美子が、サックスの広瀬淳二を誘ってデュオをフィーチャーする即興セッションを組んだ。ビュスはこれまでにも何度となく来日しているとのこと。コンサート当日は、オカムラが体調を崩して参加できなくなったためトリオ編成となり、プログラムを変更して、第一部はトリオ演奏(ビュスはドラムも演奏、19分)とビュスのソロ(25分)、第二部は広瀬+吉本(18分)、ビュス+吉本(11分)、ビュス+広瀬(6分)という三組のデュオ演奏がおこなわれた。セッションはいずれも初共演のセットであった。ライヴ当日、「ZENI GEVA」のロゴが入ったTシャツを着用したビュスは、打楽器の衝撃音をノイズとして感覚するようなタイプの演奏家で、さまざまな民族音楽を学んできた経歴を持ちながらも、即興セッションにおいては、打楽器や電子ノイズによるハードコア色の強いエネルギー・ミュージックを指向しているように思われた。シンプルな道をたどって即興演奏にやってきているわけではない共演者ふたりを、彼はどのように感じただろうか。

 サウンドの意味を支える音楽ジャンルをはずれていくとき、ジャズを経由した即興演奏は、イディオムによる対話的なシチュエーションを前面化するが、ノイズを経由した即興演奏は、サウンドの交感によって音楽の根源的なエネルギーを引き出してこようとする。エフェクターによる音色変化に、即興的な衝動のありかを(少なくともそのひとつを)おいている吉本のギター演奏も、サクソフォン・ソロにおいて、エヴァン・パーカー流のフリー・インプロヴィゼーションからスタートし、音響的なアプローチにも積極的に挑戦してきた広瀬淳二のサウンド・インプロヴィゼーションも、こうしたビュスのノイズ指向と重なりあう部分を持つものだ。ビュスが途中からドラムをたたいた最初のトリオ・インプロヴィゼーションは、突然の衝撃音をもって先制攻撃をしかけてきたビュスの後を追うようにスタートした。三人三様の演奏がもつれあい、ひとつの音塊になるようなハードコアなクライマックスがあった後、そこで終わりたくなかったのだろう、吉本が彼女ならではの浮遊感のあるギターを弾きつづけてソロの場面をつくり、最後にふたたびビュスがたたみかけるような打撃音で演奏をしめた。広瀬淳二のサックスは、ビュスが生み出すノイズの弾幕に、ハードコア期のジョン・ゾーンを思わせるテンションの演奏で応じる一方、ミニマルな吉本のギター演奏には、フレーズの細分化によって応じることで、トリオの演奏にうまく橋を架ける役割を果たしていた。


 サンプリングされた打撃音とエレクトロニクス、ノイズなどから構成されるダニエル・ビュスのソロ・パフォーマンスは、ノイズ・ミュージックのようなドローンを形成せず、ひとつのシークエンスから次のシークエンスへと、いくつかの場面をつないでいくものだった。そのなかで、ループをかけながら演奏する場面だとか、巨大なガラガラのような自作のノイズ発生装置を激しくシェイクする場面がはさみこまれる。日本人がしばしばノイズを(切り刻むことのできない)生命体のように扱うのとは違い、インダストリアルなテンションを求めるビュスの感覚は、いささか大味なものに感じられた。出てはいけない音が残ったり、間違えた音をフェードアウトしたり、切れてはいけない音が聴こえなくなったりしていたのは、マシーンの操作に慣れていないのか、あるいは多くの音源を複雑に構成しようとするところで起きる操作ミス(タッチミス)だったのだろう。かつては時間の経過とともに自然発生してくる音の流れを、意識的に切断するカットアップの手法がめざされる演奏もあったが、ノイズの強度を最大限にすることは求められても、ビュスがしていた場面転換にそうした形式主義はなかった。そのようにしてシークエンスをつなげていったソロ演奏の全体像は、ビュスがしている演奏のハイライト部分を抽出して並べたディスプレイの音楽、ショーケースの音楽として聴こえた。


 第二部の冒頭で初手あわせした広瀬淳二と吉本裕美子のデュオ演奏は、第一部のトリオ演奏に匹敵する長い演奏となった。瞬間を立ちあげるハイテンションのサウンドを次々にくりだして、緊張感にあふれる場面をつなげていく広瀬のサックス演奏と、フレーズがフレーズでない落としどころを持たない浮遊感のなかで、どこまでもたゆたっている無時間的な吉本のギター演奏は、水と油といってもいいだろうが、そうであるからこその面白さがふたりの出会いにはあった。演奏の前半をフレーズをミニマルに細分化することで構成し、後半を部分的にサーキュラーブリージングも使いながらロングトーンを中心に構成(吉本はe-bowで対応)した広瀬は、このユニークなギタリストの演奏の内側になんとか入ろうと食らいついていった印象で、高度な演奏を高度と感じさせないすばらしいパフォーマンスを披露した。つづくビュスと吉本のセットは、ディストーションをかけたロック的なサウンドとリズムを交換するダイナミックで明快なもの。そして最後になったビュスと広瀬のデュオは、ホワイトノイズの暴風のなかの尺八というような出だしから、強打とフラジオ・サウンドの組合わせへと静かに移行していく凝縮されたインタープレイになった。第二部のデュオ演奏は、第一部のトリオ演奏ですでに出そろっていたものを、それぞれの局面でピックアップし、拡大するものだったといえるだろう。

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